第29話「あなたと話してると、飽きないわね」
夜明けの気配が空に広がる頃、キャラバンは滞りなく動き出し、街を離れてほどなくして視界の先に現れた光景に、ハルトは思わず目を細めた。
街道の両側に広がるのは、一面に揺れる黄金色の穂の波で、風が吹くたびにゆっくりと形を変えながら、どこまでも続いているように見える。
手綱を握ったまま、その景色を横目に追いながら、頭の片隅では不作の話がよぎり、この土地では違うのか、それともたまたまなのかと考えが巡るが、答えが出ることはないまま、馬の歩みに合わせて視線も前へ戻っていく。
その豊かな景色は一日目までで、二日目には道は次第に山間へと入り込み、広がっていた畑はいつの間にか背後へと消えていた。
代わりに続くのは整えられた街道と、時折すれ違う対向のキャラバンで、互いに道を譲り合いながら進んでいく様子から、この道が問題なく機能していることが自然と伝わってくる。
三日目にはさらに奥へと進み、二つ目の山を越えた先で辿り着いたのは、山小屋のようにひっそりとした宿場町だった。
簡素な造りの建物に身を寄せ、レベッカと並んで口にした干し肉入りのスープの温もりを感じながら、夜風に当たって見上げた空には、遮るもののない星々が広がっている。
星の並びを指でなぞりながら他愛のない話を交わし、旅の疲れを忘れるように笑い合うその時間が、静かな山の空気とともにゆっくりと積み重なっていった。
翌朝、再び出発して間もなく、長く続いた上りが終わり、下り坂に差しかかったところで景色が大きく開ける。
視線の先に広がるのは、山に囲まれていたこれまでとは対照的な広大な平原で、その中央に、ひときわ大きな街が静かに存在していた。
遠くからでも分かる規模の違いに、ハルトは思わず手綱を引く力を緩め、これまで通ってきたどの街とも比べられないほどの広がりを持つその景色を、しばらくのあいだ見下ろし続ける。
ブラニャックを出て18日目。
積み重ねてきた日数の実感とともに、キャラバンはようやく帰還の地へと辿り着いた。
御者台の上で揺れに身を任せながら、ハルトは懐から取り出したCitizen Cardに目を落とし、刻まれている住所の文字を指先でなぞるように確かめた。
「ローヌ」という名を心の中で繰り返すうちに、この長い道のりの先がようやく形を持ってきた気がして、その感触を逃さないようにカードをそっとしまい込む。
山道を下りきると視界は一気に開け、平原の向こうにそびえる城門がゆっくりとその輪郭を浮かび上がらせていく。
一見すればすぐに辿り着けそうな距離に見えるのに、進んでも進んでも手が届かない感覚が続き、日が傾き始めた頃になってようやくその巨大な門の下をくぐることになった。
街の中へ入ると大通りをそのまま進み、見慣れた倉庫の前を通り過ぎるが、一行はそこで足を止めることなくさらに奥へと進んでいく。
積んできた荷の内容を思い返せば、降ろす場所が違うことにすぐ気づき、ハルトも特に疑問を挟むことなくその流れに身を任せた。
案内された先はこれまで入ったことのない倉庫で、フィリップが主に手紙を差し出すと同時に、場の空気が切り替わったように一斉に作業が始まる。
荷台から降ろされる小麦の麻袋が次々と地面へ積み上げられていく中で、ハルトは自分の担当分を手早く片付けると、人目の少ない奥へと回り込み、アイテムボックスから小麦を取り出して元の流れに紛れ込ませ、そのまま何事もなかったかのように馬車へ戻った。
戻った頃には作業はほぼ終わりに差しかかっており、隊列はそのまま自分たちの倉庫へと移動する。
そこでも同じように荷が降ろされ、積み重ねられていく様子を眺めながら、ようやくこの一連の運搬が終わりに近づいていることを実感する。
やがてフィリップが一人ずつに声をかけ、給金の入った袋を手渡していく。
「ご苦労さん。色はつけてあるからな」
受け取った袋を手の中で確かめ、その重みを感じながら少し離れた場所で中を覗くと、並んだ硬貨の量が目に入る。
1700リン。
18日間の行程、そのうちの2日は雨で足止めされたことを思い返せば余分に積まれている分があることは明らかで、フィリップの言葉が形として残っているのが分かる。
袋を閉じ、もう一度その重さを手の中で確かめながら、ハルトは何も言わずにそれを懐へとしまい込んだ。
給金を受け取って倉庫を出ると、レベッカも同じように袋を手に戻ってくるのが見え、ハルトはその様子を横目で確かめながら通りへ出た。
夕方に差し掛かった街は、昼間とは違う落ち着いた賑わいを見せていて、行き交う人の流れもどこかゆるやかに変わっている。
その中を並んで歩き出しながら、いつもの店の名を思い浮かべた。
「また赤猪亭に行くか」
だが、レベッカは一度だけ足を緩め、少し考えるように視線を上げたあと
「今日はお魚が食べたいわ」
と視線を上げ、そのまま通りへ歩き出した。
迷いのない歩き方に引かれるように、ハルトも自然とその隣に並ぶ。
石畳を踏む音が一定の間隔で続く中、ハルトはふと浮かんだ疑問をそのまま口にする。
「なぁ、ここって海からだいぶ離れてるよな。それでも魚料理なんて出るのか?」
レベッカは歩調を崩さずに前を見たまま答える。
「ローヌ川の魚よ。今の時期ならマスか、ブリームね」
「ブリーム……聞いたことないな」
名前の響きを確かめるように繰り返しながら、ハルトはわずかに首を傾ける。
「じゃあ、ちょうどいいわね。試してみる?」
「それなら頼んでみるか。せっかくだしな」
短く言葉を交わしながら進むうちに、通りの灯りが少しずつ増え、店先から漏れる明かりが足元をやわらかく照らしていく。
その流れの中で、レベッカが思い出したように口を開く。
「そういえば聞いた? 明日、積み込みするの」
「聞いた。雨で遅れた分を詰めるんだろうな」
「ええ。それにダンテさん達、もう戻ってきてるみたいよ」
「あっちは雨の影響がなかったのか」
ハルトの問いに、レベッカはわずかに間を置いてから続ける。
「それもあるけど……単純に距離が短いのよ。少しだけね」
「そうなのか」
歩きながら前を見据えたまま呟き、これまでの道のりを頭の中でなぞるように思い返す。
やがて通りから少し外れた場所に、控えめな看板が視界に入る。
木の板に書かれた「淙魚亭」という店名と、その脇に下げられた札に記された「本日、銅入荷」の文字が、ゆるやかに揺れていた。
「ここよ」
レベッカが足を止め、ハルトもその隣で看板を見上げる。
「いい雰囲気だな。こういう店、嫌いじゃない」
扉を開けて中へ入ると、外の空気とは少し違う温もりが広がり、落ち着いた灯りの下で二人は自然と空いている席に腰を下ろした。
レベッカは先ほどの札を思い出すように視線を上げる。
「ラッキーね。銀じゃなくて銅があるわ」
「どう違うんだ?」
「銀はあっさりしてるけど、銅は風味が強いの。私はこっちの方が好きね」
その説明を聞きながら、ハルトは少し考え込むようにしてから口を開く。
「それなら両方食べてみたいな。違いも分かるだろうし」
「その方がいいわ」
レベッカはすぐに給仕を呼び、迷いなく注文を告げる。
「銅の煮込みを二つ、それから銀の焼きを一つちょうだい」
「かしこまりました」
給仕が静かに下がっていくのを見送りながら、レベッカは軽く指を組み、ハルトの方へ視線を向ける。
「焼きはシェアしましょ」
「ああ、その方がいいな」
そう答えながら、ハルトはこれから運ばれてくる料理を思い浮かべ、店内に流れる穏やかな時間の中で、ゆっくりとその到着を待った。
料理を待つあいだ、テーブルの上に置かれた木の札と先ほどの説明が頭の中で繋がりきらず、ハルトは指先で縁をなぞりながら少しだけ考え込む。
違いが味に出るなら、より良い方に統一されていてもいいはずだという単純な疑問が浮かび、そのまま言葉に乗せた。
「どうして銅の方が美味しいんだろう。それなら最初からそっちを銀にすればいいのに、そういうものじゃないのか?」
レベッカは一瞬だけ間を置き、ふっと息を抜くように笑う。
「ランクの話じゃないわ。ブリームは若いうちは銀色だけど、成長すると銅色になるの」
「そういうことか……体の色だったのか」
軽く肩をすくめながら照れたように笑うハルトに、レベッカは楽しげに目を細める。
「あなたと話してると、飽きないわね」
「それはどういう意味だ……でもレベッカにはいつも助けられている。知らないことばかりだからな」
その言葉を受けて、レベッカは少しだけ考えるように視線を落とし、それからふと顔を上げた。
「ベッキー」
「え?」
「仲のいい人はそう呼ぶの」
「……分かった、ベッキー」
そのやり取りが終わるのとほぼ同時に、給仕が皿を運んできて、煮込み料理と小ぶりなパンがテーブルに静かに置かれる。
立ち上る湯気に混じって、肉と香草、それにほんのりと酸味を含んだ香りが漂い、自然と視線が引き寄せられた。
「これは……見た目以上にしっかりしてそうだな。香りもいい」
「冷める前に食べてみて。きっと好きだと思うから」
「じゃあ遠慮なく……いただきます」
スプーンを入れると、身は抵抗なく崩れ、ほぐれる感触の中に時折骨の硬さが混じるが、煮込まれているおかげで邪魔になるほどではない。
そのまま口へ運ぶと、最初に感じるのは川魚特有の力強さで、続いて酸味と甘みがゆっくりと重なり合い、飲み込む頃にはそれらが一つにまとまって舌に残る。
一口目ではまだ輪郭のはっきりしていた味が、二口、三口と重ねるうちに角が取れ、次第に落ち着いたコクへと変わっていき、気づけばスプーンを動かす手が止まらなくなっていた。
「これはいいな……最初はちょっと強いかと思ったけど、後からまとまってくる。癖になる味だ」
「でしょ」
やがて焼き物が運ばれてくると、今度は香ばしさが前に立ち、皿の上で皮が軽く色づいているのが分かる。
フォークで押すと身はきれいに割れ、内側からはしっとりとした白さが現れ、そのまま口へ運べば、先ほどの煮込みとは対照的に軽やかな味わいが広がった。
香りはあるものの強すぎず、塩とハーブが先に立ち、後からわずかな酸味が抜けていく。
皮の近くに残る旨味が噛むほどにじわりと広がり、脂が重く残ることもなく、飲み込んだあとには自然と次の一口を求めてしまう。
「こっちもいいな……さっきのと全然違うけど、どっちも捨てがたい」
「全部食べないでね」
「分かってるって」
二人で皿を行き来しながら食べ進めるうちに、焼き魚は骨と頭だけを残してきれいに片付き、煮込みの残りもパンで丁寧にすくい取られていく。
どちらか一方ではなく、並べて味わったからこそ分かる違いが、食べ終えたあとにもはっきりと残っていた。
料理そのものの満足感に加えて、交わした言葉や、その場に流れていた時間までもが一つにまとまり、ただ食事を終えただけではない余韻が、静かに心の中に残っていく。
皿の上に残った最後の一口まで味わい終えると、ハルトは軽く息をつき、卓上を整えながら給仕に合図を送る。
呼びかけに気づいた給仕が近づき、二人の前で足を止めて静かに口を開いた。
「6枚になります」
短く告げられた額にうなずき、ハルトは袋から硬貨を取り出して指先で確かめるように数え、そのまま差し出す。
受け取る手元を見届けてから立ち上がり、椅子を静かに戻して店を出ると、温もりの残る空気が背後に閉じ込められ、夜の涼しさがゆっくりと肌に触れてくる。
「思ってたよりずっと良かったな。値段も味も、かなり当たりだと思う」
「気に入ってもらえたならよかったわ」
並んで歩き出した通りには人影もまばらで、店の灯りが石畳にやわらかく落ちている。
食後の満足感がそのまま足取りを緩め、特別な話題がなくても言葉が途切れることはなく、さっきの料理のことや、次に来るなら何を頼むかといった軽い話が、自然と続いていく。
「そういえば、いつもこうして付き合ってもらってるな。改めてだけど、ありがとう」
「いいのよ、その代わりちゃんと美味しそうに食べてくれるじゃない。それを見るのが好きなの」
やがて途中で道が分かれ、足を止めたハルトが少しだけ名残を残すように振り返る。
「俺はこっちだな。今日は助かった、いい店だった」
「ええ、また行きましょ。明日もあるし、あまり遅くならないうちに休んでね」
「分かってる。また明日な、ベッキー」
「また明日、ハルト」
短く交わした言葉の余韻を残したまま、互いに背を向けて歩き出す夜道には、さきほどまでの時間が静かに溶け込み、ただの帰り道とは少し違う温度が、確かに残っていた。
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