第28話「トーマスさんと暮らしているもの」

 宿場町を離れたキャラバンは、そのまま街道を進み、日が傾き始める頃には次の街の影が前方に見え始めていた。


 遠くからでも分かるのは、門の規模とその周囲に広がる建物のまとまり方で、通り過ぎてきた宿場町とは違い、ひとつの街として形を持っていることがはっきりとしている。




 門をくぐり、石畳の上を車輪が鳴らしながら進むと、人の流れと店の明かりが重なり、夕方特有のざわめきが周囲に広がっていく。


 だがそのまま中心へ入ることはなく、キャラバンは外縁へと回り込むように進路を変えた。


 街の喧騒が少しずつ背後へ流れ、やがて視界が開けると、並べられた荷馬車と杭に繋がれた馬の列が見えてくる。


 すでに何組かのキャラバンが停まっており、馬車留め場として使われている場所だった。




 フィリップの指示で荷馬車を所定の位置へと並べ、手綱を外していく。


 馬の息遣いが落ち着くのを待ちながら、ひとつひとつ確認を終えると、馬車番の男が近づいてきた。


 短い言葉を交わし、手綱を渡す。


 そのやり取りだけで役目は引き継がれ、荷馬車から離れることになる。


 振り返れば、荷はそのままの形で並び、馬だけが別の手に預けられていく。




 そのまま一行はまとまって歩き出す。


 街の外縁から内側へと戻る形で、細い通りを抜けていくと、先ほどまで遠くに感じていた人の気配が再び近づいてくる。


 店先から漏れる灯り、行き交う人の足音、どこかで鳴る食器の音が重なり、昼とは違う空気が街を包んでいた。




 歩く時間は長くはなく、しばらく進んだ先で、目印になる看板が掲げられた建物の前に足が止まる。


 宿だった。


 中へ入ると、すでに他の客の声が交錯しており、受付の前にはいくつかのやり取りが並んでいる。


 順に名前を告げ、鍵を受け取る。


 その場で軽く言葉を交わす者もいれば、何も言わずに階段へ向かう者もいる。




 荷から解放された足取りは、それぞれに違っていた。


 部屋へ向かう背中もあれば、外へ戻る足もある。


 同じ場所に着いたはずなのに、次の動きは揃わない。


 そのばらけ方が、この街が通過点であることを自然に示していた。




 宿の扉を出たところで、レベッカが振り返る。




「ハルト、ご飯食べに行きましょ」




 誘い方は軽いが、足はすでに通りの方へ向いていた。


 ハルトは少しだけ間を置いてから頷く。




「行こう」




 並んで歩き出すと、街の空気が昼とは違う濃さでまとわりついてくる。


 灯りのともった店先からは湯気と匂いが流れ出し、通りを行き交う人の間を抜けるたびに、香りが入れ替わる。




「ここでは何が食べられるんだ?」




 歩きながら聞くと、レベッカはすぐには答えず、少しだけ笑って前を向いたまま言う。




「お楽しみ。ハルトも好きだと思うわ」




 そのまま迷いなく角を曲がり、通りの奥へと進んでいく。


 やがて立ち止まったのは、軒先に大きな看板を掲げた店の前だった。




「茶牛亭」




 扉の隙間から流れ出る空気に、ハルトがわずかに鼻を動かす。


 温かい匂いが重なり、その奥にある濃い香りがはっきりと分かる。




「わかった。チーズだ」




 言い切ると、レベッカが肩をすくめるようにして笑った。




「バレちゃったわね」




 扉を押して中へ入ると、外よりも一段濃い熱気が体を包む。


 木の卓と椅子が並び、奥の方では鍋をかき混ぜる音が響いている。


 空いた席を見つけて腰を下ろすと、レベッカは慣れた様子で周囲を見回し、手を上げて給仕を呼んだ。


 すぐに近づいてきた給仕に、迷いなく言葉を向ける。




「アリゴを二つちょうだい」


「わかったわ。ちょっと待っててね」




 軽やかな返事とともに、給仕はそのまま奥へと引いていく。


 背中を見送りながら、ハルトは小さく息をついた。




「気さくな給仕さんだね」




 レベッカは頷きながら、卓の上に手を置く。




「そうね」




 二人は店の中の音に耳を預けるようにして、料理が運ばれてくるのを待った。


 卓に肘をついたまま、ハルトが店内を見回す。




「小さな街だけど、宿場町じゃないんだな」




 レベッカは視線を奥の厨房に向けたまま、少しだけ考えるようにしてから答える。




「街と宿場町の間ってところかしらね」




 人の流れはあるが、荷の出入りだけで回っているわけではない、そんな空気が漂っている。


 ハルトは指先で卓を軽く叩きながら、ふと思い出したように聞く。




「ところで今はどのくらいまで来てるんだ?」


「あと4日よ」




 迷いなく返ってくる言葉に、ハルトはわずかに眉を上げる。




「本当によく知っているんだな」




 レベッカは肩をすくめるようにして、小さく笑った。




「このくらいはね。あなたもすぐに覚えるわ」




 そのとき、木の器が卓に置かれる音がして、会話が途切れる。


 湯気を立てる皿の中で、淡い色の塊がゆっくりと揺れていた。




「これは美味しそうだ」


「いただきます」




 スプーンを差し入れて持ち上げると、表面が伸びるように引き上がり、糸のように細く繋がって離れない。


 思わずもう一度持ち上げると、今度はさらに長く伸び、隣の皿との間に白い線を引いた。


 そのまま口に運ぶと、熱とともに濃い旨味が広がる。


 添えられた肉を一切れつまみ、同じようにすくった部分に重ねると、脂がゆっくりと溶けて混ざり合う。


 もう一口、もう一口と手が止まらなくなる。




「これは美味しいな」




 素直に言うと、レベッカは満足したように目を細める。




「ふふっ、やっぱりあなたは気に入ると思ったわ」




 ハルトはスプーンを持ったまま顔を上げる。




「どうして気に入ると思ったんだ?」


「だってあなた、好き嫌いないでしょ」




 さらりと言って、レベッカは同じように一口運ぶ。




「なんでも美味しそうに食べるじゃない」




 その言葉に、ハルトは一瞬だけ動きを止める。


 言われてみれば否定はできない。


 皿の中身が減っていくのと同じ速さで、胸の奥に何かがじわりと広がる。


 最後の一口をすくい取り、口に運ると、器の底が見えた。




 給仕に声をかけると、すぐに近づいてくる。




「6枚よ」




 ハルトは袋から硬貨を取り出し、数を確かめてから渡した。




「また来てね」




 軽く言って、給仕は器を重ねて下げていく。


 卓の上から湯気が消え、さっきまでの熱だけがわずかに残っていた。




 扉を押して外に出ると、店の中の熱がすっと引き、夜の空気が頬をなでた。




「ごちそうさま」




 レベッカが歩き出しながら言い、ハルトも並ぶ。




「うん」




 石畳に落ちる足音が揃い、しばらくは言葉もなく通りを進む。


 灯りの残る店はまばらで、昼間の賑わいはすでに遠い。


 角をひとつ曲がったところで、ハルトが周囲を見回す。




「この時間だとさすがに市場はやってないか」




 レベッカは歩調を崩さずに答える。




「そうね」




 少しだけ間を置き、そのまま前を向いたまま続ける。




「明日も早いわ。宿に戻りましょ」




 進む先は自然と決まっていき、二人の足取りも揃っていく。


 通りの奥から流れてくる匂いの中に、さっきまでいた店の余韻がまだ残っている。


 ハルトはそれを感じながら口を開く。




「この街はチーズが特産品なんだな」




 レベッカは軽く首を振る。




「チーズもだけど、一番は小麦ね」




 視線は前のまま、言葉だけが続く。




「街は小さいけれど、大きな小麦畑があるの」




 その言い方に迷いはなく、見てきたものをそのまま置くようだった。


 ハルトは少し考えてから言う。




「ならここで仕入れればよかったんじゃないか?」




 歩みは止まらない。


 レベッカはわずかに口元を緩める。




「ここにはここのキャラバンがいるわ」




 短いが、それで十分だった。


 通りの先へ視線を戻しながら、ハルトも頷く。




「それもそうか」




 それ以上は言葉を足さず、二人は並んだまま夜の通りを進んでいった。


 通りの灯りが少しずつまばらになり、賑わいが背後へ遠ざかっていく頃、ハルトは何気ない調子で口を開いた。




「街に着いたら、家を訪ねてもいいか?」




 歩みを止めるほどではないが、レベッカの足がわずかに緩み、そのまま前を向いたまま答える。




「それはダメよ。トーマスさんに迷惑がかかるわ」




 言葉は柔らかいが、断る意思ははっきりとしている。


 ハルトはその理由が分からず、少し首をかしげるようにして続けた。




「どうしてトーマスさんに迷惑がかかるんだ?」




 レベッカは一度だけ息を整えるように間を置き、当然のことを説明するような口調で返す。




「あたし、トーマスさんと暮らしているもの」




 その一言に、ハルトは足を止めそうになりながらも、歩調を崩さずに視線だけを向けた。




「もしかして交際しているのか?」




 思いついたまま口にすると、レベッカは少しだけ呆れたように目を細める。




「見習いって言わなかったかしら?」




 問い返され、ハルトは言葉を探すようにわずかに視線を泳がせるが、うまく繋がらないまま沈黙する。


 その様子を見て、レベッカは小さく息をつき、歩きながら説明を続けた。




「普通、見習いは親方の家族と一緒に暮らすものよ。仕事だけじゃなくて、生活も全部まとめて教わるの」




 言葉に合わせて指先がわずかに動き、積み重なった日常をなぞるように続く。




「トーマスさんには奥さんも子供もいるわ」




 その一言で、家の中の様子まで自然と浮かび上がる。


 ハルトはしばらく何も言わずに歩き、やがて小さく頷いた。




「そういうもんなのか」




 納得しきったというより、ようやく形が見えたといった響きだった。


 レベッカはその横顔を横目で見て、わずかに口元を緩める。




「あなたが時々わからなくなるわ。まるでよその国から来た人みたい」




 軽く言ったはずの言葉だったが、ハルトはそのまま少しだけ視線を落とす。




「実はそうなんだ」




 ぽつりと落ちた言葉は、冗談にも聞こえず、そのまま夜の空気に溶ける。


 レベッカは一瞬だけ足を緩めるが、すぐに何かを思い出したように小さくうなずいた。




「訳ありって言ってたわね」




 それ以上は踏み込まず、自然に話を受け止める。




「いつか話したくなったら、言ってね」




 振り向かずに言われたその言葉は、押しつけるでもなく、ただそこに置かれていた。


 ハルトは少しだけ間を置いてから答える。




「信じてもらえるかわからない」




 自分でも半分は疑っているような声音だった。


 レベッカは肩をすくめる。




「努力するわ」




 軽い調子だが、そのまま受け止める意思だけははっきりしている。


 そんなやり取りを続けているうちに、宿泊先の宿の灯りが視界に入り、自然と足がその前で止まる。


 入口の前で向き合うわけでもなく、並んだまま、レベッカが先に口を開いた。




「また明日ね」


「あぁ」




 短く返すと、それ以上は言葉を重ねることなく、それぞれが自分の方向へ歩き出し、同じ建物の中へと別れて入っていった。

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