0部 3話
2ヶ月が過ぎた頃だった。
それでも、今や二本の足で歩き回ることは、エテアにとって難しくないこととなっていた。
彼女は広大な邸宅を歩き回ったが、エイカースの家族以外に他の人間の気配がないことを確認した。
それでもなお、彼女は疑念を捨てきれず、何とかしてこの家の内情を探りたかった。
『三人で住むにはあまりにも大きく、豪華すぎる……。あのエイカスというガキは、自分の両親は相当な身分だと言っていたな。
話の内容からすると、政治家か何かのようだが。
なら、この地方の猟犬訓練所を知らないはずがないだろう?……
それとも、知っていてなお、私をここに置いているのか?
何の魂胆があるのか突き止める必要があるが……どこへ逃げればいいのかすら見当もつかない』
身体は軽くなり、傷も癒えてはいたが、エテアの頭の中は依然として、暗く複雑な思索で埋め尽くされていた。
おまけに、どこへ向かえばいいのか、自分一人で考えたところで答えが出るはずもなかった。
考えが尾を引くように繋がっては、殺した同期たちの顔、投げ捨てた武器の数々……。忘れたい記憶の破片が、
どうしようもなく脳裏をよぎる。
だが、エイカスはそんな彼女に、長く思いに耽る隙など与えなかった。
彼女が居候している客室のドアが、トントンと小気味よい音を立てる。
「エテア、何してるの? 本でも読む?」
「…………」
実のところ、頭が痛むのはあの世間知らずなガキのせいではないか。
エテアの回復が進み、自立歩行ができるようになったことを確認して以来、あいつはことあるごとに部屋を訪れ、ドアを叩いて彼女を呼び始めた。
『少なくとも訓練所の連中よりは一、二歳は食っているはずなのに、どうしてあんなに天真爛漫で、抜けて見えるのか?
それとも、あれが本来の人間というものなのか……?』
彼女はドアを叩く音を最大限無視し、ため息を深く吐いて布団を頭から被った。
「エテア~? 寝てるの? こんなに昼間なのに」
だが、エイカスも今日ばかりは簡単に引き下がろうとはしなかった。
彼の母親は魔法研究所へ仕事に出かけており、父親は従兄であるレンソールと共に、家で何やら難解な本を広げ、エイカスなど見向きもしない。
ぶっきらぼうなレンソールも、普段ならエイカスを構うはずだが、最近は妙なほど仕事にかこつけて、彼を避けていた。
結局、こんな週末に遊びに行く当てもないエイカスが唯一できることは、自分が拾ってきた客人であるエテアを執拗に呼び続けることだけだった。
「……あー、もう、何よ!」
ついに部屋の向こう側からエテアの苛立った声が返ってくると、エイカスはドアを少しだけ開けて尋ねた。
「入ってもいい?」
「はあ……開いてるじゃない。そもそも私は客だし……あんたが勝手に入ってきたところで、私が何か文句でも言えるわけ?」
「……何よ、何の用?」
「暇なんだ……一緒に遊ばない?」
「…………」
エテアは口を固く閉ざし、何ら返答をしなかった。
だが、エイカスはそれを肯定と受け取ったのか、抱えていた本をベッドの上に下ろした。
彼は、起きる気配すらないエテアなど気にも留めず、本の中から自分が読むものを選び始めた。
エテアは、先に口を利いたら負けだという思いもかなぐり捨て、鋭い言葉を投げた。
「ねえ、一人で遊びたいなら他の場所へ行ってよ。騒がしいんだけど」
「エテアは退屈じゃないの? 本でも読もうよ」
エイカスは本を一冊、エテアに差し出した。
受け取らなければ納得するまで突き出してくるだろう。そう考えたエテアは、ひったくるように本を奪い、とりあえず開いてみた。
そして、すぐに顎を突き出し、窓の外を見つめながら目を閉じた。
「エテア?」
「私、字なんて読めないの」
「え? なんで? 字が読めないの?」
「…………」
「僕が教えてあげる!」
「……結構よ」
「じゃあ、お母さんに字を教えてもらうように頼んでみるよ。母さん、誰かに教えるのすごく上手なんだ」
「『結構よ』って言ったのが聞こえなかったの? なんで聞こえないふりをするのよ。
私、身体が治ればすぐにここを出ていくんだから。あんたがそこまで気にすることはない」
「なんで? お母さんが三ヶ月はいるようにって言ってたのに……」
「治ればそれで終わりでしょう。私みたいな客を、何が良くていつまでも家に置いておくの?
もう二ヶ月目だし、すぐに出ていくんだから、気にしないで」
エテアは冷淡に言い放った。しかしエイカスは、それを聞いているのかいないのか、何やら書きなぐった紙を彼女に差し出すだけだった。
「……?」
「これが君の名前だよ、エテア」
「はあ……」
『もう、字を覚えるまでずっと付きまとわれるつもりか。
いっそ相手をしてやって、興味を失くさせれば……さっさと部屋を出て行くだろう』
エテアは自身の境遇を素早く受け入れ、彼が書きなぐった文字を見つめ、教えを請い始めた。
冷めた態度と冷徹な口調ではあったが、エイカスは何がそんなに楽しいのか、いつまでも喋り続けていた。
結局エイカスは、彼女が『エテア』という名前を書けるようになるまで粘り、さらに他の文字まで教えようとした。
エイカスの姿が見えないと彼を探し回っていたレンソールが、エテアの部屋で彼女を煩わせている現場を目撃し、無理やり連れ出すことで、ようやくその時間は幕を閉じた。
エテアは手元に残された、歪んだ文字が刻まれた紙切れを一瞥し、適当に放り投げて再び眠りについた。
エイカスが何食わぬ顔でエテアを探し、煩わせるほどに彼女の容態が好転した頃、一つ変わったことがあった。
母親が、食事を部屋まで運んでくるのではなく、エテアを食堂へ呼ぶようになったことだ。
「エテア? お腹空かない? 手を洗って、ご飯にしましょう」
「…………」
エテアは、初めて目にする華やかで長い食卓と、極彩色の美しい花が描かれた皿の数々に、しばらく言葉を失った。
人々が座る食卓の真ん中では、豪華な燭台の炎が温かな光を湛え、料理を照らしている。火に揺れる燭台と銀の食器は、何よりも美しく輝いていた。
あの訓練所という施設で自分たちを支配していた連中はそんなものを使っていたが、自分を含めた者たちは泥まみれの床に這いつくばり、手で食らうのが日常だった。
そうした清潔な食物や水は、選ばれた者だけが享受できるものだと教え込まれて生きてきた。彼らの中の誰一人として、それを当然のことだとは思っていなかった。
ただエテアだけが、それを疑いながらも、いつか自分もあんな料理を食らってやるという飢えを、密かに胸に抱いていたのだ。
エテアはそんな記憶と、当面の空腹感に突き動かされ、あんな料理を今ここで口にできるのだという事実に、吸い込まれるように椅子に座り、ただ呆然と食卓を見つめることしかできなかった。
隣に座ったエイカスの母親が、彼女にスープを取り分けながら言う。
「ゆっくり食べてね。いつも味気ない料理ばかり運んでいて、ずっと気がかりだったのよ」
「…………」
エテアは、その厚意にどう返せば自然なのか、言葉が浮かばなかった。
自分でも理由のわからない感情に突き動かされ、その場から逃げ出したいという衝動に駆られる。さっさと食
って、空腹だけを満たして部屋に引きこもりたい。そう思うのに、匙を握る手がひどくぎこちなかった。
エテアがぎこちなく、逆さに持った食器でスープをすくおうとすると、エイカスの母親が彼女の手をそっと撫で、正しく持てるように手助けした。
エテアは無意識にその母親を真っ直ぐ見つめたが、彼女は何事もなかったかのように、自分の前の料理を口に運んだ。
やがてエテアは、正しく持ち直したスプーンをゆっくりと動かし、母親がするようにスープをすくい始めた。
初めて口にする料理だったが、エテアは少なくとも、これに毒など入っていないことは確信できた。
それ以外にも、エテアが食器を使おうとして不格好な手つきを見せるたびに、エイカスの母親は黙々と彼女の手を直させ、正しく握らせた。
「最初は誰もが使いにくいものよ。エイカスだってそうだったし、誰でも通る道だわ」
「…………」
使い続けるうちに、指先が微かに痺れ、痛むような感覚すらあった。
彼女は、本当に変な経験だと、ただそれだけを思った。
エテアは、エイカス一家の会話を右から左へ流しながら、食事に集中しようとした。
その時、食事が終わる頃になって、母親が何かを思い出したようにエテアに言った。
「エテア? 食後に少し時間はあるかしら?」
「ええ」
「そう。ここにミルクと果物があるから、食べて待っていてちょうだい」
エイカスの父、そして従兄のレンソールは、食事を終えると台所の片付けを始めた。エテアはどうすべきか迷い、所在なく立ち尽くしていたが、無意識に手伝おうとした。
「エテアは休んでいていいの。患者さんなんだから!」
「…………」
だが、それもまたエイカスに制止され、止めるしかなかった。
結局、片付けが終わり、エテアは燭台を手に歩いていく母親の背中を静かについていった。
広い廊下には月明かりが時折差し込むだけで、小さな蝋燭の火以外には何もなく、暗い視界が怖く感じられてもおかしくない。
それでも、エテアはどういうわけか、その女の背中がひどく頼もしく、温かく感じられてならなかった。
「エテア? ついてきているかしら?」
「あ、はい! はい……」
母親はエテアに、後ろではなく横を歩くように促した。やがて辿り着いた場所は、書斎のような部屋だった。
母親は彼女をデスクの前の椅子へ座るように促し、筆記具と真っ白な紙を差し出した。
「これは……」
「エテア、エイカスが言っていたわ。文字が読めないそうね。
身体が治るまでの間、字のひとつやふたつ知っておいて損はないと思うのよ。
私が教えてあげる。今日は寝る前だから少しだけにして、明日からは日中に時間をとって一緒に勉強しましょう」
「…………」
その中年の女性は、実に不思議だった。
あの家族の中でも誰より弱々しく見えたはずなのに、誰もが彼女の言葉に従い、外部の人間であるエテアでさ
え、その申し出を拒めない気にさせられた。
実際、何か魔法でもかけているのではなかろうか。
自らそんな疑念を抱きながらも、彼女は無意識に頷き、教えを請い始めた。
『そう……字くらいは読めて書けなきゃいけない。そこまでにしておこう。
私もずっと学びたかったのに、禁じられていたから……。
私に何を要求するつもりなのかは知らないが……とりあえず好機だと思っておこう。そうすれば……』
『……その後で、本当にここを去ろう』
『…………』
『三ヶ月あれば、十分だろう……?』
彼女は再びゆっくりと身を動かし、柔らかく弾力のある枕とふかふかの布団をいじりながら、知らず知らずのうちに眠りに落ちていった。
これがいっそ夢であるなら、このまま夢の中で死ねればいい。そんな考えが脳裏をかすめていった。
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