第37話「知らないことばっかりだ」
城門をくぐった先の景色は、これまで通ってきた街とはどこか違って見えた。
建物は細く高く、切妻の屋根が連なり、壁は彩りのある板や石で組まれている。
窓は縦に細く、上階が張り出して通りを覆い、道の奥が見えにくい。
布を扱う店が多いのか、軒先には染め上がった布が吊るされ、夜風に揺れていた。
キャラバンはその間を縫うように進み、やがて倉庫の並ぶ一角へと入る。
石壁に囲まれた広い空間に馬車が引き込まれ、手際よく荷降ろしが始まった。
長い旅の終わりを告げるように、木箱が地面に置かれるたび、乾いた音が響く。
ハルトは樽などの荷を抱え、決められた場所へ運ぶ。
手順は変わらないが、身体の動きはどこか軽い。
ここが終点だと分かっているだけで、力の入り方が違っていた。
気がつけば、空はすっかり暗くなっている。
灯りがいくつも点り、倉庫の影が濃く落ちる。
作業が一段落したところで、ダンテが近づいてきた。
「長旅お疲れさん」
短く言い、袋を差し出す。
「色はつけてあるからな」
ハルトはそれを受け取る。
重さが手に馴染む。
「明日の朝、積み込みだ。明後日の朝に出発するぞ」
それだけ告げると、ダンテは踵を返し、他の者の方へ向かった。
同じやり取りが繰り返され、袋が順に渡っていく。
ハルトは袋の口を開け、手の中で硬貨を確かめる。
指先で一枚ずつ触れ、音を確かめるように動かす。
2600リン。
思ったよりも入っている。
言葉に出さず、袋を閉じる。
結び目を軽く締め直し、腰の位置に収めた。
そのとき、背後から足音が近づく。
「ハルト」
振り返ると、レベッカが立っていた。
灯りの下で、顔の輪郭がはっきりと浮かぶ。
「ご飯たべよ」
声はいつも通りだが、どこか軽い。
ハルトは袋の位置をもう一度確かめてから頷く。
「行こう」
二人は並んで倉庫を出る。
外に出ると、夜の街はまだ動いていた。
灯りの下で人が行き交い、店先からは声が漏れる。
布の揺れる音と、遠くで鳴る鉄の響きが混ざり合う。
長い道を終えたあとでも、この街は止まっていない。
むしろ、これからが本番だと言わんばかりの気配がある。
ハルトはその流れの中へ足を踏み出す。
隣にはレベッカがいる。
言葉は少なくても、進む方向は同じだった。
屋台通りの喧騒を抜けると、灯りの色が落ち着いた。
呼び込みの声が背後に遠ざかり、代わりに低い話し声と食器の触れる音が前から流れてくる。
ハルトはそのまま扉を押し、店の中へ入った。
踏み入れた瞬間、視線が奥に引き寄せられる。
暖炉の前に据えられた鉄の枠に、大きな鳥が丸ごと串で貫かれていた。
ゆっくりと回され、火の前で炙られている。
表面の皮は色を変え、ところどころで脂がにじみ出し、落ちた滴が火に触れて小さく弾けた。
そのたびに、香りが一段強くなる。
焦げる直前のような匂いと、肉そのものの野性味が混じり合い、空気に広がっていた。
ハルトは足を止める。
「……丸ごとか」
レベッカが並び、同じ方を見る。
「ガチョウよ」
火に照らされた表面を見ながら言う。
「まだ真冬ほど脂はのっていないけど、夏の草を食べて、ほどよく肉付きがよくなってきているわ」
ハルトは目を離さずに頷く。
火に近すぎず、遠すぎず、一定の距離を保ちながら焼かれている。
その加減が、仕上がりを決めているように見えた。
席に案内されると、給仕がすぐに来る。
二人は迷わず注文を告げた。
「ガチョウのローストと、パンを」
給仕が去ったあと、ハルトは暖炉の方へ視線を戻す。
「ガチョウは初めて食べるよ」
レベッカがわずかに肩をすくめる。
「本当はハレの日の料理なのよ」
ハルトは顔を向ける。
「ハレの日?」
「祝祭日とか、宗教の行事のあとに食べるごちそうの事」
言葉は簡潔だが、意味は重い。
日常とは切り分けられた食事。
ハルトは少しだけ間を置き、暖炉の方へ視線をやる。
回されているガチョウの表面が、火の色を受けてゆっくりと変わっていくのを見ながら口を開く。
「ベッキーが物知りで助かるよ」
レベッカは肩をすくめる。
「あなた知らないことが多すぎるわ」
言い方は軽いが、否定というより確認に近い響きだった。
ハルトは苦笑し、卓に肘をつかないように手を引く。
「まぁな。知らないことばっかりだ」
レベッカはそれ以上は続けず、視線を料理が運ばれてくる方へ向ける。
ほどなくして皿が運ばれてくる。
焼き上がった串が台に下ろされた瞬間、皮が軽く張りを保ったまま揺れた。
表面には溶け出した脂が薄く膜を張り、火の光を受けてつやを帯びている。
ハーブと塩、それにわずかなニンニクとタマネギの香りが立ち上る。
鼻先には香ばしさとともに、肉の強い匂いと青さが同時に届いた。
「美味しそう」
ハルトが短く言う。
「いただきます」
ナイフを入れると、皮が軽く弾ける。
中から立ち上る熱とともに、匂いがさらに濃くなる。
切り分けた一切れを口へ運ぶ。
歯を入れた瞬間、しっかりとした噛み応えが返る。
鶏よりも強い繊維が、噛むごとにほどけていく。
内側からじんわりと甘みを帯びた旨味が広がり、そのあとを追うように脂のコクが重なる。
味付けは単純だ。
塩とハーブだけ。
それでも、火で炙られた脂が絡むことで、ひとくちごとに深さが増していく。
噛むほどに濃くなり、口の中に残る余韻が長い。
ハルトはもう一口、同じように口へ運ぶ。
変わらないはずの味が、少しずつ違って感じられる。
香り、脂、肉。
それぞれが順に立ち上がり、重なっていく。
火の前でゆっくりと焼かれていた理由が、そのまま口の中で分かるようだった。
皿の端に置かれた黒っぽいパンに手を伸ばす。
外側は乾いて硬く見えるが、指で押せばわずかにしなる。
ハルトはそれをちぎり、皿に溜まった肉汁へ押し当てた。
じわりと色が変わる。
表面からゆっくりと湿りが広がり、油を含んだ汁がパンの中へ染み込んでいく。
持ち上げると、端から一滴だけ落ち、皿に小さな音を立てた。
そのまま口へ運ぶ。
最初に触れるのは柔らかくなった表面の感触だが、噛み込むとすぐに内側の歯ごたえが残る。
完全に崩れることはなく、芯を保ったまま、染み込んだ脂と肉汁を押し出すように味が広がった。
火で炙られた香りが先に立ち、そのあとに塩気がゆっくりと滲む。
パンそのものの酸味と穀物の香りが重なり、さっきまでの肉とは違う形で旨味が立ち上がる。
ハルトは一度飲み込み、もう一口同じように浸す。
さっきよりも少し長く押し当て、染み込ませる量を増やす。
口に入れた瞬間の重さが変わる。
だが嫌な重さではない。
むしろ、味が増えた分だけ満足感が強くなる。
皿の上で役割が変わる。
添え物だったはずのパンが、もう一つの料理として成立していた。
視線を横に移すと、粗く刻まれた根菜が小さく盛られている。
ハルトはそれをすくい、口へ運ぶ。
やわらかく煮込まれたそれは、噛む必要がないほどほどける。
甘みが先に広がり、あとからわずかな塩気が続く。
肉のあとに口へ入れると、味の強さが一度ほどけ、舌の上が整う。
再び肉へ手が伸びる。
流れが自然にできていた。
レベッカが静かに言う。
「これから秋と冬に向けて、もっと太らせたガチョウも出てくるわ」
ハルトは皿から目を離さないまま頷く。
今食べているものよりも、さらに脂が乗る。
その想像だけで、味の先が見える気がした。
「その頃にまたここに来たいな」
言葉は軽く出たが、手は止まらない。
皿の上にはまだ熱が残り、香りも消えていない。
今この瞬間の味と、その先の季節の味が、同時に頭の中に並んでいた。
パンをもう一度浸し、ゆっくりと口へ運ぶ。
変わらないはずの手順が、少しずつ違う満足を連れてくる。
皿の上に残っていた最後の一切れを口へ運び、ハルトはゆっくりと噛みしめた。
肉の旨味も、染み込んだ脂の余韻も、もうこれ以上は続かないところまで来ている。
飲み込んだあと、わずかに息を吐く。
「美味しかったな」
レベッカが頷く。
「そうね、もうお腹いっぱい」
どちらも手は止まり、皿にはほとんど何も残っていない。
満ちた感覚だけが残っていた。
ハルトは手を軽く上げ、給仕を呼ぶ。
ほどなくして近づいてきた男が卓の横に立つ。
「6枚になります」
ハルトは財布から硬貨を取り出し、数えて差し出す。
30リン。
手の中で重みを確かめることもなく、そのまま渡した。
給仕は受け取り、軽く頭を下げる。
「毎度ありがとうございました」
やり取りは短い。
それで十分だった。
二人は席を立ち、店を出る。
扉を抜けると、外の空気が少しひんやりしていた。
灯りの並ぶ通りを、並んで歩く。
店の中に残してきた熱と匂いが、背中の方へ遠ざかっていく。
ハルトがぽつりと言う。
「やっぱお金があるっていいな」
レベッカが横目で見る。
「急にどうしたの」
ハルトは肩をすくめる。
「ここしばらく、贅沢してなかったからさ」
言葉は軽いが、実感がこもっている。
食べたいものを選んで食べる。
それだけのことが、久しぶりだった。
レベッカは前を向いたまま言う。
「いつも感謝してるわ」
何に対しての言葉かははっきりしない。
それでも、響きは穏やかだった。
そのまま足を進め、宿へ戻る。
中に入ると、昼間とは違う静けさが広がっている。
階段の前で自然と足が止まり、互いに向き直る。
「おやすみベッキー」
「おやすみハルト」
それだけ交わし、それぞれの階へ上がっていく。
扉が閉まり、足音が消えると、廊下には何も残らなかった。
翌朝。
食堂はまだ人の数が揃いきらない時間だった。
パンを割る音と、椀の触れ合う音が、低く続いている。
ハルトは手元の皿に視線を落としたまま、決まった動きで食事を進めていた。
隣の椅子が引かれる。
「調子はどうだ」
顔を上げると、ダンテが腰を下ろしている。
ハルトは反射的に姿勢を正す。
「あ、はい。今日も頑張りますよ」
返した直後、ダンテの視線がわずかに外れる。
「ベッキーのことだ」
言葉の向きが変わる。
ハルトは一瞬だけ手を止める。
思考が遅れて追いつく。
食堂の音はそのままなのに、自分の中だけが静かになる。
レベッカの顔が浮かぶ。
昨日の街の歩き方、料理の選び方、何気ない言葉の間。
だが、その奥に何があるのかまでは見えていない。
ダンテは続ける。
「あいつも抱えてるものがあるからな。支えてやってくれ」
重く言うでもなく、軽く流すでもない。
置かれた言葉が、そのまま残る。
ハルトは視線を落とす。
レベッカはあまり自分の話をしない為、実はよく知らない事がある。
だが、それをここで聞き返すのは違うと分かっていた。
「……わかりました」
短く返す。
それ以上は言わない。
ダンテはそれを受けて頷くこともなく、椀に手を伸ばす。
「食い終わったら積み込みだからな」
そのまま料理を口へ運ぶ。
話はそこで終わりだった。
ハルトも残りを口に入れ、噛み、飲み込む。
味はいつもと変わらないが、頭の奥に残るものが違う。
手を止めずに食べ終え、席を立つ。
外に出ると、朝の空気が少しだけ冷たい。
足を止めることなく倉庫へ向かう。
中ではすでに荷が整えられていた。
粗布で覆われた束がいくつも並び、太い縄でしっかりと縛られている。
ひとつに手をかけ、持ち上げる。
中に詰まっているものが形を保ったまま、腕に重さとして乗ってくる。
布越しに触れる感触は均一で、崩れない。
束ねられた毛織物だと分かる。
持ち運びやすいようにまとめられ、そのまま積み上げられていく。
ハルトはそれを肩に乗せ、所定の位置へ運ぶ。
並べられていく荷を見ながら、昨日の倉庫の光景が頭に浮かぶ。
樽が並び、その中にはワインが詰まっていた。
南から運ばれてきたものだ。
今、目の前にあるのは北の品。
毛織物。
これから南へ向かう道に積まれていく。
流れは単純だ。
だが、その単純さの中に、見えていない手順や約束がある。
ハルトは次の束に手を伸ばす。
考えながらでも、手は止まらない。
知らないことがまだ多い。
交易の仕組みも、その中で動く人間の考えも。
そして――
レベッカのことも。
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