第9話 「…“平和の世界”を」

 響くその名前に、ヤトヲミの胸がヒヤリと冷えた。


 アマツカミにのみ与えられる“ヲ”の響き。


 ウツテは続ける。


「けれど、知られたくないようだった。人間の何人かを追跡に行かせて……」


 ウツテは黙り込む。記憶が曖昧なようだ。


 それを見て、ハヤテが淡々と言った。


「目覚めを待つしかないな」


 その声が合図だったのかもしれない。タチハが、走り込んできた。


「目が覚めました!」


 驚いてタチハを振り返る。知らずに息が止まってしまった。


 タチハが一つ息を吐き出すと、言った。


「男の子の方だけですけど……」


 その報告に頷いて、ハヤテはヤトヲミを見る。

 

 「ついてこい」と、目が語っている。


 一度唾を飲み込むと、ヤトヲミはハヤテと共に歩き出した。





 少女はまだ眠っている。


 少年は少女を守るように周囲を睨みながらそばに座り込んでいた。


 破れ、汚れ、解けている衣服。

 ちりぢりの黒髪を邪魔くさそうに一つに結んでいるものの、中途半端な髪がところどころ浮いていた。


 彼は入室したヤトヲミを一度ギッと睨みつけてから───ふと、肩の力を抜いた。


「ヤトヲミ様ですか?」


 その声は、少年の域を出たばかりのどこか透き通った低さだった。


 ヤトヲミが静かに頷くと、少年は天を仰いで大きく声を出した。


「助かったぁー!」


「えっと…」


 ヤトヲミはただ戸惑う。ハヤテも腕を組んで黙っている。


 一通り息を吐き出した少年は、安心した笑顔を浮かべながら、話し出した。


「俺はヤヒコって言います。ただの人間です。

あ、でも罪人かな?一応盗人やってたんで。で、こっちは───」


 そう言いながら、眠っている少女を振り返る。


「ヲトヒメ様。……アマツカミの末姫様です」


「は?」

 ヤヒコの言葉に、間抜けな声が出てしまった。

 思わずハヤテを見る。


 ハヤテは特段驚いた様子もなさそうだが、それでも言葉を選んでいた。


「ヲヲキミの子に、姫はいないはずだ。───男ばかりのはずだが?」


「はい、表向きは」


 ヤヒコは臆することなく続けた。


「ヤトヲミ様を産んで、一度亡くなったヲリヒメ様は───呼び戻されたんです。ヨモツクニから」


「!」


 ヒヤリと心臓がちぢこまった。珍しくハヤテもぴくりと眉が動いた。


 ヤトヲミは息を整えたあと、どこか言い聞かせるように言った。


「まさか!……どれだけ死者に恋焦がれようと、ヨモツクニを穢してはいけない。ヨモツカミがこの地を覗き込めば、生者と死者の境界が薄れてしまう」


 自分の言葉に、さらに冷えた。


 兄神オヲナギは「生も死もなく、常世にこの地を治めるのは私だけだ」と囁いていた。


 そしてオヲナギから現れた影は、彼の死を否定しているようだった。


 死者の国であるヨモツクニ。ヨモツクニを納める、ヨモツカミ。



 …ヨモツカミは、生まれもせず死にもしない、死者の国の唯一神だった。



 ヤヒコは少しむっとして言った。


「神様の事情なんて知らない!

……けど、俺はヲトヒメ様を逃すように言われたんだ。

 このままじゃ、兄神様たちに体を狙われるからって、ヲリヒメ様に───」


 ハヤテの声がヤヒコの語尾に被せられた。


「では、…ヲリヒメが生きていると言うのは、本当なのか……?」


 ヤヒコはハヤテを睨む。疑われていることが不快なようだ。


「ヲリヒメ様は、ヨモツクニから引き戻されて、息はしているけど、ずっと人形みたいだ。それでも“生きてる”って言うなんて、神様はひどいな」


 ヤヒコの言葉にハヤテが沈黙した。初めて見るハヤテの困惑に、悪いと思いながらもヤトヲミは内心クスリと笑った。


 けれど、それどころではない。ヤトヲミはヤヒコに向き直る。


「ヲトヒメは、いつ産まれたの?」


 ヤヒコは肩をすくめた。


「俺も全部は知らないし、どこまで本当かは分からないけど……」


 神様って怖いよな と小さく付け加えてから、ヤヒコは語る。


「ヨモツクニから呼び戻されて、すぐ生まれた。だから───“双子”なんだって言ってた」


 ヤトヲミの血液が、全て干上がった気がした。


 ヤトヲミを産んですぐ、死んだ母ヲリヒメ。


 ヨモツクニから呼び戻されて、すぐに生まれたヲトヒメ。


 その髪は、アマツカミの赤ではなく、人間の色だ。───タケルの色だ。


 ハヤテの短い問いが、聞こえた。


「ヲヲキミは?」


 ヤヒコは眉を寄せる。


「ああ、あの神様、超絶狂ってるよね。

ヲリヒメ様を呼び戻すために、子供達にヨモツカミの血を飲ませたんだって」


 そう言って心底気持ち悪そうに顔を歪めた。


「お陰で、アマツカミ様達は───酷く荒れてるよ」


 そこまで話してから、ヤヒコはヲトヒメを振り返る。そして静かに言った。


「いくら神様でも……あんまりだ」


 重い沈黙が流れた。


 息を忘れていたヤトヲミは、ふとヲトヒメの寝顔を見つめる。


 戻ってきた鼓動はうるさくて、彼女が“妹”なのだと、血が訴えていた。


 何とか声を絞り出す。


「話してくれてありがとう。……疲れてない?」


 ヤヒコは優しいヤトヲミの声色にビクッと肩を震わせた後、笑った。


「へへ…そんな風に言われるなんて思わなかった。…言われた通り、頼って良かった」


 ヤヒコの言葉に、ヤトヲミも微笑む。記憶にない母が、自分を頼るようにヤヒコに伝えたのかもしれない。


 その事が、どこか誇らしかった。


 ヤヒコはさらに呟く。


「“タケル様に似て、優しいはず”って言ってたから」 


 その言葉が、ちくりと胸に刺さった。


 父の影が、重い。


 それに気づかないふりをして目を伏せる。


 ヲヲキミは子供達にヨモツカミの血を飲ませ、さらに彼らに服従したクニモリカミも人間も……“生”も“死”もない“何か”に作り替えようとしているのかもしれない。


 ハヤテの声が響いた。


「アマツカミは、もはやアシハラの大地を統べるものでは無い。この地に生きる“命”を、ヨモツカミに差し出すとは…」


 そしてヤトヲミの目をまっすぐに見つめた。


 ハヤテの瞳が、青く光っている。……神の目がヤトヲミを射抜いている。


「ヲヲキミを打ち、アシハラの大地を住まうすべての“命”に等しく戻すのだ。……タケルの目指した、平和の地へ」


 ハヤテの言葉に、奥歯がぎりっと軋んだ。ハヤテの目を見つめ返す。


 アマツカミから国々を解放し、ヨモツカミを招いてしまったヲヲキミを打つ。


 その役割が、タケルとヲリヒメの皇子であるヤトヲミに、突きつけられている。


 ハヤテの目を見つめ返しながら、自然と瞳が赤くなっていく。紅玉のように。


 足元から舞い上がる風が、ヤトヲミの赤髪を揺らした。


「…分かってる。掴み取るよ。父の目指した“平和の世界”を」


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