第42話「ステータス」
翌朝、まだ朝露の気配が残る街道にダンテの声が響き、キャラバンはトロアへ向けて動き出した。
ランスから続く道はよく整えられており、荷馬車の揺れも穏やかで、進みは驚くほど滑らかだ。
往来も多く、いくつものキャラバンや旅人とすれ違うたびに、互いの存在を確かめるような視線と短い挨拶が交わされる。
人の流れが集まる道は、それだけで街の豊かさを物語っていた。
四日目の夕方、予定通りトロアの街が視界に広がる。
石造りの建物が並び、通りには人の気配が満ちている。
無事の到着に、どこか肩の力が抜ける感覚があった。
「行きと同様、今回も明日は休みだ。明後日の朝出発するからな」
荷を下ろす合間にダンテがそう告げる。
そのまま去り際に振り返り、軽く言い添えた。
「宿で飯を食うなら出してやるが、他所で食うなら手前の金で食え」
それだけ言って立ち去る背を見送り、ハルトは隣に立つレベッカへ視線を向けた。
「せっかくだ。外に出るか」
「えぇ、いいわね」
二人は自然な流れで街へ繰り出す。
夕暮れのトロアは活気に満ち、店先からは焼ける肉や煮込みの香りが漂ってくる。
レベッカは迷いなく通りを進み、一軒の店の前で足を止めた。
中に入り席に着くと、ハルトは周囲を見渡しながら小さく息をつく。
「ここでは何が食べられるのか、楽しみだな」
「ここの料理は、ちょっと変わっているわよ」
レベッカはそう言うと給仕を呼び、ためらいなく注文する。
「トランシェを二つちょうだい」
給仕が去ったあと、ハルトはその言葉を繰り返すように口にした。
「トランシェ? 聞いたことのない料理だな」
「とても面白いのよ」
「楽しみだ」
最近の出来事や仕事の話を交わしながら待っていると、やがて料理が運ばれてくる。
目の前に置かれたそれを見て、ハルトは思わず言葉を漏らした。
「これは……変わっているな」
「でしょ」
皿の上にあったのは、皿そのものではなかった。
指二本から三本ほどの厚みを持つ、ごつい板状のパンがどんと置かれている。
小麦だけでなく、ライ麦や大麦も混じっているのか、色は濃く、黒パンに近い重たい褐色をしている。
表面はざらりとして焼き色が強く、ところどころ焦げ目がついていた。
その上に、肉と野菜の煮込みやローストのスライスが無造作に乗せられ、たっぷりのソースがかかっている。
肉汁とともにそれらはじわじわとパンへ染み込み、縁だけがわずかに乾いたまま残っている。
「見ていてね」
レベッカは楽しげに言い、ナイフと手を使って上の具と一緒にパンをちぎる。
手本を示すように口へ運ぶその動きを見て、ハルトも同じようにパンと具を一緒にちぎり、口に入れた。
最初に広がるのは上に乗った具材の味だ。
ローストされた肉は外側が香ばしく焼き締まり、中はしっかりとした噛み応えを残している。
噛むたびに肉汁が滲み、ソースに溶け込んだハーブの青さ、わずかな酸味が絡み合い、濃厚な旨みを形作っていた。
そのソースを吸ったパンの表面はとろりと柔らかくなり、しかし奥にはまだしっかりとした密度が残っている。
気泡の少ない詰まった生地が、噛むごとにゆっくりとほどけていく。
食べ進めるうちに、主役は自然とパンへと移っていく。
上半分は肉汁を吸い込み、外側だけがふわりとした感触を持つ一方で、中央から下はまだ硬さを保ち、噛み応えが強い。
口に含めば、最初にソースの塩気と旨みが広がり、そのあとから穀物の甘みがじわりと立ち上がる。
それはまるで、うまみをすべて吸い込んだ極厚のしょっぱいフレンチトーストのようだった。
一皿を食べ終える頃には、パンそのものを丸ごと食べ切っているため、腹にずしりとした満足感が残る。
口の中には肉の脂とハーブの香り、そして穀物の香ばしさが混ざり合い、余韻となって残り続ける。
ハルトは皿の跡を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
それは、少ない肉を余すことなく味わうための工夫であり、同時に、食べるための皿そのものだった。
皿に残ったパン屑を指先で軽く払いながら、ハルトは満足げに息をついた。
濃い味わいの余韻がまだ口の中に残り、腹の底から温かさが広がっている。
「美味しかった」
素直にそう言うと、向かいのレベッカが小さく笑みを浮かべる。
「あなたの、なんでも美味しいって言ってくれるところ、好きよ」
不意に投げられた言葉に、ハルトは一瞬だけ動きを止めた。
胸の奥で何かが引っかかるように揺れ、ほんのわずかに視線が泳ぐ。
レベッカはその反応を見逃さない。
「わかりやすいのね」
からかうような響きではなく、ただ事実を指摘するような軽さだった。
ハルトは咳払いのように息を整え、視線を戻す。
「そうかな」
「そうね。少なくとも、貴族ではないわね」
さらりと続けられたその言葉に、ハルトは肩をすくめる。
「だから一般人だってば」
やや呆れたように返すが、その声に強さはない。
レベッカはその様子を見つめたまま、ふっと目を細めた。
「不思議な人」
短い言葉だったが、そこにはどこか含みがあった。
否定でも肯定でもない、ただ観察した結果をそのまま置いたような響き。
ハルトはそれに返す言葉を見つけられず、わずかに視線を外す。
店内のざわめきが耳に入り、さきほどまで意識していなかった音や気配が戻ってくる。
それでも、テーブルの上に残る空気だけは、先ほどより少しだけ柔らかく変わっていた。
やがてハルトは軽く手を上げ、給仕を呼び寄せた。
木皿を下げる手際のよさと同時に、落ち着いた声が告げられる。
「6枚になります」
ハルトは懐から硬貨を取り出し、指先で一枚ずつ確かめるように数えてから差し出した。
金属同士が触れ合う小さな音が卓上に響く。
「確かに」
給仕はそれを受け取り、丁寧に頭を下げる。
「またお越しください」
その言葉を背に、二人は店を出た。
夜のトロアはまだ人通りがあり、灯りの並ぶ通りには穏やかな賑わいが残っている。
食後の満足感を抱えたまま、自然と足は宿の方角へと向かっていた。
しばらく歩いたところで、レベッカがふと横を見て口を開く。
「あなた、ニホン……ってところから来たんだっけ」
「ああ」
「どんなところなの?」
問いかけは何気ないものだったが、ハルトはすぐには答えられなかった。
視線を前に向けたまま、言葉を探すようにわずかに間が空く。
「……どうしたの?」
レベッカが不思議そうに覗き込む。
ハルトは小さく息をつき、頭の中でいくつかの言葉を並べては消していく。
「うーん……なんて言ったらいいのか」
街灯の下を通り過ぎるたびに、足元の影が揺れる。
その揺れを追うように視線を落としながら、やがてぽつりと続けた。
「誰でも食べるのに困らなくて」
少しだけ間を置く。
「美味しい物が、たくさんあるところだ」
簡単すぎる言い方だと自分でも思ったが、それ以上をうまく言葉にできなかった。
レベッカはその答えを聞いて、静かに頷く。
「いいところね」
その一言は軽いのに、どこかまっすぐに響いた。
ハルトはそれに対して何も言わず、ただ少しだけ肩の力を抜く。
宿の明かりが見えてくる。
夜の空気はひんやりとしているが、腹の奥に残る温かさと、隣を歩く気配が、それをやわらかく和らげていた。
ハルトはさきほどの会話を反芻していた。
日本――口にしたのはわずかな言葉だけだったが、その裏にある記憶は、もっと曖昧で、もっと当たり前のものだった。
朝になれば起きて、仕事へ向かい、腹が減れば何かを食べ、夜になれば帰る。
特別でも何でもない、ただ繰り返される日々。
それでも確かに満たされていたあの感覚は、今こうして旅をしている自分の中にも、不思議なほどそのまま残っている。
違う世界にいるはずなのに、生活の手触りは似ている。
働き、食べ、誰かと話し、眠る――それらは形を変えながらも連続しているように思えた。
これは本当にゲームなのか。
ふと浮かんだ疑問は、答えのないまま胸の内に留まる。
目に見えるもの、触れられるもの、味わえるもの、そのどれもが現実の感覚と変わらない。
むしろ、こちらの方が濃く、重く、はっきりと存在しているようにすら感じられた。
そんなことを考えているうちに、気づけば宿の前に立っていた。
扉の隙間から漏れる灯りが、夜の静けさの中でやわらかく揺れている。
「おやすみハルト」
「おやすみベッキー」
短く言葉を交わし、それぞれが自分の部屋へと戻る。
扉を閉めると、外の気配はすぐに遠ざかり、静寂だけが残った。
ハルトはしばらくその場に立ち尽くし、それからゆっくりと息を吐く。
頭の中に残っている違和感を確かめるように、ぽつりと呟いた。
「ステータス」
言葉は空気に溶けるように消える。
しばらく待ってみるが、何も起きない。
目の前に何かが現れる気配もなく、ただ部屋の静けさだけが続いている。
もう一度、同じ言葉を口にしかけて、やめた。
期待していたわけではない。
それでも、もし何かが現れれば、この世界の正体に触れられるかもしれない――そんな淡い考えがあったのは確かだった。
だが、何も起こらない。
それがかえって、この場所を曖昧なものにする。
現実のようで、現実ではないのかもしれない場所。
あるいは、その逆か。
ハルトはベッドに腰を下ろし、天井を見上げる。
木組みの梁が規則的に並び、その隙間に薄い影が落ちている。
手を伸ばせば届きそうな距離にありながら、答えはどこにも見当たらなかった。
やがて、考えることをやめるように目を閉じる。
明日が休みであることだけが、今は確かな現実だった。
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