第3話 伸びる前夜


「……あ、私、名前言ってなかったですね」


カフェの前。


彼女はアイスコーヒーを持ったまま、小さく笑った。


「紗枝(さえ)です」


「湊です」


「知ってます」


少し悪戯っぽく言われて、湊は困ったように笑った。


その笑い方すら久しぶりだった。


誰かと自然に話すのも、こんなに久々だったのかと思う。


「湊さん、今時間あります?」


「え?」


「せっかくだし、お茶しません?」


断る理由が、思いつかなかった。


---


店内は静かだった。


夕方と夜の間の時間帯。


窓際の席に座ると、外を歩く人影がオレンジ色に滲んで見えた。


紗枝はメニューも見ずにカフェラテを頼む。


慣れている感じだった。


湊は少し迷ってから、ブレンドコーヒーを選んだ。


「なんか意外です」


「何がですか?」


「もっと暗い人かと思ってました」


「……それ悪口ですか?」


「違いますって」


紗枝は笑った。


「動画、すごい静かな感じだから」


湊は視線を落とす。


確かに、自分の動画にはあまり人が出てこない。


夜道、電車、雨、水滴、信号。


そういう、“誰も注目しないもの”ばかり撮っていた。


「好きなんですよね、ああいうの」


「なんでですか?」


「……誰も見てない瞬間って、綺麗だから」


口にしてから、自分で少し驚いた。


普段なら絶対に言わない言葉だった。


でも紗枝は、変な顔をしなかった。


「わかります」


ただ、それだけ言った。


その“わかります”が、湊には妙に嬉しかった。


店員が飲み物を置いていく。


湊はコーヒーに口をつけながら聞いた。


「紗枝さんって、動画とか作るんですか?」


「見る専門です」


「じゃあなんで、あんな埋もれてる動画見つけたんですか」


「あんな埋もれてるって言った」


「いや事実だから……」


紗枝は少し笑って、それから窓の外を見た。


「私、流行る前のもの探すの好きなんです」


「……へえ」


「なんか、みんなが騒ぎ始めた頃には、ちょっと冷めちゃうというか」


その感覚は、少しわかった。


湊も昔からそうだった。


人気になる頃には、もうその場所が自分のものじゃない気がする。


「だから、湊さんの動画も、見つけた時ちょっと嬉しかったです」


「なんでですか」


「“まだ誰にも見つかってない”感じがして」


その言葉に、胸がざわつく。


嬉しいのに、少し怖かった。


期待されるのが苦手だった。


どうせすぐ失望される、と思ってしまうから。


その時。


スマホが震えた。


また、あのアカウント。


湊は無意識に表情を固くする。


『今日の22時。動画を一本投稿して』


メッセージはそれだけだった。


「……」


「大丈夫ですか?」


紗枝が覗き込む。


「顔、怖いですよ」


「あ、いや……」


湊はスマホを伏せた。


心臓が落ち着かない。


なんなんだ、このアカウント。


でも。


昨日、言われた通りにここへ来た。


その結果、紗枝と会った。


偶然にしては、出来すぎている。


「動画投稿してるんですか?」


紗枝が何気なく聞く。


「最近は、あんまり」


「なんで?」


「伸びないから」


また即答してしまった。


紗枝は少しだけ黙る。


責める感じじゃなく、言葉を探す沈黙だった。


「……でも、やめないんですね」


「え?」


「本当に嫌なら、もう編集ソフト開いてないと思う」


湊は何も言えなかった。


部屋は散らかっていても、編集フォルダだけは整理されていた。


もう諦めたつもりだった。


でも、新しい素材は毎日撮っていた。


夜の道路。

雨上がりのコンビニ。

終電後のホーム。


誰にも見られないかもしれない映像を、ずっと集め続けていた。


「好きなんですよ、たぶん」


紗枝は静かに言った。


その瞬間。


湊は、自分の中の何かを見透かされた気がした。


好きだった。


認めたくなかっただけで。


数字がつかないと、“好き”って言っちゃいけない気がしていた。


カフェを出る頃には、空は完全に夜になっていた。


別れ際、紗枝が言う。


「次の動画、待ってますね」


その言葉が、妙に残った。


帰りの電車。


湊はスマホを開く。


例のアカウントとのトーク画面。


『今日の22時。動画を一本投稿して』


時刻は21時47分。


湊はしばらく画面を見つめていた。


そして。


半年前に作って、投稿する勇気が出なかった動画を開く。


タイトル未設定。


再生時間、42秒。


夜の街を歩くだけの映像。


誰にも刺さらないと思っていた動画。


湊は深く息を吐いて、タイトル欄に文字を打ち込んだ。


『誰もいない夜が、一番うるさい』


投稿ボタンが、白く光っていた。

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