第8話 ヲトヒメ───?
カミタケのどこか安心させるかのような笑顔を見て、ヤトヲミの全身から力が抜ける。
ぺたりとへたり込んだヤトヲミの額に、タチハが布を押し当てた。
「手当を…!」
タチハの慌てた様子を見て、ふっと笑った。
どうやら額に流れていたものは血だったようだ。
目を閉じて風を呼び込むように息を吸うと、生暖かい額の傷が塞がるのがわかる。
───アマツカミの治癒の力は、自分自身にも有効だ。
なのに、……あの影がカミタケにつけた焼けこげた跡にはまるで効かなかった。
目を開けてふっと瞳の力を抜くと、言った。
「旗を上げよう!…ハヤテたちに知らせないと……!!」
*
勝利の直後の戦場は、歓声よりも静寂のほうが重かった。
まだ落ち着かないヤハ之神殿。
丁寧に寝かされたオヲナギの亡骸を、一人静かに見つめていた。
彼は死の間際、「生も死もなく、常世にこの地を治めるのは私だけだ」と何度も何度も呟いていた。まるで、呪いのように。
ヤトヲミは兄の赤髪を見つめる。
正統なアマツカミ同士の皇子として生まれた兄からすれば、人間を父に持つ異父弟ヤトヲミは、浅からぬ存在なのだろう。
彼の睨みつけてくる瞳を思い出して胸が軋んだ。
目を伏せた時、背後から足音と共に、ハヤテの低い声が響いた。
「オウツオノ神の兄弟を、連れてきた」
その言葉に現実に引き戻されたヤトヲミは、後ろを振り返る。
ハヤテとカミタケ、ハヤトキに囲まれるように、二人の男が立っていた。
短く切り揃えた黒髪。厚い胸板。斧を振るう者特有の腕の膨らみ。
───歳の頃は、カミタケと変わらなさそうだ。
兄である青年が口を開いた。
「オウツオノ神の血を継ぐ、兄ウツテ。弟ウヅテ。まずは陳謝したい。……俺たちはどうかしていた」
突然の言葉にヤトヲミは慌てて手を振る。
「えっと……怪我人は大丈夫?」
兄弟は顔を上げ、ぽかんと目を見合わせた。そして、吹き出すように笑う。
「なるほど、見た目通りだ」
「こんな穏やかな“赤髪”がいるとはな」
からかわれているのか褒められているのか分からず、苦笑を返す。
だが次の瞬間、空気が固まった。
「オヲナギを葬った途端、こちらに寝返るとはな」
カミタケの刺すような声音。
無理もない。
この兄弟は、オヲナギと共にヤハ之国を長年に及ぶ圧政で苦しめてきたのだ。
兄弟の背筋がぴくりと伸びる。
しかしウツテは視線を逸らさないまま答えた。
「……情けないとは思っている。二十年前のアシハラ大戦、俺たちクニモリカミに選択肢は二つしかなかった。
ヤハ之国のように殲滅されるか。あるいは、我らイワ之国のように屈するかだ」
父王ウツヅテは屈服を選んだ。
それは国の民のため、そして“血”を絶やさぬため。
静かに語られるその声音に、弟ウヅテが続く。
「だが──約束された“血の継承”は破棄され、オウツオノの血族は、アマツカミに四ツ音の名前を奪わた。
王の四ツ音を持つ親父と母は……アズ乃地に罪送りになった。──そこからは……悪夢だった」
「悪夢?」
問い返すヤトヲミの声に、ウヅテは震える息を吐いた。
「アマツカミの中に、黒い影がずっと燻っていて、───服従を誓った俺たちにも、その影が体の芯に絡み付いてくる感覚があった。寝ても醒めても、……まるで自分の意思ではない黒い感情が沸々と湧いているんだ」
その言葉を聞いた瞬間、ヤトヲミの指先が冷えた。
───黒い影。
オヲナギを討った瞬間に噴き上がり、自分を貫こうとし、カミタケの肩を焼いた“あれ”と同じ。
思わず寝かされているオヲナギを振り返った。
喉が詰まり、息をするのも苦しい。
兄弟は静かに、しかしはっきりと言った。
「俺たちの体は、ただその影の命令のまま……動くしかなかった」
その言葉を聞いて、ヤトヲミは息を飲み込んだ。
苦しい沈黙を破ったのは、ハヤテだった。
「お前達は、“黒髪の少女”を追っていなかったか?」
突然の問いに、兄弟は目を瞬く。
「……誰のことだ?」
そうつぶやいてから、ウツテが何かを思い出すように、額に手を当てた。
「いや、違う。───オヲナギが叫んでいた。“ヲトヒメを捉えろ”と」
ヲトヒメ───?
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