第8話 ヲトヒメ───?

 カミタケのどこか安心させるかのような笑顔を見て、ヤトヲミの全身から力が抜ける。


 ぺたりとへたり込んだヤトヲミの額に、タチハが布を押し当てた。


「手当を…!」


 タチハの慌てた様子を見て、ふっと笑った。


どうやら額に流れていたものは血だったようだ。


 目を閉じて風を呼び込むように息を吸うと、生暖かい額の傷が塞がるのがわかる。


 ───アマツカミの治癒の力は、自分自身にも有効だ。


 なのに、……あの影がカミタケにつけた焼けこげた跡にはまるで効かなかった。


 目を開けてふっと瞳の力を抜くと、言った。


「旗を上げよう!…ハヤテたちに知らせないと……!!」



 勝利の直後の戦場は、歓声よりも静寂のほうが重かった。


 まだ落ち着かないヤハ之神殿。


 丁寧に寝かされたオヲナギの亡骸を、一人静かに見つめていた。


 彼は死の間際、「生も死もなく、常世にこの地を治めるのは私だけだ」と何度も何度も呟いていた。まるで、呪いのように。


 ヤトヲミは兄の赤髪を見つめる。


 正統なアマツカミ同士の皇子として生まれた兄からすれば、人間を父に持つ異父弟ヤトヲミは、浅からぬ存在なのだろう。


 彼の睨みつけてくる瞳を思い出して胸が軋んだ。


 目を伏せた時、背後から足音と共に、ハヤテの低い声が響いた。


「オウツオノ神の兄弟を、連れてきた」


 その言葉に現実に引き戻されたヤトヲミは、後ろを振り返る。


 ハヤテとカミタケ、ハヤトキに囲まれるように、二人の男が立っていた。


 短く切り揃えた黒髪。厚い胸板。斧を振るう者特有の腕の膨らみ。


 ───歳の頃は、カミタケと変わらなさそうだ。


 兄である青年が口を開いた。


「オウツオノ神の血を継ぐ、兄ウツテ。弟ウヅテ。まずは陳謝したい。……俺たちはどうかしていた」


 突然の言葉にヤトヲミは慌てて手を振る。


「えっと……怪我人は大丈夫?」


 兄弟は顔を上げ、ぽかんと目を見合わせた。そして、吹き出すように笑う。


「なるほど、見た目通りだ」


「こんな穏やかな“赤髪”がいるとはな」


 からかわれているのか褒められているのか分からず、苦笑を返す。


 だが次の瞬間、空気が固まった。


「オヲナギを葬った途端、こちらに寝返るとはな」


 カミタケの刺すような声音。

 無理もない。


 この兄弟は、オヲナギと共にヤハ之国を長年に及ぶ圧政で苦しめてきたのだ。


 兄弟の背筋がぴくりと伸びる。


 しかしウツテは視線を逸らさないまま答えた。


「……情けないとは思っている。二十年前のアシハラ大戦、俺たちクニモリカミに選択肢は二つしかなかった。

 ヤハ之国のように殲滅されるか。あるいは、我らイワ之国のように屈するかだ」


 父王ウツヅテは屈服を選んだ。

 それは国の民のため、そして“血”を絶やさぬため。


 静かに語られるその声音に、弟ウヅテが続く。


「だが──約束された“血の継承”は破棄され、オウツオノの血族は、アマツカミに四ツ音の名前を奪わた。

 王の四ツ音を持つ親父と母は……アズ乃地に罪送りになった。──そこからは……悪夢だった」


「悪夢?」


 問い返すヤトヲミの声に、ウヅテは震える息を吐いた。


「アマツカミの中に、黒い影がずっと燻っていて、───服従を誓った俺たちにも、その影が体の芯に絡み付いてくる感覚があった。寝ても醒めても、……まるで自分の意思ではない黒い感情が沸々と湧いているんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、ヤトヲミの指先が冷えた。



 ───黒い影。



 オヲナギを討った瞬間に噴き上がり、自分を貫こうとし、カミタケの肩を焼いた“あれ”と同じ。


 思わず寝かされているオヲナギを振り返った。


 喉が詰まり、息をするのも苦しい。


 兄弟は静かに、しかしはっきりと言った。


「俺たちの体は、ただその影の命令のまま……動くしかなかった」


 その言葉を聞いて、ヤトヲミは息を飲み込んだ。


 苦しい沈黙を破ったのは、ハヤテだった。


「お前達は、“黒髪の少女”を追っていなかったか?」


 突然の問いに、兄弟は目を瞬く。


「……誰のことだ?」


 そうつぶやいてから、ウツテが何かを思い出すように、額に手を当てた。


「いや、違う。───オヲナギが叫んでいた。“ヲトヒメを捉えろ”と」


 ヲトヒメ───?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る