おねえさん、夜うちにくるらしい
昼休み。
川崎と本田に半ば強制的に連行される形で、俺は学内の生協にやってきた。
昼時の生協は、カップ麺や弁当を求める学生でごった返している。だが、明らかに一つだけ、異常な長さの列が存在した。
「うわ、今日も並んでんなー。山葉先輩列」
川崎が嬉しそうに言いながら、最後尾に並ぶ。俺も適当にサンドイッチとお茶を手に取り、その列に続いた。
列の先頭。レジ打ちをしているその姿を見て、俺は思わず息を呑んだ。
「……次の方、どうぞ!」
パステルカラーのカーディガンに、ふんわりとしたスカート。丁寧にセットされた髪。
そして何より、あの朗らかで清潔感に溢れた、完璧な笑顔。糸のように細くなった目。
商品をスキャンする無駄のない動きと、「温めますか?」「午後も講義頑張ってくださいね」という、マニュアルを超えた心地よい気遣い。
男子学生たちは皆、彼女の笑顔を前にだらしなく頬を緩ませ、女子学生たちも「山葉先輩、今日も可愛い」と憧れの眼差しを向けている。女性の教授なんかからも、朗らかでイイコという目を向けられている。つまり完璧な好感度である。
――全然、違う。
髪のインナーカラーもピアスも見えないようなヘアスタイルになっているし、なにより表情がまるで違う。昨夜の、あの気怠そうにジト目で俺を見上げていた人と、同一人物とは到底思えなかった。あれが「一応ちゃんとしてるだけ」という理由だけで演じている仮面なのだとしたら、彼女はとんでもない女優だ。
昨夜の記憶が蘇り、一つの疑念が頭にこびりつく。
これほど完璧な仮面を被れて、みんなにも仮面の方を高く評価されている人が、なぜ昨夜の俺には、あそこまであっさりと素顔を晒してみせたのか。
何か原因があって昨日たまたまそういう気分だったのか。それとも、俺が『男として意識する価値すらない安全物件』として完全に舐められているだけなのか。
理由がわからない。だが、その謎の『バグった距離感』のせいで、余計に彼女のことが気になってしまう。
「いらっしゃいませ!」
川崎の番が来た。
「山葉先輩、今日も綺麗っすね! この後、昼飯一緒にどうですか?」
川崎が特上のスマイルでナンパをかます。
だが山葉さんは、完璧な笑顔を一切崩すことなく、さらりと言ってのけた。
「ふふっ、ありがとうございます。でもこの後すぐ講義があるので、ごめんね。お弁当、温め終わりましたよ」
「うっ……撃沈。また来ます!」
「お待ちしております!」
まるでのれんに腕押し。川崎のチャラい攻撃を、笑顔という最強の盾で完全に無力化している。
「はぁ、尊い……。あの笑顔、一生見てられるわ」
川崎の後ろで会計を済ませた本田が、うっとりとしたため息をついている。
そして、俺の番が来た。
サンドイッチとペットボトルのお茶を、レジのカウンターに置く。
「いらっしゃいませ!」
山葉さんが俺を見た。
その瞬間、彼女の瞳の奥が、ほんのわずかに揺れたように見えた。
「……あ、どうも」
俺はガチガチに緊張して、声が上ずってしまった。
彼女はいつも通り、流れるような手つきで商品のバーコードをスキャンしていく。ピッ、ピッという電子音が、俺の心音と重なる。
「三百五十円になります」
俺は財布から小銭を取り出し、トレイに置いた。
その時だ。
周囲の学生のガヤガヤとした喧騒の中。
レシートを渡すため、彼女がほんの少しだけ俺の方へ身を乗り出した。
ふわりと、昨夜ベランダで嗅いだのと同じ、シャンプーの甘い匂いが鼻腔を掠める。
「……夜、タンブラー返しに行くね」
それは、周囲の誰にも聞こえない、俺の耳にだけ届く限界まで絞った声だった。
見上げると、そこには『生協の女神』の笑顔はなかった。
半分閉じられたような眠たげな目元。微熱を帯びたような瞳。俺だけに向ける、あの『夜の顔』。
そのゾクッとするような温度差に、俺の背筋に電流が走った。
俺が呆然としていると、山葉さんは一瞬で完璧な『女神』の笑顔に戻り、高く澄んだ声で言い放った。
「ありがとうございました! またお越しくださいませ!」
俺はレシートを握りしめたまま、逃げるように生協を後にした。
生協の自動ドアを抜けて風に当たっても、耳の奥にはまだ、あの甘い囁き声が粘りつくように反響し続けていた。
『夜、タンブラー返しに行くね』
その一言が、頭の中でリフレインしている。
正直なところ、昨夜のことは俺の夢とか記憶違いかもしれないとすら思っていたわけだが、そうではなかったという事実が、胸のどこかをカリカリと掻いている。
彼女が、今夜も俺の部屋に来る? ほんとに?
昨日と同じ時間くらいだとすると……。俺は無意識にそれが何時間後かを計算していた。
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