第2話 17時42分
次の日。
湊は結局、一睡もできなかった。
昼過ぎに起きて、適当にシャワーを浴び、冷蔵庫の麦茶を飲む。
スマホを見る。
例のアカウントから、新しい通知は来ていない。
「……行く必要ないだろ、普通に」
独り言を呟きながら、時計を見る。
16時58分。
駅前まで電車で十五分。
行こうと思えば行ける時間だった。
湊はソファに座ったまま、膝を揺らす。
どう考えても怪しい。
知らないアカウント。
意味深なDM。
指定された時間。
無視するべきだ。
そう思うのに。
『タイトル、タイミングだけが下手だった人へ』
あの一文だけが、頭から離れなかった。
気づけば、上着を掴んでいた。
「……行くだけ。行くだけだから」
誰に言い訳するでもなく呟いて、家を出る。
夕方の駅前は、人が多かった。
学生、会社員、買い物帰りの親子。
みんな、ちゃんと自分の行き先がある顔をしている。
湊は昔から、あの感じが苦手だった。
自分だけ、どこにも向かえていない気がするから。
17時40分。
指定されたカフェは、駅前の細い路地にあった。
ガラス張りの、小さな店。
湊は入口の前で立ち止まる。
「……帰るか」
やっぱ意味わからない。
そう思って踵を返しかけた、その時。
ガンッ。
誰かと肩がぶつかった。
「あっ、ごめんなさい!」
慌てた声。
アイスコーヒーを片手に持った女性が、頭を下げていた。
二十代前半くらい。
長い黒髪が、夕方の光で少し茶色く見える。
「あ、いや……大丈夫です」
「すみません、急いでて……」
彼女はそう言いながら顔を上げ、そして一瞬止まった。
「あれ?」
「……え?」
「もしかして、“minato_edit”の人ですか?」
心臓が、変な音を立てた。
その名前は、湊の動画アカウントだった。
フォロワーは千人もいない。
現実で知られているなんて、考えたこともなかった。
「なんで、それ……」
「やっぱり!」
彼女の顔が少し明るくなる。
「私、動画見てました」
湊は言葉を失った。
見てました。
その一言だけで、昨日までの数字が急に遠くなる。
「えっと……どの動画ですか」
「踏切のやつです。夜中に電車通るやつ」
「あ……」
半年前に投稿した動画だった。
再生数は312。
コメントは一件だけ。
『雰囲気好き』
それで終わった動画。
「めちゃくちゃ良かったです」
彼女は本当に自然に言った。
お世辞じゃない声だった。
湊は視線を逸らす。
「……伸びなかったですけどね」
すると彼女は少し首を傾げた。
「でも、届いてますよ」
夕方の雑踏の中、その言葉だけが妙にはっきり聞こえた。
「私、あの動画見たあと、夜散歩したくなりましたもん」
笑いながらそう言う。
湊は何を返せばいいかわからなかった。
ずっと、“数字”しか見ていなかったから。
その時。
スマホが震えた。
例のアカウントから通知。
『間に合ったね』
背筋が冷える。
湊は反射的に画面を伏せた。
「どうしました?」
彼女が不思議そうに聞く。
「……いや、なんでもないです」
言えるわけがなかった。
未来を知っているみたいなアカウントのことなんて。
彼女はストローをくるくる回しながら笑った。
「でも、本人に会えると思わなかったなあ」
「そんな有名じゃないですよ、俺」
「有名じゃなくても、好きなものは覚えてます」
その言葉に、湊は少しだけ息を止めた。
昔から、“結果”でしか自分を測れなかった。
バズらないなら意味がない。
選ばれないなら価値がない。
そう思っていた。
でも。
たった一人に届いていた。
それだけで。
昨日まで消したかった動画が、少しだけ違って見えた。
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