第27話「外に出して」
翌朝、二人は他より少し遅れて現れた。
すでに何人かは馬の手綱を整え、荷台の縄を締め直している。
湿った空気の中で、金具の触れ合う音が細く響いていた。
その中に歩み寄りながら、ハルトは手を上げる。
「おはようございます」
馬の脚を見ていた男が顔を上げ、軽くうなずいた。
その隣で、レベッカは視線を落としたまま立ち止まり、挨拶の言葉を口にしない。
わずかな間のあと、ハルトが横目で様子をうかがう。
「じゃぁ、また」
「うん」
それだけ交わすと、二人はそのまま自然に別れ、それぞれの持ち場へと向かった。
手綱を握ったままの男が、隣の肩を肘で軽くつつく。
つつかれた方が口元を歪め、ちらりと二人の背を見送る。
「おい、見たか」
「静かだったな」
声を潜めたやり取りがいくつか重なり、笑いをこらえるような息が漏れる。
誰も大きな声では言わないが、昨夜の事を邪推し、視線だけが同じ方向に集まり、ばらばらに散っていった。
――昨夜。
部屋に入ると、二人は自然に距離を取るようにして、ハルトはベッドの端に、レベッカは椅子に腰を下ろした。
荷を置く音も落ち着き、扉の外の足音が遠ざかっていくと、部屋の中には妙に静かな空気だけが残る。
何か話そうとするでもなく、視線が一度だけ交わり、すぐに外れる。
時間だけが少しずつ進んでいく中で、ハルトがふっと息を吐いた。
「ちょっとトイレに行ってくる」
立ち上がり、そのまま扉へ向かう。
「いってらっしゃい」
レベッカの声は軽かったが、部屋の静けさの中でははっきりと響いた。
ハルトが手を伸ばし、ノブに触れたところで、扉の向こう側から低い声が漏れてくる。
「おい、始まったか」
「まだのようだ」
くぐもった笑いが重なり、誰かが壁にもたれかかるような気配がする。
ハルトの手が止まる。
ほんの一瞬そのまま立ち尽くし、何もなかったかのようにゆっくりと手を離した。
そのまま踵を返し、ベッドへ戻る。
椅子に座っていたレベッカが首をかしげた。
「どうしたの?」
ハルトは少しだけ間を置いてから答える。
「……ドアの向こうに、みんないる」
言葉を聞いたレベッカは、目を細めて小さく息をついた。
「本当に困った人達ね」
呆れたように言いながらも、どこか慣れている様子で肩をすくめる。
ハルトはベッドに腰を下ろし直し、天井を見上げるようにして息を吐いた。
外の気配は消えず、扉一枚隔てただけの距離に人の存在が張り付いているのが分かる。
レベッカが椅子から少し身を乗り出す。
「我慢できる?」
「大丈夫」
短く答えたものの、視線は扉の方へと向いている。
「しばらくしたらいなくなるわよ」
そう言って背もたれに体を預けると、足を組み替えながら軽く肩の力を抜いた。
静かな部屋の中に、外の気配だけが浮いている。
時間がゆっくりと流れ、誰も動かないまま、その場に留まり続けていた。
外の気配が消えないまま時間が流れる中で、ハルトは天井を見上げたまま、ぽつりと口を開いた。
「大雨で通行止めになることって、よくあるのか?」
レベッカは椅子に座ったまま、少しだけ考えるように間を置き、それから肩をすくめる。
「そう珍しいことじゃないわね。でも何年かに一度くらいよ」
軽く言うが、その言葉の中には慣れきっていない響きが残っていた。
「大変だな」
ハルトはどこか他人事のように言った。
日本では珍しい事だったからだ。
いや、地方に行けば何年かに一度はあるのだろうか。
少なくともハルトは経験がなかった。
その声音に、レベッカが少しだけ目を細めた。
「大変だなって、あなただって聞いたことくらいあるでしょ」
ハルトは一度だけ瞬きをしてから、ゆっくりと息を吐く。
「どこかで起きたって話を聞いたことはあるけど……まさか自分が経験するとは思ってなかった」
言いながら、手のひらを軽く開いて閉じる。
遠くの出来事として流していたものが、足元に落ちてきたような感覚だった。
その言葉を聞いて、レベッカは小さく笑う。
「実はあたしもよ」
ハルトは横目でその顔を見る。
「そうなのか。その口ぶりだと、経験済みかと思った」
「本当に初めて」
はっきりと言い切ると、背もたれに体を預け直した。
「野営も初めてだった」
少しだけ視線を上に向ける。
「あたしも外で寝たのは初めてよ」
同じことを思い出したのか、二人の間に短い沈黙が落ちる。
火のそばで横になった感触、風がそのまま頬をなでていく感覚が、自然と浮かぶ。
「夏で良かったな」
ハルトが言うと、レベッカはうなずいた。
「風が気持ちよかったわね」
言いながら、指先で自分の腕をなぞる。
夜の空気が通り抜けていった感覚を、確かめるように。
窓の外から、かすかに風の音がする。
あのときの空気とは違うはずなのに、似た感触だけが思い出される。
二人はそれ以上言葉を重ねることなく、同じ記憶をそれぞれにたどっていた。
扉の向こうの気配は、まだ消えていなかった。
低く押し殺した笑いと、壁にもたれかかるような微かな物音が、途切れずに続いている。
「まだいるのかな」
ハルトが視線を扉へ向けたまま言うと、レベッカは椅子から立ち上がり、静かに近づいていく。
「どうかしら」
ノブに手をかけることなく、扉に耳を寄せる。
外の気配を探るようにしばらく動かずにいたが、やがて小さく息を吐き、両手を軽く広げて首を横に振った。
振り返ったレベッカが、少しだけ困ったように眉を寄せる。
「我慢できそう?」
ハルトは苦笑いを浮かべる。
「……そろそろやばいかも知れない」
その言葉に、レベッカは一瞬だけ目を見開き、すぐに視線をそらした。
「ちょっと待って」
部屋の中を見回すが、どうにもならないことはすぐに分かる。
扉の外には人がいる。
逃げ場はない。
数秒の沈黙のあと、ハルトが小さく息を吐いた。
「もう無理だ」
その声は決して大きくないが、決断だけははっきりとしていた。
「ちょっと……やだ、外、外に出して」
レベッカは慌てて背を向け、扉の方へと体ごと向き直る。
ハルトは窓へ歩み寄り、ためらいなく押し開けた。
冷たい夜気が一気に流れ込み、室内の空気をかき混ぜる。
レベッカは目をぎゅっと閉じ、肩をすくめたまま動かない。
そのまま、時間だけがゆっくりと過ぎていく。
外のざわめきと、窓の外を抜ける風の音が重なり、部屋の中は奇妙な静けさに包まれた。
やがて、レベッカがそっと口を開く。
「……出た?」
返事はなかった。
恐る恐る振り返ると、ハルトが黙ったまま身支度を整えているところだった。
視線が合いそうになり、レベッカはすぐに顔を背ける。
それ以上、どちらも何も言わなかった。
窓は閉じられ、再び部屋に静けさが戻る。
レベッカはそのままベッドに腰を下ろし、横になる。
ハルトは少し離れた床に身を下ろし、背を壁に預けてから、ゆっくりと体を横たえた。
互いに視線を合わせることなく、言葉も交わさないまま、夜はそのまま過ぎていく。
外の気配もいつの間にか消えていた。
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