第9話 「…“平和の世界”を」
響くその名前に、ヤトヲミの胸がヒヤリと冷えた。
アマツカミにのみ与えられる“ヲ”の響き。
ウツテは続ける。
「けれど、知られたくないようだった。人間の何人かを追跡に行かせて……」
ウツテは黙り込む。記憶が曖昧なようだ。
それを見て、ハヤテが淡々と言った。
「目覚めを待つしかないな」
その声が合図だったのかもしれない。タチハが、走り込んできた。
「目が覚めました!」
驚いてタチハを振り返る。知らずに息が止まってしまった。
タチハが一つ息を吐き出すと、言った。
「男の子の方だけですけど……」
その報告に頷いて、ハヤテはヤトヲミを見る。
「ついてこい」と、目が語っている。
一度唾を飲み込むと、ヤトヲミはハヤテと共に歩き出した。
*
少女はまだ眠っている。
少年は少女を守るように周囲を睨みながらそばに座り込んでいた。
破れ、汚れ、解けている衣服。
ちりぢりの黒髪を邪魔くさそうに一つに結んでいるものの、中途半端な髪がところどころ浮いていた。
彼は入室したヤトヲミを一度ギッと睨みつけてから───ふと、肩の力を抜いた。
「ヤトヲミ様ですか?」
その声は、少年の域を出たばかりのどこか透き通った低さだった。
ヤトヲミが静かに頷くと、少年は天を仰いで大きく声を出した。
「助かったぁー!」
「えっと…」
ヤトヲミはただ戸惑う。ハヤテも腕を組んで黙っている。
一通り息を吐き出した少年は、安心した笑顔を浮かべながら、話し出した。
「俺はヤヒコって言います。ただの人間です。
あ、でも罪人かな?一応盗人やってたんで。で、こっちは───」
そう言いながら、眠っている少女を振り返る。
「ヲトヒメ様。……アマツカミの末姫様です」
「は?」
ヤヒコの言葉に、間抜けな声が出てしまった。
思わずハヤテを見る。
ハヤテは特段驚いた様子もなさそうだが、それでも言葉を選んでいた。
「ヲヲキミの子に、姫はいないはずだ。───男ばかりのはずだが?」
「はい、表向きは」
ヤヒコは臆することなく続けた。
「ヤトヲミ様を産んで、一度亡くなったヲリヒメ様は───呼び戻されたんです。ヨモツクニから」
「!」
ヒヤリと心臓がちぢこまった。珍しくハヤテもぴくりと眉が動いた。
ヤトヲミは息を整えたあと、どこか言い聞かせるように言った。
「まさか!……どれだけ死者に恋焦がれようと、ヨモツクニを穢してはいけない。ヨモツカミがこの地を覗き込めば、生者と死者の境界が薄れてしまう」
自分の言葉に、さらに冷えた。
兄神オヲナギは「生も死もなく、常世にこの地を治めるのは私だけだ」と囁いていた。
そしてオヲナギから現れた影は、彼の死を否定しているようだった。
死者の国であるヨモツクニ。ヨモツクニを納める、ヨモツカミ。
…ヨモツカミは、生まれもせず死にもしない、死者の国の唯一神だった。
ヤヒコは少しむっとして言った。
「神様の事情なんて知らない!
……けど、俺はヲトヒメ様を逃すように言われたんだ。
このままじゃ、兄神様たちに体を狙われるからって、ヲリヒメ様に───」
ハヤテの声がヤヒコの語尾に被せられた。
「では、…ヲリヒメが生きていると言うのは、本当なのか……?」
ヤヒコはハヤテを睨む。疑われていることが不快なようだ。
「ヲリヒメ様は、ヨモツクニから引き戻されて、息はしているけど、ずっと人形みたいだ。それでも“生きてる”って言うなんて、神様はひどいな」
ヤヒコの言葉にハヤテが沈黙した。初めて見るハヤテの困惑に、悪いと思いながらもヤトヲミは内心クスリと笑った。
けれど、それどころではない。ヤトヲミはヤヒコに向き直る。
「ヲトヒメは、いつ産まれたの?」
ヤヒコは肩をすくめた。
「俺も全部は知らないし、どこまで本当かは分からないけど……」
神様って怖いよな と小さく付け加えてから、ヤヒコは語る。
「ヨモツクニから呼び戻されて、すぐ生まれた。だから───“双子”なんだって言ってた」
ヤトヲミの血液が、全て干上がった気がした。
ヤトヲミを産んですぐ、死んだ母ヲリヒメ。
ヨモツクニから呼び戻されて、すぐに生まれたヲトヒメ。
その髪は、アマツカミの赤ではなく、人間の色だ。───タケルの色だ。
ハヤテの短い問いが、聞こえた。
「ヲヲキミは?」
ヤヒコは眉を寄せる。
「ああ、あの神様、超絶狂ってるよね。
ヲリヒメ様を呼び戻すために、子供達にヨモツカミの血を飲ませたんだって」
そう言って心底気持ち悪そうに顔を歪めた。
「お陰で、アマツカミ様達は───酷く荒れてるよ」
そこまで話してから、ヤヒコはヲトヒメを振り返る。そして静かに言った。
「いくら神様でも……あんまりだ」
重い沈黙が流れた。
息を忘れていたヤトヲミは、ふとヲトヒメの寝顔を見つめる。
戻ってきた鼓動はうるさくて、彼女が“妹”なのだと、血が訴えていた。
何とか声を絞り出す。
「話してくれてありがとう。……疲れてない?」
ヤヒコは優しいヤトヲミの声色にビクッと肩を震わせた後、笑った。
「へへ…そんな風に言われるなんて思わなかった。…言われた通り、頼って良かった」
ヤヒコの言葉に、ヤトヲミも微笑む。記憶にない母が、自分を頼るようにヤヒコに伝えたのかもしれない。
その事が、どこか誇らしかった。
ヤヒコはさらに呟く。
「“タケル様に似て、優しいはず”って言ってたから」
その言葉が、ちくりと胸に刺さった。
父の影が、重い。
それに気づかないふりをして目を伏せる。
ヲヲキミは子供達にヨモツカミの血を飲ませ、さらに彼らに服従したクニモリカミも人間も……“生”も“死”もない“何か”に作り替えようとしているのかもしれない。
ハヤテの声が響いた。
「アマツカミは、もはやアシハラの大地を統べるものでは無い。この地に生きる“命”を、ヨモツカミに差し出すとは…」
そしてヤトヲミの目をまっすぐに見つめた。
ハヤテの瞳が、青く光っている。……神の目がヤトヲミを射抜いている。
「ヲヲキミを打ち、アシハラの大地を住まうすべての“命”に等しく戻すのだ。……タケルの目指した、平和の地へ」
ハヤテの言葉に、奥歯がぎりっと軋んだ。ハヤテの目を見つめ返す。
アマツカミから国々を解放し、ヨモツカミを招いてしまったヲヲキミを打つ。
その役割が、タケルとヲリヒメの皇子であるヤトヲミに、突きつけられている。
ハヤテの目を見つめ返しながら、自然と瞳が赤くなっていく。紅玉のように。
足元から舞い上がる風が、ヤトヲミの赤髪を揺らした。
「…分かってる。掴み取るよ。父の目指した“平和の世界”を」
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