第30話「お前、言ってねぇことがあるだろ」

 レベッカと別れたあと、ハルトはそのまま帰路につきかけて、ふと足を止めた。


 今日一日の汗と埃が肌にまとわりついている感覚が、思っていた以上に不快だったからだ。


 借家に戻れば寝るだけではあるが、このまま布に潜るのはどうにも落ち着かない。


 わずかな逡巡ののち、彼は方向を変え、人の出入りが絶えない湯屋へと足を向けた。




 入口で入浴料とタオルを支払い、布を受け取る。


 手元の荷が少しだけ整う感覚に、小さな安心が生まれる。


 旅の最中は、こうした細々とした備えが意外なほど効いてくるものだと、すでに身をもって知っていた。


 入口を入ると、湿気を帯びた熱気とざわめきが一気に押し寄せ、異国でありながらもどこか懐かしい空気が、体の奥にゆるやかに広がっていく。




 洗い場に腰を下ろし、桶で湯をすくって体にかける。


 流れ落ちる湯とともに、皮膚の表面に残っていた一日の痕跡が薄れていく。


 だが、手のひらでこすりながら、どこか物足りなさを覚えた。


 汚れは落ちているはずなのに、感覚として“落とし切れていない”。


 その違和感が、はっきりと形を持ち始める。




「……石鹸か」




 小さく呟いた声は、周囲の喧騒に紛れて消えた。


 だが、その一言をきっかけに、記憶の奥底に沈んでいた断片がゆっくりと浮かび上がる。


 理科の授業、白い煙、油の匂い、かき混ぜる手。


 確か、特別な材料が必要だったわけではない。


 ありふれたものを組み合わせるだけで、あの“当たり前”は形になるはずだ。




「油と……灰……だったか?」




 自分の記憶に確信はない。


 それでも、完全に的外れでもないという手応えがあった。


 湯をかぶりながら思考を巡らせるうちに、次第に考えは現実的な形を帯びていく。


 もし作れるなら、自分のためだけでは終わらない。


 ここには“それがない”という事実がある以上、求める人間は必ずいる。


 わざわざ意識するまでもなく、その発想は自然に広がっていった。




 体を流し終え、湯船に身を沈める。


 熱がじわりと全身に染み込み、張り詰めていた筋肉がゆっくりとほどけていく。


 視界に漂う湯気の向こうで、人々は思い思いにくつろいでいる。


 誰もが当たり前のようにここで体を清めているが、その“当たり前”を支えるものは、この世界ではまだ揃っていない。




「……やれるかもしれないな」




 声に出すほどの確信はない。


 それでも、やってみる価値はあると、静かに思う。


 頭の中で、ぼんやりとした手順が何度も組み替えられていく。


 失敗するかもしれない。


 それでも、試す前から諦める理由はどこにもなかった。




 次第に、全身にまとわりついていた疲労がゆるやかにほどけていく。


 だが、その心地よさとは裏腹に、ハルトの意識は妙に冴えていた。


 目の前の湯気の向こう側に、ただの休息では終わらない何かを見つけかけているような感覚があった。




 手のひらで湯をすくい、指の間から落としていく。


 その単純な動作の中で、思考は自然と別の方向へと流れていった。




 ここにはないもの。


 自分はそれを知っている側の人間だという事実。


 その差が、どれほどの意味を持つのか――まだ測りきれていない。




「……やりようはあるかもしれないな」




 独り言は小さく、すぐに湯気に溶けた。




「……もしかしたら、あれもいけるか?」




 頭の中に浮かぶのは、精密な機械でも難解な技術でもない。


 もっと単純で、誰でも触れられて、それでいて時間を奪うようなもの。


 手軽に作れて、繰り返し使われ、気づけば人が集まる。


 そんな性質を持つ“何か”が、この世界に存在しないのだとしたら――そこには空白がある。




 湯面を見つめながら、指先で小さく円を描く。




 規則的に、裏返したり、角を取り合ったり。


 頭の中で形になりかけたそれは、すぐに消えそうでいて、確かな手応えだけを残していた。




 材料は特別なものじゃない。


 作るだけなら難しくもない。


 だが、仕組みを知らなければ生まれない類のものだ。




「……転生ものに持ち込む、定番だな」




 思わず漏れた声に、自分で少しだけ苦笑する。


 根拠は曖昧だが、妙な確信があった。


 過去に見たもの、触れたもの、その一つひとつが、今の自分にとっては“持ち込み可能な資産”なのかもしれない。




 もし形にできれば、ただの便利品では終わらない。


 人を惹きつけ、繰り返し手に取られるものになる。


 そうなれば、自然と金も動く。


 そこまで考えたところで、胸の内にわずかな高揚が生まれる。




「……儲かるかもな」




 その言葉は、期待と現実の境目を探るように、静かに落ちた。




 ふと、視界が揺らぐ。


 湯の熱が思った以上に体を回していたらしい。


 額に滲んだ汗が、遅れて不快感を伝えてくる。


 思考に没頭していたせいで、限界に気づくのが一瞬遅れた。




「……そろそろ出るか」




 立ち上がると、足元がわずかに頼りない。


 それでも、ためらうことなく湯船を出る。


 名残を惜しむ余裕はなかった。


 冷たい空気が肌に触れた瞬間、意識が現実へと引き戻される。




 だが、完全には戻らない。


 体は現実に立っていても、頭の中ではまだ何かが動き続けている。


 ぼんやりとした構想が、形を持ちかけては消え、また別の形で浮かび上がる。




 湯屋のざわめきの中で、ハルトは一度だけ深く息を吐いた。


 その胸の奥では、まだ誰も知らない“遊び”が、静かに芽を出そうとしていた。








 借家に帰り、扉を閉めると外の喧騒が嘘のように遠のいた。


 ハルトはそのまま机の前に立ち、レベッカからもらった財布袋を静かに置く。


 紐を解き、中身を手のひらにあけると、硬貨同士が触れ合う乾いた音が、狭い部屋の空気に溶けていった。


 ひとつずつ指で弾くように数え、最後に揃え直す。




 2695リン。




 予想よりも残っている。


 その事実にわずかな余裕を感じながらも、無計画に使える額ではないことも同時に理解していた。




 指先で硬貨の縁をなぞりながら、明日の流れを組み立てる。


 積み込みを終えたあと、市場へ向かう。


 必要なものを揃え、試す。


 それが今の自分にできる、最も現実的な一歩だった。




 袋を閉じ、机の端へ寄せる。


 その何気ない動作の中で、思考は自然と自分の立ち位置へと向かっていく。




 剣を振るい、魔物と対峙するような生き方は、どこか遠い。


 集団で動き、危険と隣り合わせになる仕事に、自分の居場所は見えなかった。


 最低20人規模の隊列でキャラバンを守る。


 そんな光景を思い浮かべても、自分がそこにいる姿だけが妙に現実味を欠いている。




 結局俺は冒険者にはなれない。


 知識と経験もなければ伝手もなく、仕事にありつけないからだ。




 代わりに浮かぶのは、倉庫の風景だった。


 荷を持ち上げ、無駄なく積み、流れを止めない。


 あの一連の作業には、確かな手応えがある。


 フォークリフトのように荷を扱う感覚も、馬車を操る手応えも、どちらも身体に馴染みつつあった。




「……やっぱり、こっちか」




 小さく呟き、椅子に腰を下ろす。




 さらに意識を巡らせると、あの“収納”の力が思い浮かぶ。


 スタッカークレーンの延長のようでいて、それ以上の何か。


 扱いは慎重にならざるを得ないが、切り札であることに変わりはない。


 荷の扱いという枠の中で考えれば、これほど頼れるものはなかった。




 ただ、すべてが噛み合っているわけでもない。


 頭の片隅に引っかかるいくつかのスキルは、未だに使いどころが見えていない。


 理屈は分かるが、実際の現場でどう活きるのかが掴めないままだった。




「……まあ、今はいいか」




 無理に結論を出すことなく、そう区切る。




 ベッドに身を預けると、硬い寝具が一日の疲れを静かに受け止める。


 天井を見上げながら、明日の作業と、その先にあるかもしれない変化をぼんやりと重ねていく。


 できることを積み上げるしかない。


 その単純な事実が、妙にしっくりと胸に収まった。




 やがて思考は途切れ、意識はゆっくりと沈んでいく。


 静まり返った部屋の中で、ハルトは何事もなかったかのように眠りへと落ちていった。




───




 朝の空気はまだ冷たく、吐いた息がわずかに白く残る。


 ハルトは屋台で買った肉串を片手に、ゆっくりと倉庫へ向かっていた。


 焼かれた肉の香ばしさと、噛むたびに広がる塩気が、眠気の残る身体を内側から目覚めさせていく。


 通りにはすでに働き始めた人々の気配があり、その流れに自然と足が馴染んでいく。




 最後の一口を飲み込み、残った串をスタッカークレーンアイテムボックスに放り込むと、そのまま倉庫の大扉をくぐる。


 中に入った瞬間、荷の匂いと木材の乾いた空気が混ざり合い、いつもの現場の感覚が一気に戻ってきた。




 すでに奥にはダンテの姿があった。


 腕を組み、積み上げられた荷を眺めている。


 その立ち姿には無駄がなく、ただそこにいるだけで場が締まるような圧がある。




 ダンテが振り向く。




「早いな」




 一拍置いて、口元がわずかに緩む。




「聞いたぞ。頑張ってるそうだな」




 ハルトは軽く背筋を伸ばす。




「おはようございます。もっと頑張りますよ」




 ダンテは鼻で笑い、短く頷いた。




「その意気だ」




 それだけ言うと、振り返りもせずに倉庫の奥へと歩き出す。


 足音は重くないのに、不思議と存在感だけが残る。


 ハルトはその背中を追い、自然と歩幅を合わせた。




 並べられた荷の前で、ダンテが足を止める。


 無造作に顎で示した先には、まだ手付かずの積荷が整然と並んでいた。




「これだ。積め」




 短い指示。


 迷う余地はない。




 ハルトは一度だけ荷の配置を目で追い、そのまま動き出す。


 手順は頭に入っている。


 持ち上げる位置、重心、順番――考えるより先に身体が反応する。


 自分の馬車へと運び込む流れを描きながら、最初の荷に手をかけた。




 その瞬間。




「そうじゃねぇ」




 低い声が、動きを止めた。




 ハルトは顔を上げる。


 ダンテは腕を組んだまま、じっとこちらを見ていた。


 その視線は、単なる確認ではない。


 何かを測るような、探るような重さがある。




 ダンテは一歩、近づく。




「お前、言ってねぇことがあるだろ」




 空気がわずかに張り詰める。


 周囲の雑音が遠のいたように感じられ、ハルトは無意識に手を離した。


 胸の奥に、小さな引っかかりが生まれる。




 言っていないこと。




 思い当たるものがないわけではない。


 だが、それがここで出てくるとは思っていなかった。


 ダンテの視線は逸れない。


 試すでもなく、責めるでもなく、ただ事実を引き出そうとする圧だけが静かにかかってくる。




 ハルトは一瞬だけ視線を落とし、再びダンテを見る。




 何を、どこまで話すべきか。

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