おねえさん、鈴木くんの淹れたコーヒーを飲む

「え」


「え、が多いね。鈴木くん」


「え、あ、いや、飲みかけですし……」




「いーよ別に。今日ちょっといろいろあってさ。あったかいのが飲みたい気分」




 どこか遠くを見ながらそう言う彼女の声は、どことなくヤケクソにみえた。もしかしたら、普段の彼女は、こんな距離感で人とは話さない人なのかもしれない、なんとなくそう感じる。




「はぁ、そうですか……?」


「あ、これあげるから」




 山葉さんはそういって、ショートパンツのポケットからチョコ棒を取り出した。さっき彼女が咥えていたものの片割れ。二本一組の商品だったらしい。




「ん」


 そう言って差し出される、おそらく三十円くらいの駄菓子。俺は普段、駄菓子は食べない。が、つい受け取ってしまう。ポケットに入っていたためか、チョコ棒はうっすらぬくかった。




 そして受け取ってしまった以上は対価を出さないといけない。




「ど、どうぞ……」


 余裕ぶった年上の笑みに、俺はただ、差し出されたマグカップを渡すことしかできなかった。




 彼女の指が俺の手に触れる。


 その体温の生々しさに、俺の心拍数は深夜の静寂を無視して跳ね上がった。




「ありがと」


 山葉さんは両手でマグカップを包み込むように持つと、俺がさっき口をつけたのとまったく同じ場所に躊躇いなく唇を落とした。




 コクン、と喉が鳴る。カップの縁越しに、タレ目気味の三白眼が上目遣いで俺を捉えていた。


 ゆっくりと口を離すと、薄い唇がコーヒーでわずかに濡れて光っている。彼女はそれをペロッと舐めとると、タレ目を少しだけ見開いてボソッと口を開いた。




「うま」




 今の表情の変化は、彼女が驚いた時の小さな反応だとわかり、何故だが、俺はとてもホッとした。サブカル系雰囲気イケメンのたしなみとして、コーヒーにはこだわっているつもりだが、人に飲ませたことはないし、俺も正直よくわかっていないのだ。俺の『つもり』が彼女に評価されたことに、心のどこかを甘く掻かれたような心地がする。




「よかったら、別に一杯淹れましょうか……?」




 口にしてすぐに後悔した。何を言っているんだ俺は。図々しいかよ。距離感バグってるだろ。




 が。山葉さんは、一瞬だけきょとんとして、それから笑った。生協のレジで見かける、朗らかで清潔感のある笑顔ではない。余裕を浮かべるような、こちらをからかうような、『夜』の空気を纏った、湿り気のある微笑み。




「いいね。もらおうかな。こういうの好きかも」




 俺はため息をついた。もちろん、安心からだ。


「ちょっと待っててください」




 自分の趣味を「痛い」と笑うでもなく、「好きかも」と肯定してくれた。それだけで、俺の中の拗れている糸が、静かに、しかし少しだけ緩んだ気がした。




「んー。ありがと」


 俺が再びミルに豆を投入し、ガリガリとハンドルを回し始めると、山葉はベランダの手すりにもたれかけたまま、パーティション越しにこちらをじっと見つめてきた。




「その音楽。もう少し音量上げて」


「近所迷惑になりますって」


「平気平気。このアパート。学生しか住んでないし、いま起きてんのあたしたちくらいだから」




 静かな夜のベランダに、コーヒーを挽く音とチェット・ベイカーの気怠い歌声が混ざり合う。




 俺は一度部屋に戻り、戸棚の奥から引っ張り出してきたアウトドアブランド・スタンレーの保温タンブラーに、新しく淹れたコーヒーを注いだ。このタンブラーも「いつかキャンプとか行くかも」という理由で形から入って買ったものの、インドア派の俺には全く出番がなかった代物だ。




 パーテーションの隙間から、それをごくりと差し出す。




「お待たせしました。これなら、冷めないんで。ああ、部屋でどうぞ」


「ん。ありがと。タンブラーごとなんて、気前いいね」




 山葉さんはショートパンツの裾から伸びる白い足を組み替えながら、ひょいとそれを受け取ろうとした。


 だが、俺はその手から少しだけタンブラーを遠ざけ、ためらいがちに口を開いた。




「あ、あの……ミルクと砂糖、どうします?」


「え?」




 山葉さんが不思議そうに小首を傾げる。




「いや、さっきもブラックで飲んでたじゃん。コーヒーってそういうもんでしょ。面倒くさいし、そのままでいいよ」




「いや、あのですね……」




 俺は視線を彷徨わせ、薄暗いベランダの手すりの傷を見つめながら、ボソボソと言葉を紡いだ。




「さっき、『今日ちょっと色々あった』って、言ってたんで……。なんか、上手く言えないんですけど、気分が沈んでる時とか疲れてる夜は、甘い方がいいかなって」




 一息に言い訳を並べ立てた後、しまった、と思った。




 童貞のくせに、変に気を回しすぎただろうか。初対面の、しかも学内のアイドル的存在に向かって、なんてキモい寄り添い方をしているんだ。俺の心の自意識防衛アラートがけたたましく鳴り響く。




 沈黙が落ちた。




 恐る恐る視線を上げると、山葉さんはタンブラーを持ったまま、まぶたを半分下ろした静かな瞳で俺の顔をじっと見つめていた。その表情からは感情が読み取れない。




「……鈴木くんってさ」


「はい」


「結構、細かいとこ見てんね」




 それは、怒っているわけでも、呆れているわけでもない、ただ意外な事実を口にしたようなフラットな声だった。




 彼女はため息のように小さく息をつくと、少しだけ口角を上げた。




「じゃあ、お言葉に甘えよっかな。ミルクたっぷり、砂糖マシマシでよろしく」




「あ、はい。すぐやります」


 俺は慌ててキッチンに戻り、冷蔵庫から牛乳を取り出し、スティックシュガーを二本破ってタンブラーに放り込んだ。かき混ぜてから、再びベランダへと戻る。




「はい、どうぞ」


「ん」




 山葉さんは両手でタンブラーを受け取ると、フタを開けて一口飲んだ。


 コクン、と喉が鳴る。




「……あー。甘」


「甘すぎました?」


「甘くて、おいしー」




 彼女は目を細め、タンブラーを抱えるようにしてベランダの手すりにもたれかかった。その顔は、さっきまでのヤケクソじみた空気が少しだけ抜け、年相応の女の子のような無防備な柔らかさがあった。


 自分の不器用な気遣いが、少しだけ彼女の役に立ったのかもしれない。その事実が、俺の胸の奥をじんわりと温めた。




「これ、洗って返すから。また明日ね」


「あ、はい。いつでも」




 タンブラーを片手にひらひらと手を振り、山葉さんは自分の部屋へと消えていった。




 俺は一人残されたベランダで、チェット・ベイカーの気怠い歌声を聴きながら、手元に残った空のマグカップを見つめていた。カップの縁には、微かに彼女のリップの跡が残っているような気がして、俺は逃げるように部屋へと戻った。


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