第43話「とりあえず、やってみるか」
翌朝、朝食を終えたハルトは宿の前で体をほぐすようにラジオ体操をしていた。
一定のリズムで腕を回し、背を伸ばし、呼吸を整えるその動きは、この世界では見慣れないもので、通りがかった人がちらりと視線を向けるほどだった。
少し遅れてレベッカがやってきて、その様子を見て首をかしげる。
「変わったダンスね」
「体を動かさないと硬くなるからな」
ハルトは動きを止めずに答える。
その言葉にレベッカは納得したように頷いた。
「そうね」
ひと通り終えたハルトが息を整えると、レベッカは少し考える素振りを見せてから口を開く。
「それで、今日はどこを案内しようかしら?」
ハルトは少しだけ間を置き、周囲の街並みに視線を巡らせる。
昨日は食事だけで終わったが、この街にはまだ見ていないものが多い。
「トロアって、どんな街なんだ?」
その問いに、レベッカはわずかに笑みを浮かべる。
「商人の街よ。布と革、それに市場が有名ね」
トロアは交通の要衝であり、各地から物資が集まる交易都市だ。
特に織物や革製品の取引が盛んで、職人や商人が多く行き交う。
その分、通りごとに雰囲気が変わり、歩くだけでも街の性格が見えてくる。
「じゃあ市場を見てみたいな」
ハルトの答えに、レベッカは軽く頷く。
「いいわね。朝の方が賑わってるし」
二人は並んで歩き出す。
朝の空気がまだひんやりと残る時間帯、通りへ足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わったように感じられた。
静けさはすでに押し流され、代わりに満ちているのは人の声と物の動く気配だ。
トロアの朝市は、目覚めたばかりの街とは思えないほどの活気を帯びていた。
石畳の両脇には、簡素な木台や布を広げた露店がずらりと並び、商人たちが次々に品を並べている。
まだ整えきれていない店もあれば、すでに客が集まり始めている場所もあり、その雑多さがかえってこの場の勢いを際立たせていた。
声を張り上げて客を呼び込む者、黙々と品を並べる者、値段を巡って言い合う者――それぞれの動きが重なり合い、一つの流れを作っている。
まず目に入るのは布だ。
色とりどりの織物が朝の光を受けて広げられ、風に揺れるたびに柔らかな陰影を生み出す。
鮮やかな染めのものから、落ち着いた色合いの厚手の布まで、用途ごとに整然と並べられている。
触れればすぐに違いがわかりそうな質感の差が、そのまま値の差でもあるのだろう。
その隣には革製品の店が続く。
鞄、靴、ベルトのようなものが並び、まだ新しい革の匂いがほのかに漂っている。
職人らしき男がその場で手を動かし、縫い目を整えている様子が見えた。
完成品だけでなく、作る過程そのものもまた、この市場の一部だった。
さらに進むと、食べ物の匂いが一気に濃くなる。
焼かれる肉の香ばしさ、煮込まれた野菜の甘い匂い、パンの焼ける香りが混ざり合い、思わず足を止めたくなるほどだ。
丸いパンが山のように積まれ、その横では薄く切った肉が鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てている。
早くから働く人々にとって、ここは単なる買い物の場ではなく、朝の食事を手に入れる場所でもあるのだとわかる。
人の流れは絶えず、肩が触れそうな距離で行き交う。
短い言葉が飛び交い、笑い声と交渉の声が入り混じる。
その中で、ハルトは立ち止まり、ゆっくりと周囲を見渡した。
ただ品を売り買いしているだけではない。
ここには、それぞれの生活がそのまま持ち込まれている。
必要なものを求める者、余ったものを売る者、情報を交換する者――すべてが同じ場所で交差している。
朝の市場は、街の心臓のように脈打っていた。
香辛料の露店の前で足を止めたハルトは、小さな袋に入った胡椒や乾燥した葉を手に取り、その香りを確かめるように鼻先へ寄せた。
先日ランスで感じた香りとどこか通じるものがありながら、こちらはもう少し粗く、直接的な刺激があった。
「ここで香辛料を買って、ローヌに持っていったらどうだろうか」
思いついたまま口にすると、隣で見ていたレベッカはすぐに首を横に振る。
「小売りされている香辛料を買っても、利益はでないわよ」
迷いのない断言だった。
ハルトは手に持っていた袋を元の位置へ戻し、少しだけ考えるように視線を落とす。
「そうなのか」
「えぇ。こういうのはね、もう何人も手を通ったあとの値段なの。ここに並んでいる時点で、商人の取り分がちゃんと乗っているわ」
レベッカは露店に並ぶ品を軽く指で示しながら続ける。
「トロアみたいな街は、人も物も集まる場所だから、便利な分だけ値段も高くなるの。ここで買って運んでも、向こうで売る頃には同じような値段になるか、それ以下ね」
ハルトは周囲を見渡す。
確かに、この市場には多くの商人が集まり、それぞれが品を並べている。
その中で利益を出すには、ただ物を運ぶだけでは足りないのだと理解できた。
「じゃあ、もっと手前で仕入れないと駄目か」
「そういうこと。あるいは、ここにしかない価値を見つけるかね」
レベッカはそう言って、小さく肩をすくめる。
不可能ではないが、簡単でもない――そんな現実的な距離感が、その言葉には含まれていた。
ハルトはもう一度香辛料の露店を見たあと、静かに頷いた。
思いつきだけでは通用しないが、考える価値はある。
そんな感触だけが、はっきりと残っていた。
ハルトはもう一度香辛料の露店を見たあと、静かに頷いた。
思いつきだけでは通用しないが、考える価値はある――そんな感触だけが、はっきりと残っていた。
「じゃあ……石鹸でやっていくしかないか」
ぽつりと漏れた言葉に、レベッカが少しだけ視線を向ける。
「石鹸?」
「今やってるやつだよ。あれなら、まだ工夫の余地がある」
レベッカは少し考えるようにしてから、小さく頷いた。
「そうね。でも……髪を洗うと、きしむのよね」
その一言で、ハルトの思考が止まる。
きしむ――確かに、あの石鹸は汚れは落ちるが、使い心地が良いとは言い難い。
「そうか……」
短く呟いたあと、何かを思い出したように顔を上げる。
「じゃあ、リンスでも作るか」
「リンス?」
聞き慣れない言葉に、レベッカが首をかしげる。
「洗った後に使うやつだ。髪を整えるための……まあ、水みたいなものだな」
「そんなものがあるの?」
「いや、あるというか……作れそうな気がする」
自分でも曖昧な言い方だと思いながらも、ハルトは周囲を見渡す。
必要なのは、石鹸の強さを和らげる何か――そう考えたとき、頭に浮かんだのはあの酸味だった。
「酢って、この辺で売ってるか?」
「酢? あると思うけど……料理用よ?」
「それでいい」
レベッカは半信半疑のまま、通りの奥を指さす。
「あっちに
二人は人の流れをかき分けるように進み、小さな露店の前で足を止めた。
木の棚に並べられた陶器の瓶の中には、淡く色づいた液体が揺れている。
近づくと、かすかに酸っぱい匂いが鼻をくすぐった。
ハルトは一本手に取り、軽く傾けて中身を確かめる。
「これでいいな」
値段を聞き、硬貨を渡して瓶を受け取る。
そのまま振り返ると、今度は別の露店へと足を向けた。
「あと、香りも欲しいな」
「香り?」
「せっかくなら、使った後に少しは良い匂いがした方がいいだろ」
レベッカは少し驚いたように目を細めるが、すぐに思い当たるものがあったらしい。
「それなら……」
案内された先には、乾燥させた草束がいくつも吊るされていた。
手に取ると、指先からほのかな香りが立ち上る。
「ローズマリーね」
レベッカがそう言う。
ハルトはそれを軽く揉み、香りを確かめた。
すっきりとした、少しだけ鋭さのある匂い。
「これ、いいな」
袋に入ったものを一つ選び、店主に代金を支払う。
酢の入った瓶と、ローズマリーの袋を手にしたまま、ハルトは小さく息をついた。
「とりあえず、やってみるか」
何ができるかはまだはっきりしない。
それでも、手の中にあるものだけで何かが変わる気がした。
レベッカはその横顔を見ながら、わずかに肩をすくめる。
「本当に、不思議なことを思いつくわね」
呆れたようでいて、どこか楽しそうな声だった。
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