おねえさん、大学では女神扱いらしい

 翌朝。火曜日の朝は、スマホから流れるラジオで目を覚ます。俺の住むアパートに東京の電波なんて届かないのに、わざわざアプリを使って都会の朝の空気を演出するのが、俺のモーニングルーティンだ。




 洗面台の鏡に向かい、ゆるくパーマをかけたセンターパートの髪を入念に整える。寝癖を直すだけなら五分で終わるが、この『計算された無造作』を作り出すには十五分が必要だ。




 一息ついて、朝の一杯を淹れようとキッチンの戸棚を開けたところで、俺の手はピタリと止まった。




「……ない」


 戸棚の奥にあるはずの、無骨なスタンレーの保温タンブラーが消えている。いつかキャンプに行くかも、という理由だけで買った出番のない代物だ。




 同時に、昨夜の記憶が一気に現実味を帯びて脳裏に蘇ってきた。




 ベランダ越しに現れた、ヨレヨレのショートパンツ姿の隣人。俺が淹れた甘ったるいコーヒーを美味そうに飲んだ、生協の女神。




 童貞の拗らせた自意識が深夜に見せた、都合の良すぎる幻覚かとも疑っていた。




 タンブラーがないという物理的な証拠が、あれが紛れもない現実だったと俺に突きつけている。




「……マジかよ」




 俺は無意識に、ベランダとの間を仕切る曇りガラスのパーティションへと視線を向けていた。朝の光に照らされたそこには、当然だが人影はない。




 通学のため、革の鞄を肩にかけて部屋を出た。




 ガチャリと鍵を閉め、ふと左側――隣の部屋のドアを見つめる。




 表札もない、無機質な鉄の扉。これまでは完全に他人の領域でしかなかったその奥。あの山葉さんがいて、俺のタンブラーが置かれている。




 ただそれだけの事実。見慣れたはずのオンボロアパートの廊下が、ひどく特別で、ソワソワする空間に変わってしまったようだった。






 とりあえず大学に行って、二限から受講。俺は法文学部の大教室の後ろから三列目という、教授の目にも止まらず、かといって不真面目な最後列でもない、絶妙に地味なポジションに陣取っていた。




 テーブルの上には、無駄にスペックの高いノートパソコンと英字のペーパーバック。どう見ても「周りのウェイ系とは一線を画す、知的でクールな俺」という完璧な陣形である。本当はウェイ系に憧れているとはとうてい気づかれまい。




「おーい、鈴木。何難しそうな顔してカタカタやってんだよ」




 俺の完璧な結界を物理的に破壊して隣の席にドカッと座ってきたのは、同学年の川崎だった。




 爽やかな短髪に、シンプルな白シャツ。顔立ちは文句なしのイケメンで、スポーツ推薦で入ってきたという持ち前のコミュ力で、入学早々いくつものコミュニティの中心にいる男だ。一言で言えば、俺とは対極にいる「真の陽キャ」である。




 なぜこんな奴と仲が良いかといえば、オリエンテーションの時にたまたま隣の席で、俺が落としたペンを拾ってくれた彼に、俺が過剰なほど丁寧にお礼を言ってしまったせいで「お前、おもろいな」と懐かれてしまったからだ。




「……別に。昨日の課題のレポートをまとめてるだけだよ」






「マジ? お前偉いなー。俺なんて一行も書いてねえわ。後で見せてくんね?」


 悪びれもせず言う川崎に、俺は小さくため息をついた。こいつは典型的な「能力の高いアホ」だ。要領がいいから結局自分でなんとかするくせに、こういう適当な絡み方をしてくる。




「川崎さぁ。また鈴木をパシリに使おうとしてんの」




 不意に、前の席からトゲのある声が飛んできた。




 振り返ってこちらを睨みつけているのは、同じ学部の本田だった。ショートヘアが似合う小柄で活発な女子で、なぜかいつも川崎に噛み付いている。




「人聞きの悪いこと言うなよ本田ちゃん。俺と鈴木はズッ友だろ?」




「ちゃん付すんなし。馴れ馴れしい」




 本田は心底嫌そうな顔をして川崎をあしらった後、チラリと俺の方を見た。その目には、川崎に向けるのとは違う、うっすらとした「軽蔑」の色が混じっている。




「鈴木もどうせまだレポートやってないんだろうから断れよ。その無駄に高いパソコン、ネットサーフィンにしか使ってないくせに」




 グサッ。




 的確な指摘に、俺のライフは一瞬で削られた。




 そうなのだ。本田のような鋭い女子には、俺の「サブカルを気取った薄っぺらい武装」など、初見で見抜かれている。「大学デビューしてる痛い男子」というレッテルを貼られているからこそ、俺は余計に武装を厚くするしかないという悪循環に陥っている。




「いや、ネットサーフィンじゃないし。海外のインディーズ映画のレビューサイトを……」




「はいはい、意識高いですねー。まあいいや、わたし、生協行ってくる」




「おっ、マジか! 俺も行く! 今日こそ山葉先輩の連絡先ゲットするわ!」




「川崎みたいなチャラ男に、あの山葉先輩が靡くわけないじゃん。先輩はみんなの女神なんだから、穢すな」


 二人の会話に『山葉』という名前が飛び出し、エンターキーを叩こうとしていた俺の指先が、空中でピタリと硬直した。




「いやー、でもこの前、レジでちょっと笑ってくれたんだよね。絶対俺のこと脈ありだって。なぁ鈴木、お前もそう思うだろ?」




「……俺に聞くなよ。知らないし」




「鈴木みたいなサブカルクソ野郎な雰囲気イケメンに恋愛相談しても意味ないでしょ」




 さすがに容赦なさすぎるだろ。たしかに何も否定はできないが、本田以外の女子にはわりと好印象を持たれることもあるんだが……とは思うが、反論しても意味がなさそうなので、曖昧に笑みを浮かべるしかなかった。




 ――もし、こいつらが知ったらどうなるだろう。




 お前たちの崇める『女神』が、昨日の深夜、俺の部屋のベランダでヨレヨレのショートパンツ姿で駄菓子のチョコ棒を齧りながら、俺の淹れた甘いコーヒーを飲んでいたなんて。




自分だけが秘密を握っている。その事実に胸の奥が少しだけ甘く、熱くなった直後、分不相応な現実に冷や水を浴びせられたような居心地の悪さが足元から這い上がってきた。俺はノートパソコンの画面を見つめるふりをして、ひたすらに奥歯を噛み締めた。


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