第38話「それでおあいこよ」
最後の束を所定の位置へ収めたところで、ようやく手が空いた。
倉庫の中にはまだ人の動きが残っているが、作業の山は越えている。
ハルトは手の埃を払うように軽く叩き、肩を回した。
足音が近づく。
「終わった?」
振り返るとレベッカが立っている。
ハルトは頷く。
「あぁ、今終わったところだ」
レベッカはすぐに視線を外し、外の方へ顎を向ける。
「じゃぁ街へ行きましょ」
迷いのない言い方だった。
ハルトは短く返す。
「行こう」
二人は並んで倉庫を出る。
外に出た瞬間、空気の流れが変わる。
人の声、水の音、遠くで鳴る金属の響きが混ざり合い、街そのものが動いているようだった。
足元は石畳で固められ、途切れることなく続いている。
その両側には木とレンガで組まれた家々が並び、隙間なく連なっていた。
建物は細く高く、上へ向かうほどに視線が引き上げられる。
通りを抜けた先で視界が開ける。
広場に出た瞬間、空の広さが戻る。
中央には人が集まり、その周囲を囲むように建物が立ち並んでいる。
ハルトは足を止める。
尖塔がいくつも重なって見える。
石で組まれた市庁舎の壁面は細かく刻まれ、縦に伸びる線が強調されている。
その隣には教会の塔がさらに高く伸び、空へ向かって細く収束していた。
レベッカが横に立つ。
「この辺りが中心よ」
ハルトは視線を動かす。
広場の奥には別の塔が見える。
鐘楼だ。
一定の高さで区切られた構造が積み重なり、その上で鐘が収まっているのが遠目にも分かった。
再び歩き出す。
通りを進むと、水の気配が近づく。
やがて建物の間に細い運河が現れた。
水面は緩やかに揺れ、そこを小さな船が静かに進んでいく。
荷を積んだそれが、岸の近くで止まり、人が行き来している。
運河の脇には倉庫や商館が並び、入口が大きく開かれていた。
中には布や木箱が積まれ、外へ運び出されていく。
水と陸の動きが同じ場所で交差していた。
ハルトは少し歩幅を落とす。
目に入るものが多く、視線が定まらない。
通りの両側の家々に目を向ける。
屋根の形が段になり、上へ向かって刻まれるように積み重なっている。
階段のような輪郭が空に切り込む。
その下で、二階以上がわずかに張り出し、通りを覆うように迫っていた。
道幅は広くない。
それでも人の流れは途切れず、かえって密度が増している。
声と足音が近く、すぐ隣で別のやり取りが始まる。
ハルトは周囲を見渡しながら息を吐く。
「……すごいな」
レベッカが小さく頷く。
街はただ広いだけではなかった。
積み重ねられた形が、そのまま活気になっている。
歩くたびに、新しいものが目に入り、そのどれもがこの場所の一部だった。
通りを進むにつれて、空気に混じる匂いが少しずつ変わっていく。
乾いた布の匂いに、どこか湿り気を帯びた水の気配が重なる。
視線の先で、軒先から長く垂らされた布が風に揺れていた。
近づくと、その色の違いがはっきり分かる。
深い青、くすんだ赤、まだ染めきれていないような淡い色。
並べられたそれぞれが、途中の工程を示しているようだった。
通りの奥では、大きな桶に布が沈められている。
腕まくりをした男たちが、それを持ち上げ、水を切り、再び沈める。
水面が揺れ、染料の色が光を鈍く反射する。
さらに進むと、別の場所では濡れた布が広げられていた。
縄にかけられ、等間隔に並ぶそれが風を受けて揺れる。
滴が地面に落ち、足元に暗い染みを作っていた。
ハルトは足を止める。
ひとつの流れとしてつながっているのが見える。
洗われ、染められ、乾かされる。
その先には、織り上げられた布が店先に積まれている。
レベッカが横に並ぶ。
「この毛織物と遠隔交易で、ここウェルペンはこの地域経済の中心なのよ」
ハルトは視線を動かす。
今見ている作業が、そのまま街の動きを支えている。
通りには人が増えていた。
荷を抱えた者、籠を持った者、手ぶらで行き交う者。
それぞれが目的を持って動いている。
声の数も多く、やり取りがあちこちで重なっていた。
広場に近づくと、その密度はさらに増す。
農村から持ち込まれた品が並び、穀物の袋や、積み上げられたチーズ、籠に入った卵や野菜が所狭しと置かれている。
新しいものが運び込まれるたびに、人の流れが少しずつ形を変えていく。
ハルトは人の間を抜けながら歩く。
足を止めれば押し出されるような流れだが、不思議と混乱はない。
誰もが慣れた動きで、場所を譲り合っている。
通りの並びにも偏りがあることに気づく。
ある区画では織機の音が絶えず響き、別の通りでは染料の匂いが強くなる。
さらに進めば、革を扱う店がまとまり、その先には鉄を打つ音が続く。
レベッカが少しだけ振り返る。
「ギルドごとに固まってるの」
ハルトは頷く。
見えているものが、点ではなくまとまりとして機能している。
職人ごとに場所が決まり、作業が分かれ、そのすべてが繋がっている。
店先には商品が並び、窓からは布や道具が張り出している。
通りにせり出すように置かれたそれが、人の流れに近い場所で目に入る。
歩くだけで、何が作られ、何が売られているのかが分かる。
ハルトは歩みを緩める。
目に入るものが多く、追いきれない。
それでも、どこかで一本の線として繋がっているのは感じ取れた。
この街は、ひとつの仕事だけで成り立っているわけではない。
だが、その中心にあるものははっきりしている。
毛織物と、それを運ぶ流れだった。
広場へ踏み入れると、空気の重なり方が変わった。
声の高さも言葉も揃っていないのに、全体として一つの流れになっている。
足元の石畳には人の影が絶えず動き、立ち止まる場所を選ばなければすぐに押し流される。
並べられている品は、さっきまで見てきたものよりさらに幅が広い。
巻かれた毛織物が積み上げられ、その隣には厚手の毛布や、壁に掛けるための織物が広げられている。
色や模様の違いがはっきりしていて、触れなくても質の差が見て取れた。
その向こうでは、袋に詰められた塩が山のように積まれている。
白く乾いた粒が光を反射し、その横には小さな壺や袋に入った香辛料が並ぶ。
風に乗って、鼻を刺すような匂いがかすかに漂っていた。
樽も並んでいる。
蓋を叩く音が響き、買い手が中身を確かめている。
木材の束や、積み上げられた小麦袋も目に入る。
どこから来たのか、そしてどこへ向かうのかが、そのまま並べられているようだった。
ハルトは歩きながら視線を巡らせる。
通り過ぎる人々の装いもばらばらだ。
色の濃い外套、薄い布の服、見慣れない形の帽子。
言葉も耳に入るが、意味までは拾えない。
少し先で人だかりができている。
覗き込むと、卓の上に秤や小さな袋が並び、硬貨が次々と置かれている。
両替商だ。
差し出される通貨が違うたびに、手際よく選び替えられ、別の形になって返されていく。
レベッカが歩調を合わせる。
「いろんなところから来てるわね」
ハルトは短く頷く。
「混ざってるな」
それ以上は言わないが、目に入るものの多さがそれを示していた。
二人は人の流れに乗りながら歩く。
話は途切れ途切れに続き、視線はそれぞれ別の方向へ向く。
それでも並ぶ位置は変わらない。
やがて、ハルトの足が止まる。
露店の一角、刃物が並べられた台の前だった。
光を受けて鈍く光る刃が、規則的に並んでいる。
レベッカが横から覗く。
「どうしたの?」
ハルトは一振りを手に取る。
鞘に収められたそれは、手の中で収まりがいい。
「石鹸を切り分けるナイフが欲しいんだ」
刃の重さと長さを確かめるように、軽く持ち替える。
「これを1本くれ」
店主の老人が顔を上げる。
「グローかい? リンかい?」
ハルトは一瞬だけ考え、すぐに答える。
「リンだ」
「なら200リンだよ」
ハルトは財布から硬貨を取り出し、数えて差し出す。
受け取られたあと、鞘ごと手渡される。
手に収まる重さが、さっきよりもしっくりくる。
二人は露店を離れる。
人の流れに戻りながら、レベッカが口を開く。
「石鹸できたの?」
ハルトは少しだけ考え、頷く。
「もうそろそろいい頃だと思う」
答えは曖昧だが、手応えはあった。
広場の端へ抜けると、少しだけ人の密度が緩む。
近くの店先で、焼きたてのパンが並んでいるのが目に入る。
表面にたっぷりと塗られたバターが、熱で溶けて光っていた。
ハルトは足を向ける。
「美味しそうね」
レベッカが小さく言う。
「食べるか」
ハルトが返す。
「えぇ」
短い返事が返り、二人はそのまま店先へ歩み寄った。
「これ、2つ」
受け取ったパンはまだ温かい。
指に伝わる熱を感じながら、半分に割る。
バターの香りが強く立ち上る。
かじると、表面は軽く崩れ、中はしっとりとしたまま。
溶けた脂がじわりと広がり、穀物の味に重なる。
「さっきの市場、すごかったな」
「ここは特に人が集まるからね。時期もいいし」
「時期?」
「収穫の始まりと大市が重なる時期なのよ。だから余計に賑わうの」
ハルトは頷き、もう一口かじる。
「どうりで人が多いわけだ」
レベッカは笑う。
「まだ増えるわよ。これから本番だもの」
二人の歩調は自然と揃い、会話も途切れず続く。
手にしたパンは少しずつ減っていくが、その分だけ時間がゆっくりと流れているようだった。
広場を抜けたところで、ハルトは足を止めた。
人の流れの向こうに、まだ見切れていないものがいくつもある。
目に入るものが増えるほど、頭の中に一つの考えが浮かび上がってきた。
交易都市――。
なんでも集まり、なんでも流れていく場所。
ハルトは横を歩くレベッカを見る。
「ここで石鹸、売ってみたらどうだろう」
レベッカは少しだけ考えるように間を置く。
「そうね。宿屋か銭湯なら買ってくれるんじゃないかしら」
その言葉で、ハルトの中に残っていた会話が繋がる。
卸す、という選択。
目の前の客に一つずつ売るよりも、まとめて扱う場所に渡す。
頷くと同時に、体が先に動いた。
「行こう」
二人はそのまま馬車留め場へ戻る。
並ぶ荷の間を抜け、自分の荷馬車の前に立つ。
周囲に視線を巡らせ、誰も見ていないことを確かめてから、荷の奥に手を入れる。
まるで荷台から取り出したように布をかけ直し、何食わぬ顔で抱え直す。
そのまま宿屋へ向かう。
扉を開け、中に入る。
昼を過ぎた時間で、客はまばらだ。
カウンターの奥にいた店主が顔を上げる。
ハルトは鍋を置く。
「これ、仕入れないか」
店主は視線だけを落とす。
布の下にあるものを見ても、表情は動かない。
「なんだそれ」
「石鹸だ」
短く返す。
店主は一度だけ鼻で息を吐いた。
「いらねぇな」
それで終わりだった。
まるで興味も示さない。
ハルトは鍋を持ち上げる。
引き下がるしかない。
外へ出ると、レベッカが小さく言う。
「次、行きましょ」
頷き、今度は銭湯へ向かう。
中に入ると、湿った熱気がまとわりつく。
湯気の向こうに人影が揺れ、声が反響していた。
受付の男に声をかける。
「これ、使ってみないか」
鍋を見せると、男は少しだけ目を細める。
さっきの店主とは違う反応だ。
「石鹸?」
「あぁ」
男は腕を組む。
「ふむ、面白そうだが……」
視線は外さないが、答えは同じだった。
「すまんな」
はっきりと断られる。
ハルトは一瞬だけ迷うが、鍋を抱え直す。
「……じゃあ、客に聞こうか」
受付の男は肩をすくめる。
「勝手にしろ」
ハルトとレベッカはそこで分かれ、銭湯に入っていった。
洗い場で、ハルトは石鹸を手に取る。
指でなぞると、表面は滑らかに整っている。
水に濡らし、こすり合わせる。
泡が立つ。
それだけで、周りの動きがわずかに止まった。
腕に伸ばす。
肌の上で滑り、汚れが浮く感覚がはっきりと分かる。
こすっても引っかかりがない。
流すと、すっと落ちる。
残るのは、軽さだけ。
ハルトは息を吐く。
思っていた以上にいい感じに仕上がっていた。
そのとき、隣の男が身を乗り出す。
「それ、なんだ」
視線が集まる。
「貸してくれ」
ハルトは首を振る。
「売るつもりなんだ」
場が少しざわつく。
興味が、言葉として表に出る。
やがて湯から上がる。
外に出ると、少し遅れてレベッカも出てきた。
髪を拭きながら近づく。
「女湯も同じよ」
短く言う。
「みんな見てたわ」
そのとき、背後から声がかかる。
「おい」
振り返ると、さっきの銭湯の店主が立っていた。
さっきとは違う目をしている。
「それ……いくつ用意できる」
ハルトは鍋を持ち直す。
「今はこれだけしかないんだ」
店主は頷き、すぐに続ける。
「そうか。それでいくらだ?」
問いは短い。
逃がさない調子だった。
ハルトは言葉を探す。
ここまで来て、値を決めていなかったことに気づく。
売れるかどうかを先に考え、値段は後回しになっていた。
視線が鍋へ落ちる。
中にある分量を頭の中で割る。
ひとつずつ使われる場面を思い浮かべる。
洗う人数、回転、店の取り分。
「小分けすれば……20人分にはなる」
顔を上げる。
「一人50リンで売れば、1000リンになる」
店主は動かない。
ハルトは続ける。
「だから、600でいい」
言い切ったあと、わずかな沈黙が落ちる。
店主は顎に手を当て、短く考える。
その間に、後ろで誰かが出入りする音がした。
やがて、手を離す。
「よし、買った」
言葉と同時に、棚から硬貨が出される。
ひぃふぅみぃと数えられ、600リンがそのまま差し出された。
ハルトはそれを受け取る。
重みが掌に乗る。
逃げ場のない実感だった。
鍋を開ける。
中から石鹸を取り出し、さっき買ったナイフを抜く。
刃を入れると、すっと抵抗なく進む。
切り口が揃い、形が崩れない。
分けたものを差し出す。
店主は手を伸ばしかけて、止める。
「ちょっと待ってろ」
奥へ引っ込み、すぐに戻ってくる。
手には布――タオルだ。
それを広げ、石鹸を受け取ると、丁寧に包み込む。
そのまま持ち上げ、重さを確かめるように一度だけ揺らした。
「悪くねぇな」
短く言い残し、背を向ける。
それで終わりだった。
ハルトはしばらくその場に立ったまま、手の中の硬貨を見下ろす。
作って、渡して、対価を受け取る。
単純な流れが、今はっきりと形になった。
隣でレベッカが覗き込む。
ハルトは半分を取り出す。
「レベッカの取り分だ」
差し出す。
レベッカは首を振る。
「受け取れないわ。あたし何もしてないもの」
ハルトは一歩だけ近づく。
「市場の案内もしてくれたし、鍋も運んでくれた。火のつけ方だって教えてもらった」
レベッカは小さく息を吐く。
「それだけよ」
視線を外す。
「ハルトはいつもご馳走してくれるじゃない。それでおあいこよ」
言い切ると、もう見ない。
差し出された手にも触れない。
ハルトはそのまま手を下ろす。
無理に押し付けることはしない。
掌の中の硬貨が、さっきよりも少し重く感じられた。
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