第41話「本場で食べるのは違うのよね」
翌朝、まだ空気に冷えが残る時間帯に、ダンテの張りのある声が街道に響いた。
キャラバンは慣れた手つきで支度を整え、荷馬車の軋む音とともにゆっくりと動き出す。
進路はトロアを経てローヌへと南下する予定だ。
その第一目標はランス――整えられた道と荒れた土の混じる街道を、規則的な揺れに身を任せながら、ハルトは静かにその流れに身を預けていた。
宿場町に着くころには日が落ち、賑わいの残り香が漂う中で、ハルトは迷いなく作業に取りかかる。
朝のうちに用意していた灰を水に浸し、沈殿を待って澄んだ上澄みだけを丁寧に桶へと移し替える手つきは、旅の途中とは思えないほど落ち着いている。
レベッカはその動きを横で見つめ、時折手を貸しながらも、どこか遠い記憶をなぞるような表情を浮かべていた。
翌日の宿場町では、かまどを借りるために短く交渉を済ませると、ハルトはすぐに火を起こし、上澄み液をゆっくりと煮詰めていく。
炎のゆらめきに照らされた鍋の中で、液体は次第に濃度を増し、独特の匂いを帯びながら変化していく。
その変化を見逃すまいとするように、二人は無言のまま鍋を見つめ続けるが、その沈黙は気まずさではなく、作業に集中する者同士の自然な距離だった。
やがて火から外された液体は、次の工程へと移る。
ウェルペンで手に入れた板を床に据え、その上に布を広げると、レベッカは慣れた手つきで布の端をくるりと丸めて縁を作り、即席の型を整えていく。
「このくらいの高さでいいかしら」
「ああ、それでちょうどいい」
ハルトは短く答え、鍋を傾ける。
とろりとした液体がゆっくりと流れ出し、布の内側に広がっていく様子は、単なる作業でありながらも、どこか静かな達成感を伴っていた。
レベッカは木の板を使い、表面を均すように撫でていく。
その動きに合わせて、まだ柔らかい液体は次第に形を整え、平らな一枚の面へと変わっていった。
火の残り香と夜の冷気が混ざる中、二人は少し距離を取ってそれを見下ろす。
言葉は多くないが、そこにある空気は以前と変わらず、むしろ余計なものが削ぎ落とされた分だけ、穏やかで確かなものになっていた。
「うまくいきそうね」
「このまま固まればな」
ハルトの返答はいつも通り淡々としているが、その声色には揺らぎがない。
レベッカはその変わらなさを確かめるように一瞬だけ視線を向け、すぐにまた石鹸へと目を戻す。
過去を知られたあとでも、彼は何も変わらなかった――その事実が、言葉にされることなく、確かにそこにあった。
夜はゆっくりと更けていく。
布の中で静かに形を保ち始めたそれは、まだ完全ではないものの、やがて一つの完成へと向かっていることを予感させていた。
───
ウィルペンを発って9日目の夕刻、なだらかな街道の先に、ひときわ整った石造りの街並みが姿を現した。
以前、誰かが「戴冠の街だ」と言ってた街だ。
キャラバンの空気がわずかに緩む。
ランス――長い歴史を抱えたその街は、門をくぐった瞬間から、これまでの宿場町とは違う気配をまとっていた。
整然と並ぶ建物、広い通りを行き交う人々、どこか洗練された匂いが漂っている。
宿に荷を下ろし、ひと息ついた後、ハルトとレベッカは揃って街へ出た。
行きとは違い、今回は懐に余裕がある。
そのわずかな違いが、足取りを軽くし、視線を自然と周囲へ向けさせる。
夕暮れの灯りがともり始めた通りには、焼かれた肉の香ばしい匂いが流れ、店先から漏れる笑い声が耳に届いた。
「ここでは何が美味しいんだ」
ハルトの問いに、レベッカは迷いなく答える。
「ランスと言ったら、ソーセージね」
短い言葉に確信がこもっている。
そのまま彼女は人の流れを縫うように進み、一軒の店の前で足を止めた。
木の看板に刻まれた「大豚亭」の文字と、扉の隙間から漂う濃い香りが、ここが目的地であることをはっきりと示している。
二人は中へ入り、席に着くと、すぐに給仕がやってきた。
レベッカは迷うことなく口を開く。
「白ブーダンと、アンドゥイエットを二人分ちょうだい」
聞き慣れない響きに、ハルトはわずかに眉を寄せる。
言葉の意味が掴めないまま、そのまま問い返した。
「それは、どういうものなんだ」
レベッカは肩をすくめるようにして、少しだけ楽しげに答える。
「どちらもソーセージよ。でも……そうね、あなたでも食べられるかしら」
含みのある言い方に、ハルトは一瞬考えるが、結局その真意はわからない。
ただ、未知のものに対する警戒よりも、興味が勝っていた。
「よくわからないが……楽しみだな」
その素直な返答に、レベッカは小さく息を漏らして笑う。
視線を店内に巡らせると、他の客たちの皿にも似た料理が並んでおり、香りは確かに食欲をそそるものだった。
やがてハルトは、ふと思い出したように口を開く。
「色々な料理を知っているのは、やっぱり家でよく食べていたからか」
レベッカは一瞬だけ視線を落とし、それから静かに頷いた。
「えぇ、そうね」
言葉を選ぶような間を挟み、続ける。
「幼い頃から、色々な地方の料理は食べていたわ。でも……」
彼女は軽く首を振り、どこか遠くを見るような目になる。
「旅をして、その土地でその料理を食べて、やっと繋がったの。それまでは、ただ“どこかの料理”だったのだけれど」
店のざわめきの中で、その声は不思議とよく通る。
「やっぱり、本場で食べるのは違うのよね」
言い終えたレベッカは、ふっと力を抜くように背もたれに身を預ける。
ハルトはその横顔を横目で見ながら、これから運ばれてくる皿に意識を向けた。
知らない味、知らない名前――だが、そのどれもが、この街でしか得られないもののように思えた。
やがて、給仕の足音が近づいてくる。
やがて運ばれてきた皿の上には、見慣れない色合いのソーセージが並んでいた。
白ブーダンはその名の通り、淡くくすんだ白色をしており、焼き目こそついているものの、一般的な腸詰のような赤みや脂の照りは控えめで、どこか柔らかく儚げな印象すら与える。
中身は細かく練られているらしく、肉の粒感は見えず、むしろ滑らかな練り物のように整っている。
一方でアンドゥイエットは対照的で、表面はやや荒々しく、焼き上げられた外皮からは独特の香りが立ち上っていた。
内部には刻まれた腸が詰められているため、見た目にも繊維質な質感が感じられ、噛みごたえを予感させる風貌をしている。
「美味しそうだな」
ハルトが率直にそう言うと、レベッカは小さく頷きながら皿を指した。
「まずは白ブーダンを食べてみて」
勧められるまま、ハルトはナイフで切り分け、一口分を口に運ぶ。
歯を入れた瞬間に感じたのは、弾けるような張りではなく、抵抗なくほどけるやわらかさだった。
舌に乗せたそれは、ふわりと崩れ、とろりと広がる。
肉というよりも、乳と卵とパンが溶け合ったような、穏やかで包み込むような味わいが口いっぱいに広がった。
飲み込む前に、ハルトはわずかに眉を動かす。
「これは……胡椒か?」
さらに舌を転がすようにして味を確かめる。
「それに、ナツメグもあるな」
その言葉に、レベッカは目を見開いた。
「驚いたわ。あなた、香辛料がわかるのね」
「珍しいのか?」
「あまり一般的ではないわね。でも、ここでは食べられる。それがどういう事かわかる?」
ハルトは一瞬だけ考え、店内の様子、外の街並み、そしてここがどこであるかを頭の中で繋げていく。
「……教会か」
レベッカは静かに頷いた。
「そうよ」
その一言の裏にある意味は、この街の成り立ちそのものに通じていた。
ランスは王の戴冠が行われる街であり、その中心には巨大な大聖堂が構え、司教館や修道院が周囲を固めている。
戴冠の儀式のたびに、王や高位の貴族、そして聖職者たちが集まり、厳かな儀礼の裏では豪奢な宴が催される。
そこでは遠方から運ばれてきた胡椒やナツメグといった高価な香辛料が惜しげもなく使われ、料理人たちはその扱いを磨き続けてきた。
その影響は、やがて街全体へとゆっくり広がっていく。
富裕な層を相手にする商人が常駐し、料理人や菓子職人は技術を高め、その一部が形を変えて庶民の食卓へと降りてくる。
決して贅沢ではないが、ほんのひとつまみの香りが加わるだけで、料理はどこか別の世界に触れたような印象を帯びる。
宿屋や酒場でも、わずかな工夫が施される。
肉の下味に胡椒をひと振り、煮込みにほんの少しの香りを添えるだけで、旅人はこの街がただの通過点ではないことを感じ取る。
祝祭の日ともなれば、普段は見かけない香りが市場に満ち、甘い菓子や焼きたてのパンにも、微かなスパイスの気配が宿る。
それは庶民にとって、日常の中に差し込む非日常の印であり、遠い土地の空気をかすかに運んでくる合図でもあった。
ハルトはもう一度白ブーダンを口に運び、その柔らかな味わいの奥に潜む香りを確かめるようにゆっくりと噛みしめた。
そしてハルトは次の皿へと視線を移し、少しだけ言い淀む。
「次は……この、アンドゥ……」
「アンドゥイエットよ」
レベッカがさらりと訂正する。
その響きを確かめるように小さく頷いたハルトは、改めてそれに手を伸ばした。
「食べてみよう」
ナイフを入れると、外側の皮はしっかりとした弾力を持ち、内側からは粗く刻まれた具が覗く。
白ブーダンとは明らかに異なる存在感に、ハルトはわずかに息を整えてから一口を口に運んだ。
歯を立てた瞬間、こり、とした感触が返ってくる。
続いてむちっとした弾力が舌に残り、噛み進めるごとに複雑な食感が重なっていく。
中身は細かく刻まれた内臓で構成されているため、均一ではなく、部位ごとに異なる歯ごたえが混ざり合っている。
白ブーダンのなめらかさとは対極にある、しっかりとした「噛むための料理」だった。
そして、遅れて広がるのは香りだった。
内臓特有の強い匂いが鼻へ抜けるが、それはただ荒々しいだけではなく、脂と調味が一体となって濃厚な旨みに変わっている。
香草と胡椒がその輪郭を整え、全体を引き締めるように効いていた。
噛むほどに味が滲み出し、どこか酒と合わせることを前提にしたような、奥行きのある風味が残る。
ハルトはゆっくりと咀嚼し、飲み込んだあとに短く息を吐いた。
「……悪くない。俺は好きだ」
率直な言葉だった。
無理に取り繕う様子もなく、ただ感じたままを口にしている。
レベッカはその反応を見て、わずかに口元を緩めた。
「そう言ってくれると思ったわ」
その言葉には、どこか確信めいた響きがあった。
彼女はグラスに手を伸ばし、軽く持ち上げると、視線をハルトに向ける。
「これはね、好みがはっきり分かれるの。匂いで無理ってなる人もいるし、逆にこれがたまらないって人もいる」
ハルトはもう一切れを口に運びながら、再びその味を確かめる。
先ほどよりも迷いはなく、噛みしめるたびに感じる濃さを受け止めるようにゆっくりと味わった。
「確かに、強いな。でも……こういうものだと思えば、ちゃんと美味い」
その言い方に、レベッカは小さく笑う。
白ブーダンの優しさとは違う、はっきりとした個性を持つ味――それを受け入れたハルトの様子に、どこか満足げな気配が滲んでいた。
余韻がまだ舌に残る中で、ハルトはしばらく黙ってその感覚を確かめていた。
先ほどの強い香りと噛みごたえを思い出しながら、今度は迷いなく言葉を選んだ。
「まるで……ホルモン焼きみたいだな」
その一言にレベッカは少しだけ考える素振りを見せてから、納得したように笑った。
「そうね、確かにホルモンの串焼きみたいなものに似ているわね」
異なる言葉で表された同じ感覚が、自然と重なっていく。
ハルトはもう一口アンドゥイエットを口に運び、その濃い味わいを確かめながら、小さく息をついた。
続けて、ハルトは白ブーダンに視線を移す。
なめらかにほどける食感と、やさしく広がる味わい――それを頭の中で探るように整理しながら、ぽつりと口を開く。
「こっちはなんというか……やさしい洋風の茶碗蒸しを、そのままソーセージにしたような感じだな」
自分でも少し不思議な例えだと思いながら続けるが、すぐに首をかしげる。
「いや、違うな……例えるなら、そうだ、はんぺんか……さつま揚げみたいな感じか」
言い切ったあとで、ハルトは小さく頷く。
自分の中では腑に落ちた表現だった。
レベッカはその言葉にわずかに眉を寄せる。
「はんぺん?」
聞き慣れない単語に、純粋な疑問が浮かんでいる。
ハルトは少しだけ考え、言葉を選びながら説明しようとするが、うまく一致するものが見つからない。
「魚のすり身を使った……柔らかい食べ物なんだが……まあ、この白ブーダンに近い食感だと思えばいい」
完全に伝わった様子ではないが、レベッカは「そういうものなのね」と小さく納得したように頷く。
異なる土地の食文化が、曖昧なままでも重なり合うその瞬間に、わずかな面白さがあった。
白ブーダンの穏やかさと、アンドゥイエットの力強さ――対照的な二つの料理が並ぶ皿は、この街の持つ幅をそのまま示しているようだった。
そして、それを並んで味わっているという事実が、二人の間に流れる時間を、どこか特別なものへと変えていた。
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