第40話「何を決めたのか」
「実はあたし……男爵家の令嬢なの」
ハルトの足がわずかに止まる。
「……は?」
思わず声が漏れる。
一歩遅れて、隣に並び直す。
「いや、待て……今の、本当か?」
レベッカは肩をすくめる。
「冗談に聞こえる?」
軽く返しながら、視線は前に戻る。
ハルトは言葉を探す。
「いや……そうじゃないが……」
通りの灯りが二人の間を横切る。
さっきまでのやり取りと、目の前の姿がうまく結びつかない。
「なぜ男爵家の令嬢が冒険者をやっているんだ?」
ようやく言葉になる。
「そうなるわよね」
レベッカは短く息を吐く。
「家には、いられなくなったの」
足音がまた揃う。
ハルトはそれ以上すぐには聞かない。
レベッカの方から、少しだけ言葉が落ちる。
「追い出された、いえ、逃げ出したって言った方が近いかしら」
乾いた言い方だった。
「戻る場所もないし、戻るつもりもないわ」
レベッカは石鹸を指先でなぞったまま、少しだけ歩みを緩めた。
通りの灯りが揺れ、その影が石畳の上で細く伸びている。
「……昔ね」
ぽつりと落とす。
その声に、さっきまでの軽さはなかった。
ハルトは何も言わず、歩幅だけを合わせる。
レベッカは前を見たまま続ける。
「あたしの父は、酒が好きだったの」
短い言葉だったが、そこで一度切れる。
市場の喧騒が遠くに残る。
笑い声と、物を運ぶ音が混ざり合い、途切れない。
「最初は、ただの陽気な人だったわ。宴が好きで、よく人を集めて……それで済んでいたの」
石鹸を持つ手が、わずかに動く。
「母が亡くなってから、だんだん変わっていった」
言葉の間が伸びる。
「酒の量が増えて、賭け事にも通うようになって……帰ってこない日も増えた」
足元を見たまま、続ける。
通りの端では、荷を積み直す音がしていた。
「領地の一部を売ったのも、その頃だったわ。森とか、畑とか……気がついたら、少しずつ減っていた」
ハルトは横目で見る。
表情は変わらないが、声の温度が違う。
「それでも足りなくて、家の中のものも手放していったの。銀の食器とか、古い家具とか……母が持ってきたものも」
言い切ったあと、わずかに息を吐く。
「何度も止められてたわ。司祭も、近くの貴族も。でも、聞かなかった」
そのときの様子を見ているわけではないはずなのに、言葉には具体的な重さがあった。
「そのうち、噂になるのも早かった」
足音が少しだけ速くなる。
「給金が払えなくなって、使用人も減っていった。庭は手入れされなくなって、食事も質素になって……誰が見ても分かるくらいに、変わったわ」
ハルトは口を挟まない。
レベッカの視線は前を向いたまま動かない。
「それでも、決まっていたのよ」
少しだけ声が変わる。
「結婚の話が」
通りの灯りが一つ、二人の間を横切る。
「近くの子爵家に嫁ぐことになってたの。領地同士のつながりを保つための話」
石鹸を持つ手が止まる。
「でも――」
言葉が途切れる。
ほんの一瞬、間が落ちる。
「持参金が用意できなかったの」
それだけで十分だった。
「それどころか、ほとんどが抵当に入ってた」
淡々とした口調に戻る。
「父は期限を延ばしてほしいって頼んだみたいだけど……無理だったわ」
遠くで誰かが笑う声がする。
「信用がなかったから」
短く言い切る。
「書状が届いて、それで終わり」
石鹸を握る指先に、ほんの少しだけ力が入る。
通りの灯りがまた揺れ、二人の影が長く伸びた。
レベッカは少しだけ間を置いたまま歩いていた。
石畳を踏む音が、一定の調子で続く。
さっきまでの話を、そのまま飲み込むように。
「……破談になったあとね」
声が落ちる。
ハルトは黙って隣を歩く。
「父は、あれを受け入れなかった」
短く言い切る。
「自分のせいだって分かっていたはずなのに……認めなかったの」
灯りが横顔をかすめる。
表情は変わらないが、視線が少しだけ遠くへ外れている。
「相手の家が悪いって言ったわ。母の一族が弱いからだって……あとは、運が悪かったって」
乾いた言い方だった。
通りの向こうで扉が閉まる音がする。
「しばらくして、客が来たの」
足を止めることなく続ける。
「知らない家の使いだった。身なりがよくて、言葉も丁寧で……でも、ああいう人って分かるのよ」
ハルトはわずかに視線を向ける。
「ただの使いじゃない」
レベッカは石鹸を持つ手を少しだけ持ち替える。
「父と二人で話をしてた。長くはなかったけど……終わったあとの顔で分かったわ」
言葉を切る。
ほんのわずかな間。
「最初は怒ってた」
続ける。
「声を荒げて、追い返すって言ってたのに……」
歩く速度が少しだけ落ちる。
「金額を聞いたあとで、黙った」
その一言で十分だった。
ハルトは何も言わない。
「屋敷を戻せるかもしれないって……領地も、少しは取り戻せるかもしれないって……」
視線が前に戻る。
「そういう顔をしてた」
否定も肯定もない。ただ見ていたままをなぞる。
「正式な結婚じゃないって、はっきり言われたみたい」
淡々とした口調に戻る。
「あたしを側に置く、って」
その言葉だけが、少しだけ重く残る。
通りの灯りがまた揺れる。
「書かれたものは、もっと遠回しだったけど……意味は変わらないわ」
足元を見たまま、続ける。
「父は、最後には頷いたの」
短く。
「迷ってる顔じゃなかった」
そこで言葉が止まる。
石鹸を握る指先に、わずかに力が入る。
それでも歩みは止まらない。
夜の通りを、二人は並んで進んでいく。
レベッカは歩みを緩めないまま、言葉だけを少しずつ落としていく。
「最初はね、噂みたいなものだったの」
通りの端を行き交う人影が、灯りの下で揺れている。
「誰かが来てるとか、父が変な話をしてるとか……そんな程度」
肩をすくめるように言う。
「でも、それだけじゃ分からないでしょう」
ハルトは黙って隣を歩く。
「ただ、少しずつ変わっていったのよ」
石鹸を持つ手が、わずかに動く。
「父が、やけに機嫌がよくて……飲んでばかりだったのに、妙に楽しそうで」
言葉の間に、引っかかりが残る。
「それに、なくなったはずのものが戻ってきた」
視線が遠くへ向く。
「銀の食器がまた食卓に並んでたの。前は全部売ったはずなのに」
少しだけ間を置く。
「馬屋にも、新しい馬が入ってた」
その光景をなぞるように、ゆっくりと続ける。
「お金なんて残ってないはずなのに、変だった」
ハルトは横目で見る。
レベッカは前を見たまま、表情を崩さない。
「……でも、一番分かりやすかったのは」
声がわずかに落ちる。
「父の目だった」
短く言い切る。
「前は、あたしのことなんて見てなかったのに」
足音だけが続く。
「急に、ちゃんと見るようになって……でも、それが」
言葉を選ぶ。
「値踏みするみたいな目だった」
その一言で十分だった。
通りの奥で誰かが呼び合う声がする。
「それで、気づいたの」
レベッカは続ける。
「何かが決まってるって」
短い沈黙が落ちる。
「侍女が教えてくれたわ」
声が少しだけ低くなる。
「ずっと仕えてる人だったから、隠せなかったんだと思う」
ハルトは口を挟まない。
「“庇護を受けることになる”って」
言葉をなぞる。
「でも、それは妻としてじゃないって」
そこで、ほんのわずかに息が止まる。
すぐに整えられる。
「……あたしは、そこで全部分かった」
通りの灯りが二人の間を流れていく。
「家のことは、どうでもよかったわけじゃないけど……」
少しだけ言い淀む。
「それでも、自分のことまで勝手に決められるのは……違うと思った」
そのまま言い切る。
足取りは変わらない。
「そのとき、トーマスさんが来てたの」
名前が出る。
ハルトの視線がわずかに動く。
「ダンテさんと一緒に、よく屋敷に出入りしてた」
短く説明する。
「護衛のまとめ役で、外の人たちともやり取りしてたから……いろんなことを見てたのよ」
ほんの一瞬だけ、声に温度が戻る。
「トーマスさんは、気づいたの」
はっきりと言う。
「父が何を決めたのか」
ハルトは何も言わない。
「それで、侍女と執事と話をして……」
言葉が少しだけ遅くなる。
「決めた」
短く区切る。
「この家にいたらいけないって」
その一言が、静かに残った。
通りの灯りが揺れ、二人の影がまた長く伸びる。
レベッカの歩調が、ほんのわずかに変わる。
言葉を選ぶように、間が長くなる。
「出ることになった夜は……雨が上がったあとだったわ」
通りの空気に、どこか湿り気が残っている気がした。
「月は見えなかった。雲に隠れてて……屋敷の中も、暗かったの」
ハルトは横目で見る。
レベッカは前を見たまま続ける。
「父は客間で寝てた。酒で潰れてたから、起きる気配もなかったわ」
その言い方に、感情は乗っていない。
「廊下の灯りも落とされてて……足音がやけに響いたのを覚えてる」
石鹸を持つ手が、少しだけ強く握られる。
「侍女に言われるままに着替えたわ」
短く。
「いつもの服じゃなくて、外に出るためのものに」
豪奢な衣装ではないことは、言葉にしなくても伝わる。
「靴も、ちゃんと歩けるやつを選ばれて……」
そこで少しだけ息を吐く。
「荷物は少なかった」
続ける。
「着替えと……母の形見と……あとは帳面の切れ端くらい」
それだけで十分だと判断されたのだと分かる。
通りの奥で、誰かが荷を下ろす音がする。
「裏口に出たら、もう用意されてた」
視線がわずかに揺れる。
「小さい荷車が一台」
ハルトは歩きながら、その情景を思い浮かべる。
「トーマスさんがいた」
名前が落ちる。
「いつもと同じ顔で立ってたけど……」
言葉が少しだけ遅れる。
「決めてる顔だった」
そこで一度、間が入る。
レベッカはそのときの声をなぞるように言う。
「お嬢さん、いや……今日からは“レベッカ”と呼ばせてもらう」
わずかに視線が下がる。
「冒険者は、貴族の肩書きより、働く手と頭が頼りだ」
言い終えると、少しだけ息が抜ける。
ハルトは何も言わない。
「……少し迷ったわ」
正直に言う。
「でも、頷いた」
それだけで、その場の選択が決まる。
足音が重なる。
「侍女と執事が見送ってくれた」
声の調子は変わらない。
「抱きしめられて……何も言えなかった」
短く切る。
「向こうも同じだった」
灯りの影が揺れる。
「最後に、それだけ言われたの」
ほんの少しだけ、声が低くなる。
「“必ず、生き延びてください”って」
言葉が残る。
通りのざわめきが戻ってくる。
「父には……何も言ってない」
淡々と続ける。
「朝になったら、いなくなってるって分かるだけ」
それ以上は足さない。
「探すかどうかも、分からなかった」
そこで言葉が止まる。
レベッカは前を見たまま歩く。
ハルトも、隣で同じ歩幅を刻む。
夜の通りを、二人はそのまま進んでいく。
レベッカは少しだけ息を整え、歩きながら続けた。
声は落ち着いているが、どこか遠い場所を見ているようでもある。
「着いたのは、ローヌの商人街だったわ」
石畳の感触を思い出すように、足元へ視線が落ちる。
「トーマスさんの家は通りに面してて、一階は職場になってた。帳場があって、荷の出入りもそのまま見える造り」
扉の開閉、積み下ろしの音、通りのざわめきが混ざる情景が浮かぶ。
「上は住まい。二階と屋根裏に、家族と働いてる人たちが住んでた」
言葉の調子が少しだけ整う。
「最初に言われたのは、それだった」
レベッカは当時の声をそのままなぞる。
「ここでは、名前以外は全部やり直しだ」
短く、はっきりと。
「家のことも、仕事のことも、他の人と同じようにやることになる」
その言葉に、余地はなかった。
ハルトは横で聞きながら、わずかに頷く。
「それから、こうも言われたわ」
レベッカは続ける。
「読み書きと計算ができるなら、ここじゃ武器になる」
石鹸を持つ手が少しだけ動く。
「最初は、うまくいかなかったけど」
小さく息を吐く。
「帳簿に向かっても、手が止まってばかりで……何を書けばいいのか、分かってるのに動かなかった」
言葉を切る。
「でも、やってるうちに慣れていった」
簡潔に。
「数字の並びは変わらないし、物の出入りも同じだから」
徐々に流れが見えてくる感覚を、そのまま言葉にする。
「いつの間にか、整理できるようになってた」
ハルトは視線を向ける。
レベッカは前を見たまま歩く。
「そのうち、任されることも増えた」
声は変わらない。
「拠点の仕事だけじゃなくて、外の仕事も」
通りの向こうから荷車の音が近づいてくる。
「キャラバンに連れて行かれて、荷の数を見たり、出入りを確認したり……」
具体的な動きが浮かぶ。
「どこに何があるか、把握する役目をやるようになった」
短く言い切る。
「最初は名前だけ貸してもらってるみたいなものだったけど」
わずかに間があく。
「外から見れば、トーマスさんの弟子ってことになってた」
そのまま続ける。
「それでよかったの」
迷いはない。
「その方が、動きやすかったから」
通りの灯りがまた揺れる。
「……気がついたら、ここにいる意味は、自分で作れるようになった」
それ以上は足さない。
二人の足音が、同じ調子で続いていく。
レベッカは少しだけ言葉を飲み込み、足元を見たまま続ける。
「だからあたしは……」
短く息を吐く。
「もう、誰かに決められる場所には戻らないって決めたの」
通りの灯りが横顔をかすめる。
表情は変わらないが、声の芯は揺れていない。
「もう以前のあたしじゃない」
石鹸を持つ手を、軽く握り直す。
「ここでやっていくなら、自分で選ぶしかないから」
ハルトは横で聞きながら、何も言わない。
「うまくいくかどうかは分からないけど……」
ほんのわずかに間があく。
「それでも、あたしが決めたことだから」
言い切る。
通りの向こうで笑い声が上がり、すぐに遠ざかる。
「だから、あなたの石鹸の話も」
ふと、声の調子が戻る。
「ちゃんとやった方がいいと思ったの」
少しだけ視線を向ける。
「売れるかどうかじゃなくて、自分でやってみること」
短く言う。
「それが、大事だと思うの」
ハルトはわずかに頷く。
レベッカは前に視線を戻す。
「……まぁ、あたしのやり方だけどね」
最後に少しだけ力を抜いた声で付け足す。
二人の足音は、そのまま夜の通りへ溶けていった。
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