第31話「付き合ってくれないか」
倉庫の奥で足を止めたダンテは、積み上げられた袋の列を一瞥したあと、ゆっくりと視線をハルトへ向けた。
その目は怒っているわけでも、探るように鋭いわけでもない。
ただ、見落としを許さない静かな重みだけを帯びている。
「小麦はどこに積んだんだ」
短い問いに、ハルトはわずかに呼吸を止める。
やはりそこに来るか。
そう思いながらも、すぐには言葉が出てこなかった。
あのときの判断が間違いだったとは思っていないが、それをどう説明するべきかは別の話だ。
ダンテは間を置かずに続ける。
「別に怒ってるわけじゃねぇ」
一歩だけ近づき、声を落とす。
「今回はそれで助かったやつもいる。感謝してたぜ」
その言葉に、わずかに肩の力が抜ける。
だが、完全に緩めることはできない。
沈黙が続く中、ダンテの視線は逸れないままだ。
「モルトに運んだ樽も、お前だな」
逃げ場はない。
問いではなく、確認だった。
ハルトは何も言わず、ただ視線を受け止める。
否定する理由も、取り繕う余地もなかった。
「言いたくねぇならいい」
ダンテは小さく息を吐き、腕を組む。
「責めるつもりで言ってるわけじゃねぇからな」
その声音は、先ほどまでよりも少しだけ柔らかい。
それでも、含まれている意味の重さは変わらない。
「いいか」
わずかに顎を上げ、周囲を一度だけ見回す。
「“隠せるやつが一番強ぇ”――この世界じゃ、それが当たり前だ」
言葉は短いが、余計な飾りがない分だけ、まっすぐに刺さる。
ハルトは何も返さず、ただ黙って聞くことしかできなかった。
「便利なもんほどな、見せ方を間違えると面倒を呼ぶ」
ダンテの目が、ほんのわずかに細くなる。
「おおっぴろげにやるな。いらねぇ敵が増える」
それだけ言うと、空気がふっと緩んだ。
先ほどまでの重さが、まるで最初からなかったかのように消える。
ダンテは踵を返し、いつもの調子で手を振る。
「ほら、突っ立ってねぇで動け」
一拍置いて、軽く肩を鳴らす。
「今日は量多いぞ」
その声には、もう先ほどまでの探るような色はない。
ただの現場の指示として、自然に響いていた。
ハルトは短く息を吐き、意識を切り替える。
考えるべきことは残っているが、今は手を止める理由にはならない。
目の前の樽へと視線を落とし、無駄のない動きで手を伸ばす。
持ち上げる、運ぶ、積む。
繰り返すうちに、さっきまで胸に引っかかっていた感覚が、少しずつ奥へと沈んでいく。
それでも完全には消えない。
ダンテの言葉は、作業の合間に何度も浮かび上がり、そのたびに同じ重さで意識に触れてきた。
荷を一つ積み終え、次へ手を伸ばす。
動きは変わらない。
ただ、その内側にだけ、わずかな違いが生まれていた。
最後の荷が収まり、縄が締められると、倉庫に満ちていた緊張が一気にほどけた。
肩で息をしていた連中が次々と手を止め、道具を片付け始める。
木箱の擦れる音も、掛け声も、ゆっくりと遠ざかっていった。
ダンテは一度だけ全体を見渡し、軽く顎を引く。
「明朝出発するからな」
それだけ言い残し、背を向ける。
その歩みは迷いがなく、すでに次の仕事へと意識が移っているのが分かった。
人の流れが外へと抜けていく。
足音が重なり、やがてまばらになり、最後には完全に途切れる。
残された空間は、さっきまでの熱気が嘘のように静まり返っていた。
積まれていた荷が消えた場所には、わずかな埃と木屑だけが残り、空気の中には穀物の匂いが薄く漂っている。
ハルトはその場に立ったまま、動かなかった。
腕には確かな疲労が残っているのに、それを動かす理由が見つからない。
視線だけが自然と空いた床へと吸い寄せられ、さっきまでの作業の軌跡をなぞる。
ふと、胸の奥に引っかかっていたものが浮かび上がる。
「……隠せるやつが強ぇ、か」
小さく漏れた声は、やけに乾いていた。
言葉の重さは理解している。
だが、それをどう扱えばいいのかは、まだ掴めていない。
便利な力ほど、扱いを間違えれば目立つ。
目立てば、見られる。
見られれば、探られる。
その先に何があるのか――想像はできても、実感が追いつかない。
足元に転がっていた木片を、軽く蹴る。
乾いた音が倉庫に響き、すぐに消えた。
「……バレてたな」
自嘲のように呟き、肩をわずかに落とす。
完全に隠せているとは思っていなかった。
それでも、あそこまで見抜かれていたことには、少しだけ驚きが残っている。
ダンテの視線の意味が、今になってはっきりと理解できた。
周囲を見回す。
もう誰もいない。
広い倉庫の中に、自分一人だけが取り残されたような感覚がある。
息をひとつ吐き、ゆっくりと肩の力を抜く。
考え続けても答えは出ない。
それよりも、明日の仕事はすでに決まっている。
積み、運び、届ける。
それだけは変わらない。
まずはそこを外さない――その単純な事実が、妙に現実的だった。
足を動かし、出口へ向かう。
大扉を抜けた瞬間、外の光が強く差し込み、一瞬だけ視界が白む。
空は高く、昼の熱が地面から立ち上り、肌にじわりとまとわりつく。
「……明朝、か」
誰に聞かせるでもなく呟き、歩き出す。
胸の奥には、まだ言葉にならない感覚が残っていた。
不安とも、期待ともつかないそれは、完全には消えないまま、ゆっくりと奥へ沈んでいく。
倉庫を出たところで声をかけられ、振り返るとレベッカが立っていた。
少しだけ首を傾げ、こちらの様子を探るように見ている。
「ハルトどうしたの?」
ハルトは一瞬だけ迷い、すぐに言葉を選ぶ。
「ベッキー。付き合ってくれないか」
それだけ言って歩き出す。
振り返らないその背中を、レベッカは数秒だけ見つめていた。
レベッカは小さく呟くが、返事はない。
わずかに唇を尖らせてから、足を踏み出す。
追いつくと、隣に並んだまま何も言わない。
だが、その沈黙は完全に穏やかなものではなかった。
通りを抜け、人の流れが濃くなっていく。
呼び込みの声が重なり、露店の並びが視界を埋め始めたところで、レベッカはようやく違和感に気づく。
「……ちょっと待って」
足を止め、周囲を見回す。
「ここ、市場じゃない」
ハルトはあっさりと頷く。
「鍋を探しているんだ」
それだけ。
レベッカはじっと顔を見つめる。
何か言いかけて、やめる。
肩を落とし、小さく息を吐く。
「……そういうことね」
感情を押し込めるように言って、前に出る。
並ぶ露店の中から、迷いなく一軒を選び、立ち止まった。
棚に並ぶ鍋や道具をざっと見渡し、ひとつを手に取る。
大きさにして直径30cmほどの素焼きの土鍋だ。
振り返りもせず、そのまま差し出す。
「これとかどうかしら?」
声は平坦だが、どこか棘が残っている。
ハルトはその違和感に気づかないまま、差し出された品へと視線を落とした。
差し出された土鍋を見て、ハルトは首をひねる。
「思っていたのと大分違うな」
土鍋を手に持ったまま、内側を覗き込む。
火の通りやすさや耐久を考えると、どうにも心許ない。
「鉄製のはないのか?」
その一言で、レベッカの表情が変わる。
呆れとも戸惑いともつかない視線が向けられた。
「……あなた誰と住んでいるの?」
予想外の問いに、ハルトは瞬きをする。
「一人で暮らしてるんだが……?」
レベッカは額に手を当て、小さくため息をつく。
「……どこから突っ込めばいいのかわからないわ」
少し間を置いて、視線を鍋へ戻す。
「鉄の鍋がどうかしたのか?」
ハルトが問い返すと、レベッカはきっぱりと言い切る。
「普通、一人で使うものじゃないわよ」
「どうしてだ?」
「高すぎるの。お店でもやってるなら別だけど、一人暮らしで買う人なんていないわ」
言いながら肩をすくめる。
その様子に、ハルトは手に持った鍋をもう一度見下ろした。
価値の基準が、明らかに自分の感覚とずれている。
「……そういうものか」
小さく呟くと、レベッカの視線が少しだけ鋭くなる。
「ねぇ、あなたもしかしてだけど……貴族だったりする?」
冗談とも本気とも取れない問いに、ハルトは即座に首を振る。
「そんなわけないよ。俺は一般人だ」
レベッカはじっと見たあと、興味を失ったように肩を落とす。
「ふーん」
それ以上は追及せず、視線を逸らした。
ハルトは手にしていた土鍋を店主の前に置く。
迷いは残っているが、選択肢は多くない。
「これ、二つ買います」
店主は一瞥して、指を一本立てる。
「1800リンだよ」
一瞬、言葉が止まる。
手の中の重さと値段が、どうにも噛み合わない。
それでも表情を崩さず、財布から硬貨を取り出す。
「……あ、はい」
数えて差し出すと、店主は無造作に受け取り、軽く顎を引いた。
「毎度」
店を離れてから、ハルトは手にした鍋を見下ろす。
まだ熱を持っているような錯覚があった。
「土鍋が一つ900リンもするとは思ってもみなかった」
率直に漏らすと、レベッカは肩をすくめる。
「まぁ、ハルトだしね」
その一言に、何とも言えない感覚が残る。
価値の違いなのか、常識の差なのか。
答えは出ないまま、二人は人混みの中へと歩き出した。
鍋を抱えたまま人混みを抜け、ハルトは周囲を見回す。
頭の中で組み立てている手順に、もう一つ足りないものがあるのははっきりしていた。
足を止めかけたところで、隣を歩くレベッカに声をかける。
「次は何か油が欲しいな」
レベッカは即座に視線だけで振り返る。
「ラード? それともオリーブ油?」
迷いはなかった。
「オリーブ油かな」
短く答えると、レベッカは小さく頷き、そのまま進む方向を変える。
歩き慣れている足取りで露店の列を縫い、迷うことなく一軒の店の前で立ち止まった。
「それならこっちね」
店先には大小の壺や瓶が並び、独特の香りが漂っている。
油屋だとすぐに分かった。
ハルトは鍋を抱えたまま一歩前に出る。
「オリーブ油をください」
店主はちらりと鍋に視線を落とす。
「その鍋に入れるのか?」
ハルトは一瞬、言葉の意味を測りかねて手元の鍋を見る。
容器を指定されているのか、それとも別の何かを求められているのか、理解が追いつかない。
数秒遅れて、ようやく気づく。
この場で直接、量って売るのか。
「……あ、そうです」
少しだけ間を置いてから頷く。
「半分ほどでいいので」
店主は手を差し出す。
「貸しな」
鍋を渡すと、ひしゃくで油をすくい、ためらいなく注ぎ込んでいく。
琥珀色の液体が内側を滑り、底にたまっていく様子を、ハルトは無言で見ていた。
半分ほど満ちたところで、店主は手を止める。
「60リンだ」
「こっちの鍋は持ってあげるわ」
「助かる。ありがとう」
レベッカに空の鍋を渡し、硬貨を数え店主に渡す。
「はい」
差し出すと、店主は無造作に受け取り、軽く顎を引いた。
「毎度」
ハルトは鍋を受け取り、わずかな重みの変化と、油の揺れが指先に伝わる。
店を離れ、人の流れに戻る。
しばらく歩いてから、ハルトは鍋の中を覗き込んだ。
「ちょっと予想と違った」
素直に漏らすと、レベッカが横目で見る。
「あたしもよ」
わずかに肩をすくめる。
「その油、どうするの?」
歩きながら、レベッカがふと口を開く。
ハルトは少し考え、視線を上げ、鍋を持ち直しながら答える。
「石鹸でも作ろうと思って」
一瞬、足が止まりかける。
「あなた、石鹸を作れるの?」
疑いというより、単純な驚きだった。
「前に一度作ったことがあってな。多分出来るんじゃないかな」
曖昧な言い方にもかかわらず、ハルトの足取りは変わらない。
通りを抜けた先で、ハルトは足を緩める。
手に持った鍋の重みと、中で揺れる油の感触を確かめながら、頭の中で手順を組み立て直していた。
足りないものはあと一つ。
だが、それがどこで手に入るのかが分からない。
「……あとは灰が欲しいな。問題はどこで手に入るかだ」
レベッカは少しだけ考え、すぐに答える。
「灰? それならパン屋に行けば分けてもらえるんじゃないかしら?」
迷う理由はなかった。
二人はそのまま方向を変え、焼きたての匂いが漂う通りへと足を向ける。
しばらく歩くと、「金の穂と古い窯」という木の看板が目に入った。
焼けた麦の香りと、微かに混じる焦げの匂いが空気に広がっている。
店先には焼き上がったばかりのパンが並び、表面の色と膨らみ具合からも、火の扱いに慣れていることが伝わってくる。
ハルトは鍋を足元に置き、店番をしている少年に声をかけた。
「チーズパンを二つくれ」
少年は顔を上げ、手早く品を選ぶ。
「10リンだよ」
ハルトは硬貨を渡し、受け取る。
包み紙越しにも伝わる温もりに、焼きたてであることが分かる。
そのまま一歩近づき、声を落とす。
「窯の灰が欲しいんだが、分けてもらえるだろうか?」
少年は一瞬だけ目を瞬かせ、すぐに頷いた。
「ちょっと待ってて、聞いてくるから」
奥へと駆けていく背中を見送りながら、ハルトは店内を見回す。
窯の位置、動線、置かれている道具。
どれも使い込まれているのがよくわかる。
しばらくして、奥から重い足音が近づいてきた。
現れたのは、腕の太い店主だった。
「どのくらい欲しいんだ?」
ハルトはレベッカが持っている空の鍋を指差す。
「これの半分くらいだ」
レベッカは一瞬だけハルトを見る。
何も言わず、次に店主へ視線を戻す。
「……分かった」
ほっとしたのも束の間、店主はもう一言付け加えた。
「炭じゃなくて灰だな?」
「はい」
返事を聞き、店主は鍋を受け取ると奥へ引っ込む。
背中が見えなくなると、店先には再び静けさが戻った。
隣で少年が、声を潜める。
「パン買ってなきゃ、追い出されてたよ」
ハルトは苦笑する。
「そりゃそうだろうな」
商売の場に、用もなく立ち入るのは無粋だ。
そういう線引きは、この世界でも変わらない。
ほどなくして、店主が戻ってくる。
鍋を差し出すと、中には灰が半分ほど入っていた。
「ほらよ。また来な」
レベッカがそれを受け取り、軽く頭を下げる。
ハルトも短く礼を言い、パンの包みと油の入った鍋を持ち直す。
二人はそのまま店を後にする。
背後からは、再び窯の火が鳴る音が聞こえてきた。
「一旦うちに戻って置いてきていいか?」
間を置かずに返ってくる。
「それがいいわね」
二人は市場を抜け、通りを外れていく。
喧騒が少しずつ遠のき、足音だけが残る道に変わる。
そのまましばらく歩くと、質素な家の前で止まる。
「ここだ。開けてくれないか」
両手が塞がっているハルトの代わりに、レベッカが扉に片手をかける。
「どうぞ」
扉が開き、ハルトが中へ入る。
「悪いな」
短く言い残し、奥へと消える。
レベッカも中に入り、炭の入った鍋を置き、室内を見渡した。
余計なものがない、最低限の生活の痕跡だけが残る空間。
「……本当に一人で暮らしているのね」
独り言のように呟く。
戻ってきたハルトが肩をすくめる。
「珍しいか?」
レベッカは振り返り、少しだけ眉を寄せる。
「あなたの歳で一人暮らしは普通じゃないわ」
ハルトはそれ以上踏み込ませないように軽く流す。
「ちょっと事情があるんだよ」
間を切るように、手を払う。
「さぁ、お待たせ。行こうか」
レベッカは視線を外しながら尋ねる。
「どこに行くの?」
ハルトは扉を閉めながら答える。
「昼飯食べようぜ」
再び通りへ出る二人の背中を、昼の光が照らしていた。
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