第32話「とろとろになるまで」
二人は買ったばかりの素焼き鍋と油、それに灰を一度ハルトの借家へと運び込み、最低限の準備だけを整えてから、改めて街へ向かう事にした。
室内に残る土と油の匂いを背に、扉を閉めると、昼の熱気と人の流れが再び二人を包み込んだ。
屋台が連なる通りに入ると、焼けた肉や香辛料の匂いが混ざり合い、腹の奥を刺激してくる。
ハルトは足を止め、並べられた食材の中から目についた塊を指差した。
白く締まったチーズだ。
「これを二つくれ」
代金を払い、包みを受け取る。
すぐ近くのベンチに腰を下ろすと、さっきのパンを取り出し、手で割る。
まだわずかに温もりが残っていた。そこにチーズを挟み、かじる。
素朴な味だが、油と塩気が重なり、思っていたよりも満足感がある。
隣で同じように食べながら、レベッカが横目で見る。
「それで?」
ハルトは口の中のものを飲み込み、顔を上げる。
「うん?」
レベッカは少しだけ眉を寄せる。
「石鹸よ。あとは何が必要なの?」
ハルトはパンをもう一口かじりながら、頭の中を整理する。
油、灰――そこまでは揃った。次に必要なのは火だ。
「そうだな。火を使うから、薪がほしいな」
レベッカは間髪入れずに続ける。
「火打ち具は持ってるの?」
一瞬、言葉の意味を探る。
すぐに答えが出ない沈黙が、逆に全てを物語っていた。
「火打ち具?」
レベッカは呆れたように息を吐く。
だが完全に突き放す様子ではない。
「持ってないのね。薪と一緒に買いましょ」
立ち上がり、パンの包みを軽く畳む。
そのまま歩き出すと、ハルトも慌てて後を追った。
再び市場へ戻ると、人の流れは少しだけ変わっていた。
日が傾き始め、買い物客の顔ぶれも入れ替わっている。
レベッカは迷うことなく道具屋の露店へ向かい、並べられた道具を一瞥する。
「火打ち具をちょうだい」
店主は顎を撫でながら、棚の奥を指差す。
「サルノコシカケはいいのかい?」
レベッカは一瞬だけ考え、すぐに口元を緩める。
「おまけしてくれたら薪も買うわ」
店主は苦笑し、肩をすくめる。
「敵わねぇや。全部で520リンだ」
レベッカは満足げに頷く。
「ありがと」
ハルトは並べられた品を一通り見渡し、ふと視線を止める。
足元に無造作に置かれている木の桶だ。
深さと大きさを確かめるように手に取り、軽く持ち上げる。
「……あと、その桶とひしゃくも欲しい」
店主はちらりと見て、すぐに答える。
「んじゃ、合わせて780リンだ」
ハルトは一瞬だけ手を止め、頭の中で残りの金額を弾く。
財布の中身を見て、足りるかどうかを確かめるように指先で硬貨の枚数をなぞる。
残りは、ほとんど余裕がない。
それでも、ぎりぎり届く。
小さく息を吐き、胸の奥に引っかかっていたものを落とす。
数え間違いがなければ問題ない――そう判断して、ようやく手を動かした。
ハルトは財布から硬貨を取り出し、数えて差し出す。
「また来てくれよな」
愛想のいい店主から受け取った道具は、思っていたよりも簡素だが、手に馴染む重さがあった。
乾いた薪の束も一緒に抱え、持ち直す。
レベッカが横から覗き込む。
「これで全部?」
ハルトは軽く頷く。
「あぁ、これで作れる。今日はこの灰に水を入れるだけだけどね」
「そうなのね」
レベッカは鍋を覗き込み、灰の表面を指先で軽く突く。
さらさらと崩れる感触を確かめながら、視線を上げた。
「それで終わりじゃないわよね」
ハルトは頷き、薪の束を抱え直す。
「そこからしばらく置いて、水が染みて使える状態になるまで待つ感じだ」
「すぐにはできないのね」
「焦っても意味がないからな。それからが本番だ」
レベッカは少しだけ口元を緩める。
「じゃあ、その“本番”の時には呼んでね」
ハルトは一瞬だけ視線を向ける。
「いいのか?」
レベッカは肩をすくめる。
「途中まで見ておいて、最後だけ知らないのは気持ち悪いもの」
少し間を置き、付け加える。
「それに火の付け方もわからないでしょ」
ハルトは小さく息を吐く。
「……確かに、そこは頼ることになりそうだな」
「でしょ」
軽く言いながらも、その表情はどこか楽しげだった。
ハルトは苦笑し、薪と道具を持ち直す。
「分かった。できる頃に呼ぶ」
レベッカは満足したように頷くと、そのまま前を向く。
歩き出した背中を追いながら、ハルトは手にした薪と道具の重さを持ち替え、ふと苦笑を浮かべた。
「今日は思ったよりも使ったから財布がすっからかんだ」
レベッカは振り返りもせずに答える。
「でしょうね。一日であれだけ使う人も中々いないわ」
乾いた調子だが、どこか呆れと納得が混じっている。
ハルトは肩をすくめる。
「鍋くらい誰でも買うだろ」
間を置いて、レベッカがちらりと横目で見る。
「オリーブ油を煮るのね」
確認というより、確信に近い言い方だった。
ハルトは頷く。
「そうだな。そんで灰汁を入れるんだ。とろとろになるまでな」
言いながら、頭の中で手順をなぞる。
火の強さ、混ぜ方、タイミング。
曖昧な記憶を辿るように、少しずつ形を整えていく。
レベッカはしばらく何も言わずに歩き、やがて小さく息を吐く。
「楽しみだわ」
疑い半分、興味半分の声音だった。
ハルトはわずかに笑う。
「やってみないと分からないけどな」
その答えに、レベッカは肩をすくめる。
「まあいいわ。どうせ途中まではあたしも見るんだから」
足取りは変わらないまま、少しだけ前に出る。
その背中を見ながら、ハルトは薪の束を抱え直す。
失敗するかもしれない。
それでも、試さない理由はなかった。
二人はそのまま通りを抜け、人気の少ない公園へと足を運んだ。
石畳の道から少し外れた場所にあるそこは、街の喧騒が嘘のように遠く、木陰に腰を下ろすだけで空気が柔らかくなる。
ベンチに並んで座り、さっきの話の続きをするでもなく、ただ流れる時間をそのまま受け取るように過ごしていた。
子どもたちの笑い声が遠くで弾み、風に揺れる葉の音が重なる。
会話は途切れがちでも、不思議と気まずさはない。
むしろ、その沈黙のほうが今の距離にはちょうどよかった。
やがて日が傾き始めると、腹の虫が正直に存在を主張してくる。
ハルトは小さく息を吐き、ポケットの中の残りを確かめる。
残金30リン。
「……これで最後だな」
レベッカが横目で見る。
「計画的じゃないわね」
軽く言いながらも立ち上がる。
二人は再び屋台の並ぶ通りへ戻るが、ハルトはそのまま足を止めず、通りを抜けて奥へと進む。
呼び込みの声が少しずつ遠ざかり、代わりに落ち着いた灯りと静かな客の気配が漂う一角へと変わっていく。
木の看板が軋みながら揺れ、その下で扉が半開きになっていた。
中から漏れる灯りと料理の匂いが通りに滲み出ている。
「手伝ってもらった礼もあるしな。ちゃんと食おうぜ」
そう言って振り返る。
レベッカは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせる。
「明日からまた稼げるしな」
軽く付け足されたその言葉に、レベッカは視線を外す。
店の扉とハルトの顔を一度ずつ見比べ、小さく息を吐いた。
「……別にそこまでしてもらわなくてもいいのに」
口ではそう言いながらも、足は止まらない。
むしろ、ほんのわずかに前へ出る。
扉の隙間から漏れる温かな空気が、迷いを押し流すようだった。
ハルトはそれ以上何も言わず、先に中へ入る。
レベッカは一瞬だけ立ち止まり、通りを振り返る。
まだ屋台の明かりが遠くで揺れている。
それから小さく肩をすくめ、後を追った。
店内は外とは違い、低い声と食器の触れ合う音だけが静かに広がっている。
空いている席に案内され、二人は向かい合って腰を下ろした。
テーブルの木目が手のひらに馴染む。
運ばれてきた料理を前にして、レベッカは一瞬だけ躊躇する。
湯気の立つ皿に視線を落とし、それからハルトを見る。
「……本当にいいのね?」
確認するような声音だった。
ハルトは迷いなく頷く。
「もちろんだ」
それだけで十分だった。
レベッカは小さく息を吐き、ようやく手を伸ばす。
最初の一口を口に運び、ゆっくりと噛む。
その表情にわずかな緩みが浮かぶが、すぐに元の顔に戻す。
「……ちゃんとした味ね」
素っ気ない言い方だが、嫌そうではない。
ハルトはそれを見て、何も言わずに自分も食べ始める。
皿の上の料理が少しずつ減っていく。
会話は多くない。
それでも、気まずさはなかった。
レベッカはときおり視線を上げ、何か言いかけてやめる。
そのたびに、代わりにもう一口食べる。
言葉にしない分だけ、その場に留まる理由を確かめているようだった。
やがて皿が空に近づくころ、レベッカは小さく呟く。
「……まぁ、ハルトだものね」
誰に聞かせるでもないその言葉に、ハルトは特に反応しない。
ただ、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。
器の底に残った煮込みが、まだ熱を保ったままとろとろと揺れている。
スプーンで軽く掬えば、ゆっくりと形を崩しながら戻っていく。
その様子を見つめながら、レベッカがぽつりと口を開く。
「とろとろになるまで……か」
視線は皿の中に落ちたまま、どこか考え込むようだった。
ハルトはその様子を横目で捉えながらも、あえて何も言わず、残りの料理に手を伸ばす。
言葉を挟めば崩れてしまいそうな空気を、そのまま保つように、ただ静かに食べることを選んだ。
ハルトの心には、今日一日で使い切った金と引き換えに、妙に満たされた感覚が残っていた。
食べ終えたあとも、すぐに立ち去ることはしなかった。
名残を断ち切る理由が見つからず、ただ同じ場所に留まる。
空の色がゆっくりと変わっていくのを、二人で見上げる。
やがて、どちらからともなく立ち上がる。
「それじゃ、また明日ね」
レベッカが言う。
「また明日な」
ハルトも短く返す。
背を向け、それぞれ別の方向へ歩き出す。
振り返ることはなかったが、足取りはどこかゆっくりだった。
レベッカはトーマスの家へ、ハルトは借家へと帰っていく。
街の灯りが一つずつ灯り始め、昼とは違う静けさが広がっていた。
夜の空気が少しだけ冷え始めた頃、ハルトは借家の扉を押し開けた。
外のざわめきが背後で途切れ、室内に静けさが戻る。
手に持っていた荷を一つずつ机の上に置き、最後に灰の入った鍋へと視線を落とした。
底に溜まった灰は、昼間に見たときと変わらず、細かく均一に崩れている。
指先で軽く触れれば、さらりと流れる感触が伝わってきた。
ハルトは一度だけ周囲を見回し、桶に水を汲む。
わずかに揺れる水面を見つめながら、そのまま鍋の前に立つ。
記憶の中の手順をなぞるように、ゆっくりと腕を傾けた。
水が細く流れ、灰の上に落ちる。
じわり、と音もなく染み込んでいく。
乾いていた表面が暗く変わり、ところどころで小さな泡が浮かぶ。
「……こんなもんか」
独り言のように呟き、少しだけ水を足す。
全体がしっとりと湿るまで、何度か同じ動作を繰り返す。
やがて、灰は水を含んで重みを帯び、触れた指にわずかな粘りを残すようになった。
手を止め、しばらくその様子を見つめる。
ここから先は、すぐに形になるものではない。
時間をかけて、変化を待つしかない工程だ。
焦っても意味はない。
そう自分に言い聞かせるように、小さく息を吐く。
鍋を机の端へと移し、邪魔にならない場所に置く。
倒れないように位置を整え、最後にもう一度だけ中を覗き込む。
表面はすでに落ち着き、静かに沈んでいた。
「……明日だな」
短く言って、手についた灰を払い落とす。
外から聞こえる音は少なく、夜はすでに深くなり始めていた。
翌朝。
まだ空気が冷たい時間帯に、ハルトは目を覚ます。
腹の奥が空いたままなのは分かっていたが、どうすることもできない。
手元の金はすべて昨日使い切った。
そして当然ながら、家には食べるものはなにもない。
「……まぁ、仕方ないか」
短く呟き、顔を洗う。
水を含んだ灰の鍋や必要な物をアイテムボックスにしまい、空腹を押し込めるように息を吐き、外へ出る。
朝の通りはまだ人が少なく、足音だけがやけに響いた。
そのまま倉庫へ向かう。
身体は空っぽの財布袋のように軽く、腹の感覚を無視するように歩きながら、ハルトはただ前だけを見ていた。
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