おねえさん、事後の様子

まぶたの裏で、薄白い朝の光がにじんでいた。


意識の浮上を妨げるように、アルコールの残滓と、まとわりつくような心地よい重力が全身を支配している。


ふと、胸元にあった柔らかな質量が、するりと離れていく感覚があった。

微かな衣擦れの音。鼻腔をくすぐる、甘く重たい香水の残り香と、人肌の匂い。


「よく寝ちゃって…」


耳元で、吐息のような呟きが落ちた。

くすぐったいような甘い響き。けれどその語尾には、微かなため息と、愛おしそうな苦笑いが混ざって溶けていった。


夢だろうか。重たいまぶたを開くこともできず、俺の意識は再び、深く温かい泥の中へと沈んでいった。


次に目を覚ましたのは、トントン、という小気味良い音と、鼻先をくすぐる出汁の匂いのせいだった。

 のそりと身を起こす。背中にはキャンプマットの半端に柔らかい感触。見慣れた俺の部屋の天井が、初夏の眩しい朝日に照らされている。


すぐ横のベッドには、綺麗に畳まれたタオルケットがあるだけだった。

 途端に、昨夜の記憶が奔流となって脳内に押し寄せてきた。


大量のジン。俺のマットに潜り込んできて、耳元で囁いた彼女の掠れた声。無我夢中で重ね合った熱と、肌の滑らかな感触。


 あれほど飲んだわりには、妙に爽やかというか、気持ちのいい目覚めだ。すごくぐっすり寝た気がする。そしてそれゆえに意識がはっきりしていて、ガッツリ昨日の「すべて」を思い出せる。


白い肌。それが桜色に染まる様子。


小さな女の子のように、恥ずかしそうに目を閉じる表情。


華奢なのに、柔らかくてボリューム感のある身体。


初めて感じた、濡れた柔らかさ。



「……っ」


 猛烈な気恥ずかしさと、それ以上の心臓の跳ね上がりに、俺は毛布に顔を埋めて無音で悶絶した。


なんてことをしてしまったんだ。いや、お互いの意志で、間違いなく一線を越えたのだということはわかっている。、現実感がないと言いたいところだけどバッチリある。


 俺が、大学で誰もが憧れるような先輩と、いや俺のよく知る山葉さんと、関係を結んで朝を迎えた。その厳然たる事実は、俺のちっぽけなキャパシティを危うくさせていた。


コト、とキッチンの方で小さな物音がした。


恐る恐る毛布から顔を出すと、カウンターキッチンの向こう側に人影があった。

 黒のバンドTシャツを着た山葉さんが、ガスコンロの前に立っている。洗い立てのすっぴん顔。無造作に結んだ髪の隙間から、白い首筋が覗いていた。一度帰ってわざわざシャワーを浴びて、戻ってきてくれたようだった。


「……おはよう、ございます」


喉に引っかかったような声が出た。


山葉さんはコンロの火を弱めると、ゆっくりとこちらを振り返った。


「あ、おはよ。鈴木くん、てかもう昼だけどね」


いつもと変わらない、少し気怠げでフラットな声。彼女はお玉を置くと、へらっと気の抜けた笑みを顔に浮かべた。


 だけど、再びコンロの方へ向き直った彼女の後ろ姿を見て、俺は小さく息を呑んだ。


大きく襟元が開いたTシャツから伸びる白い首筋から、インナーカラーの隙間に覗く耳たぶにかけて。そこが、隠しきれないほど、茹で上がったように真っ赤に染まっていたからだ。


 俺は心臓が早鐘を打つのを感じながら、視線を彷徨わせた。やっぱり、夢なんかじゃない。


「……あの、いい匂いがするんですけど」


「あ、うん。二日酔い防止にしじみの味噌汁。冷凍のやつだけど。あと、適当な卵焼き。そろそろできるよ」


普段通りの口調を取り繕っているようだったが、その声は微かに上ずっていた。


「手伝います」

「いーよいーよ、座ってて! すぐ持っていくから!」


珍しく早口でまくしたてられ、俺は大人しくローテーブルの前へ座った。


 ほどなくして、二人分の朝食が並べられた。炊きたての白飯の湯気と、しじみの出汁の香りが胃袋を刺激する。


向かい合って座る。いつもなら、横並びでソファに座ってシットコムを観ているはずのローテーブル。明るい朝の光の中で正面から向き合うと、妙に距離が近く感じられた。


「いただきます」


声が重なり、二人して少しだけ肩をすくめる。


味噌汁を一口すする。優しい塩気と旨味が五臓六腑に染み渡る。あれだけ無茶な動きと飲食をしたというのに、不思議と頭はスッキリとしていて、二日酔いの気配はない。むしろ、体の芯から力が湧いてくるような妙な元気さがあった。


「……美味しいです」


「でしょ。しじみのオルニチンは酒飲みの味方だからね」


山葉さんは箸で卵焼きをつついているが、いつものような無防備な食いっぷりではなく、どこか手持ち無沙汰にしているように見えた。


俺も、どうしても視線が泳いでしまう。前を向けば鎖骨が覗くし、少し視線を落とせばテーブルの下の生足が目に入る。昨夜、その肌が俺の身体にぬるりと絡みついてきた圧倒的な熱を思い出してしまい、慌てて味噌汁の椀に視線を戻す。


普通なら、「俺たち、付き合うんだよね?」とか、そういう確認が入るのかもしれない。何かの形と名前を決めるのが、正しいと俺も思う。


 でも、そうしたいと思わなかった。多分、山葉さんも。そういうことは、外の世界のルールだ。……とか思うのが半分。はっきりと言葉にしづらいだけなのが半分。


 この関係がなんなのか、なかなか難しい。


 セフレ、というのとも違う気がする。俺たちはそもそもフレンド、友達と言えるのだろうか。多分違う。じゃあ、「セ」の部分はどうかというと、そっちもあやしい。別に、今後継続的にああいう関係を続けようと二人で約束したわけでもないし、そうなる気もしない。…少ししかしない。


静かな部屋に、箸が皿に当たる微かな音だけが響く。


「……ねえ、鈴木くん」


不意に、山葉さんが箸を置き、味噌汁の椀の縁を指でなぞりながら口を開いた。


「昨日さ……びっくりしたね」


上目遣いでじっと見つめてくる、少し潤んだ三白眼。

 それは誤魔化そうとする意図なんてどこにもない、すべてを受け入れた上での、少し照れくさそうな、でも確かな熱を帯びた切り出し方だった。


「……そう、ですね……」


俺が必死にポーカーフェイスを維持しながらそう返すのが精一杯だと分かると、山葉さんはおでこを隠すように前髪を指先でぐしゃぐしゃといじり、ふい、と斜め下のフローリングへ視線を逸らす。


「……あたしも、ちょっとびっくりした。お酒強くないけど、記憶飛ばすタイプじゃないから……全部、覚えてるし」


ぼそぼそと、蚊の鳴くような声で彼女が呟く。

 その瞬間、彼女の白い耳たぶが、みるみるうちにインナーカラーのブルーを置き去りにするほどの鮮やかな赤に染まっていった。

 ローテーブルの下で組まれた彼女の生足が、恥ずかしさを誤魔化すように小さくもぞもぞと動く。


やっちまった、という気恥ずかしさは間違いなくそこにあった。

 だけど、彼女は怒っているわけでも、後悔しているわけでもなくて。


「……いやじゃ、なかったけど」


小さく、本当に小さく、でもはっきりとそう付け足して、彼女は大きめに切られた卵焼きを口に運んだ。もぐもぐと咀嚼する彼女の頬は、朝の光の中で、なんだかひどく無防備に緩んでいるように見えた。


「す、鈴木くんは?」


 山葉さんが、そっぽを向いたまま、らしくもなく裏返った声で聴き返してきた。目を合わせるのは、俺も恥ずかしい。


「え」


 俺も嫌じゃなかったです。というのはちょっと違うように思える。イヤじゃないところではない。


「お、俺は、良かった、ですよ?」


 そう口にしてから、自分の発言の示しそうな意味に気付く。よかった? よかったってお前。そういうつもりじゃないのに、ひどく即物的な響きだ。俺は自身の発言に慌てて、どうにか誤魔化そうとしたが、それより山葉さんの方が早かった。


「よかったって。……えっちか」


 むぅ、と頬を膨らませた顔。その表情は可愛らしいのだけど、そう受け取られるのはマズい。


「や、えっと、そういう意味じゃなくて、いやそういう意味もあるんですけど、もっとこう、包括的に、全体的に、精神的にというかですね……!」


ばたばた、と身振りを交えて言い訳をしようとした俺に、山葉さんは吹き出した。心底おかしそうに、涙目で笑っている。それから、いつもの甘く意地悪にからかってくるような目つきに変わる。


「えっち星人め」


 そう言って、山葉さんは俺の唇に綺麗な人差し指を当てた。


「うっ」


 言葉に詰まる。昨日俺が山葉さんにしたことや、山葉さんにしてもらったことが思い出される。それはえっち星人呼ばわりも仕方ないかもしれない。


 いや、山葉さんの方も、まさかあんなことまでしてくれるとは思わなかったし、普段とのギャップがすごくて、それで俺もちょっと夢中になってしまったところもあるのだが。


「……」

「……」


 二人して無言になる。しばらくして、互いに照れ臭くなって、また笑う。


「いいや、食べよ」

「ですね」


 食べかけだった朝食に戻る。卵焼きだ。


 窓の外から、初夏の眩しい陽射しが部屋に差し込んでいる。

 気まずさと、とてつもないむず痒さと、味噌汁の温かい湯気。


 卵焼きは、ちょっと柔らかくて、甘くて、しょっぱくて。


 俺は、初めての経験の翌朝に食べた、この卵焼きの味を、もしかしたらずっと忘れないかもしれない。


 歳を重ねても、ふとした拍子に思い出して懐かしむのかもしれない。この綺麗な人と、ちょっと気まずくて、くすぐったいなかで食べたこの味を。


 山葉さんもそうだといいな、なんてことを思った自分に気付く。


 俺たちは、昨夜の決定的な熱を確かにその身に宿したまま、ただこの奇妙で、どうしようもなく愛おしい朝の空気を共有していた。



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