第39話「誰にも言わないでくれ」
日が傾き、石畳の影が長く伸びはじめる頃には、街のざわめきも少しずつ質を変えていた。
昼間の取引の声が落ち着き、代わりに食事を求める人の流れが通りに増えていく。
焼けた肉の匂いと、煮込みの湯気が混ざり合い、空気そのものが重くなっていた。
ハルトは歩きながら鼻を鳴らす。
「……腹減ったな」
レベッカも同じ方向へ視線を向ける。
「ちょうどいい時間ね」
ハルトは足を止め、腕に抱えていた鍋に視線を落とした。
まだ熱の気配が残っているそれを、少し持ち直す。
「その前に、この鍋をどうするかだな」
レベッカが横に並ぶ。
「一旦馬車留め場に戻る?」
人の流れは途切れない。
ハルトは腕に抱えた鍋に目を落とす。
このまま店に入るにはどうにも収まりが悪い。
レベッカもその視線を追い、わずかに眉を寄せた。
少しだけ間を置いてから、口を開く。
「……これは誰にも言わないでくれ」
レベッカが首を傾ける。
「どうしたの?」
その問いに答える代わりに、ハルトは鍋を持ったまま手元に意識を向ける。
次の瞬間、そこにあったはずの重みが消えた。
腕が軽くなる。
レベッカの目がわずかに見開かれる。
「え? どうやったの?」
ハルトは視線を外し、何事もなかったように手を下ろす。
「これは俺の魔法なんだ」
レベッカは少し間を置き、改めてハルトを見る。
「あなた魔法使いなの?」
ハルトは肩をすくめる。
「魔法使いか。そうなのかもな」
曖昧に返すが、否定はしない。
そのまま、さっきの言葉を繰り返す。
「……誰にも言わないでくれ」
レベッカは短く頷く。
「わかったわ」
それ以上は聞かない。
驚きは残っているはずなのに、表に出さないまま、いつもの歩調に戻る。
ハルトも同じように足を進める。
空いた手が軽く揺れ、さっきまで抱えていた重さだけが記憶に残る。
二人は何事もなかったかのように、店の方へ向かった。
そして扉の半開きになった店の前で足を止める。
中からは火の揺れる明かりと、煮込みの匂いが漏れ出していた。
ハルトが中を覗く。
「ここは、肉料理屋か?」
レベッカが軽く頷く。
「そうね」
迷いはなかった。
二人はそのまま店内へ入る。
席に着くと、すぐに給仕が近づく。
レベッカが先に口を開く。
「ビール煮込みの牛肉シチューを二つちょうだい」
その言葉に、ハルトが顔を上げる。
「ビール煮込みだって?」
レベッカは気にした様子もなく続ける。
「煮込んであるから酔ったりはしないわよ」
ハルトは一瞬だけ考え、肩の力を抜く。
「それならいいか」
給仕が離れると、レベッカが横目で見る。
「あなた、どうしてお酒飲まないの?」
ハルトは視線を逸らし、卓の木目をなぞる。
「お酒は二十歳からだろ」
レベッカは首を傾げる。
「二十歳からなんて、誰が言ったの?」
ハルトは少しだけ言葉に詰まる。
「……誰だろうな」
曖昧に返す。
自分でもはっきりしないまま口にしていた。
レベッカはそのまま続ける。
「あなたがお酒を飲むところ、見たことないわ」
ハルトは短く息を吐く。
「好きじゃないんだ」
それ以上は足さない。
レベッカはわずかに頷く。
「いいことね」
その言い方に、否定も含みもない。
ハルトは視線を戻す。
「ベッキーも飲まないだろ」
レベッカは肩をすくめる。
「あたしも好きじゃないの」
ハルトは少しだけ身を乗り出す。
「なにかあったのか?」
レベッカは一瞬だけ目を伏せる。
「あたしじゃないわ」
それだけ言って、視線を外す。
そこで言葉は途切れる。
聞き返すには、少しだけ踏み込みすぎる距離だった。
沈黙が落ちる。
店の中では他の客の声と、鍋の音が重なっていた。
やがて給仕が戻ってくる。
皿が卓に置かれた瞬間、濃い香りが立ち上る。
ハルトが顔を上げる。
「美味しそう」
レベッカも同じように視線を落とす。
「いただきます」
二人は同時に手を伸ばした。
皿に盛られたそれは、光を吸い込むような深い色をしていた。
黒に近い焦げ茶の中で、細かな油が浮かび、灯りを受けてわずかに金色を帯びている。
湯気が立ち上るたびに、重さのある香りが鼻先に届いた。
ハルトはスプーンを差し入れる。
表面を破った瞬間、下に沈んでいた肉の塊が現れる。力を入れる必要はなかった。
押し込むだけで崩れ、繊維が細くほどけていく。
そのまま口へ運ぶ。
最初に触れたのは、わずかな苦味だった。
強く主張するものではなく、舌の奥に残るような輪郭。
そのすぐあとに、玉ねぎの甘さが広がる。
どちらも尖っていない。
重なり合いながら、ゆっくりと広がっていく。
飲み込む頃には、香りが追いついてくる。
麦を焦がしたような、軽く焼けた匂いが後から残る。
ワインのように鋭く抜けるものではなく、どこか丸みを帯びたまま、喉の奥に留まる。
ハルトはもう一度すくう。
今度は肉を意識して運ぶ。
歯を立てる前に、形が崩れる。
舌で押すだけでほぐれ、内側に閉じ込められていた旨味がにじみ出る。
脂の重さは感じない。
だが薄いわけでもない。
奥に残るのは、厚みのあるコクだけだった。
皿の中を見下ろす。
玉ねぎの形はほとんど見えない。
煮込まれて溶け込み、ソースそのものになっている。
そこにわずかな酸味が混じり、甘さと苦味をまとめていた。
ハルトはパンに手を伸ばす。
黒っぽいそれをちぎり、皿の中へ押し当てる。
表面がすぐに色を変え、内側へとソースが染みていく。
持ち上げると、重みが増しているのが分かる。
そのまま口へ運ぶ。
パンの内側にまで入り込んだ味が、噛むごとに押し出される。
麦の香りと肉の旨味が一緒になり、さっきとは違う形で広がる。
どちらが先でもなく、同時に来る。
ハルトは息を吐く。
「……これ、いいな」
レベッカもスプーンを動かしている。
頷きながら、もう一口運ぶ。
食べ進めるほどに、体の内側が温まっていく。
急に満ちるのではなく、ゆっくりと広がる。
気づけば、肩の力が抜けていた。
皿の中身はまだ残っている。
だが、すでに満足は形になり始めている。
皿の底に残ったソースをパンで拭い取るようにして、ハルトは最後の一口を口へ運んだ。
ゆっくりと噛み、飲み込む。
残っていた温かさが、喉の奥へ落ちていく。
スプーンを置く。
「……うまかった」
短く息を吐くと、レベッカも同じように手を止める。
「ごちそうさま。美味しかったわね」
二人の間に、さっきまでの味の余韻だけが残る。
しばらく動かずにいたが、やがてハルトが手を上げる。
給仕が近づく。
「6枚になります」
ハルトは迷いなく硬貨を取り出し、数えて差し出す。
受け取られ、代わりに軽い会釈が返る。
「ありがとうございました」
その声を背に、二人は席を立つ。
扉を押し開けると、外の空気が流れ込んでくる。
さっきまでの熱が、ゆっくりと抜けていく。
通りに出ると、夜へ向かう人の流れが続いていた。
灯りが増え、昼とは違う賑わいが生まれている。
二人は並んで歩き出す。
「また石鹸、作ろうと思う」
ハルトが言う。
レベッカはすぐに頷く。
「今仕込めば、ローヌで売れるわね」
その言葉で、帰り道の時間が頭に浮かぶ。
寝かせる日数と、到着の頃合い。
無理のない流れになる。
ハルトは人の少ない脇道へ視線を向ける。
少しだけ足をずらし、影になる場所へ入る。
周囲に目を配り、誰も見ていないことを確かめる。
手元に意識を向ける。
次の瞬間、何もなかった空間に重みが戻り、鍋が現れる。
レベッカは一瞬だけ目を細めるが、何も言わない。
すでに知っていることとして受け止めている。
二人はそのまま市場へ向かう。
通りを抜けると、まだいくつもの露店が開いていた。
昼ほどではないが、人の出入りは絶えない。
灯りの下で品物が並び、売り手と買い手の声が交わされている。
油を扱う店の前で足を止める。
壺に入ったオリーブ油が並び、表面がわずかに揺れている。
「これを頼む」
ハルトが指すと、店主が量を見てすぐに汲み分ける。
壺から移されるたびに、油の色が光を受けて変わる。
次に、灰を扱う店へ向かう。
布袋に詰められたそれは軽く、乾いている。
手に取ると、細かい粒がわずかに動いた。
灰の入った布袋、隣の露店で大き目の布、また別の店で板を購入する。
さらに奥へ進むと、草の束を並べた店がある。
吊るされた葉や茎から、青い香りが漂っていた。
ハルトは一束を手に取る。
指で軽く揉むと、香りが強くなる。
「これも」
支払いを済ませ、受け取る。
レベッカが覗き込む。
「それ、どうするの?」
ハルトは束を軽く持ち上げる。
「石鹸に香りをつける」
レベッカは小さく笑う。
「それはいいわね」
短い言葉だったが、はっきりとした肯定だった。
二人は再び歩き出す。
手にした材料の重みが、次の作業へそのまま繋がっていく。
宿へ向かう道すがら、ハルトは懐から小さく切り分けた石鹸を取り出し、レベッカに差し出した。
「せめてものお礼だ。これは約束していたものだから受け取ってくれ」
レベッカは一瞬だけ手を止めるが、やがて受け取る。
「……わかったわ。ありがとう」
掌に乗せたそれを、指先でなぞる。
滑らかな面を確かめるように持ち替え、少しだけ顔を近づけた。
香りは強くない。
油の名残がかすかにあるだけで、ほとんど主張はない。
水に近い淡さの奥に、どこか落ち着くような気配がある。
レベッカはそのまま歩きながら、石鹸を見つめる。
「……変な匂い、しないのね」
ハルトは肩をすくめる。
「しっかり熟成させたからな」
レベッカは小さく頷く。
そのまま視線が少し遠くへ外れる。
通りの灯りが石畳に落ち、足元で揺れている。
少しだけ間があく。
ハルトは横目で様子を見る。
「そういえば、ここでは石鹸は珍しいんだな」
「えぇ、そうかもね」
レベッカは頷きながら、手の中の石鹸を見つめる。
指先で表面をなぞり、少しだけ持ち替える。
鼻先に近づけて確かめるように息を吸い、すぐに離した。
その仕草は、初めて触れるものに対するものには見えなかった。
「そういえば、俺が石鹸を作ると言った時、ベッキーは石鹸のことを知っていたようだったな」
ハルトは横目でそれを追う。
レベッカは、もう一度石鹸を見下ろす。
「……昔はよく使ってたのよ」
指先で縁をなぞる。
「ローヌでは石鹸は身近なものなのか?」
レベッカは小さく首を振る。
「そんなことはないわね」
少しだけ間を置く。
「あたしの家で、毎日使ってただけ」
レベッカはそこで言葉を切る。
ほんの少し迷うように息をつき、ハルトの方を見る。
「……あなたには、言ってもいいかしら」
石鹸を指先で持ち替え、わずかに視線を落とす。
「……誰にも言っちゃだめよ」
わずかに間が空いた。
レベッカはすぐには答えない。
石鹸を握ったまま、視線を落とす。
通りのざわめきが、その間を埋める。
やがて、顔を上げる。
「……実はあたし」
言いかけて、一度だけ息を整える。
ハルトの方を見て、それからまた前に視線を戻す。
「男爵家の令嬢なの」
足音が、石畳に静かに続く。
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