第18話 お熱を測りますね、の一言から始まる、騎士の純情大炎上劇
エストリア大陸の覇者、グランベルク王国の王都ルミナスは、今朝も変わらず美しい陽光に包まれていた。
しかし、その中心に位置する王国騎士団の宿舎の一室だけは、どんよりとした重苦しい空気に満ちていた。
部屋の主は、セドリック・エゼルレッド二十四歳。
若くして騎士団の副団長を務め、その冷徹なまでの判断力と揺るぎない強さから、周囲には氷の鉄壁と恐れられている青年である。
そんな彼が今、あろうことか私室の寝台に横たわり、苦しげな吐息を漏らしていた。
理由は、ただの風邪による微熱だった。
不覚だ。この程度の体調不良で職務を離れるなど、騎士としての鍛錬が足りていない。
セドリックは額に手を当てて、一人で悔しさに身を悶えさせていた。
いつもなら今頃、朝練で部下たちを厳しくしごいている時間だ。
しかし、今朝ばかりは起き上がろうとした瞬間に激しい眩暈に襲われ、それを見咎めた団長のパーシバルから、強制的な謹慎と療養を命じられてしまったのである。
パーシバル団長は、セドリックの様子を見てニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた。
思い出すだけで、セドリックの額の熱がさらに上がりそうになる。
団長は部屋を出ていく際、確かにこう言ったのだ。
至高の聖女であるフェリシア様にも、お前の病状を伝えておくからな、と。
それだけは絶対にやめてほしかった。
セドリックにとって、十九歳になる聖女フェリシア・アルデバランは、ただの守護対象ではなかった。
圧倒的な神聖魔力を持ちながらも、どこかおっとりとしていて、純粋無垢な彼女に、セドリックは密かに、しかし深く心を寄せていたからだ。
自分の情けない姿を彼女に見られるなど、騎士としての矜持が許さない。
頼むから団長の冗談であってくれ、とセドリックが神に祈りを捧げた、まさにその時だった。
コンコン、と部屋の扉が遠慮がちに叩かれた。
セドリックが返事をするよりも早く、カチャリと小気味よい音を立てて扉が開く。
セドリック様、お風邪だと伺いましたわ。
部屋に入ってきたのは、案の定、お見舞い用のカゴを両手で大事そうに抱えたフェリシアだった。
いつもの厳格な聖衣ではなく、薄い水色の清楚な私服ワンピースを身にまとっている。
その可憐な姿を見た瞬間、セドリックの心臓は激しく鐘を打ち鳴らし、体感温度が一気に五度ほど跳ね上がった。
聖女様、なぜここに。私はただの微熱です。職務に支障はありませんので、どうかお引き取りを。
セドリックは必死に声を震わせないよう、いつもの硬い口調を意識して告げた。
寝台から起き上がろうとするが、フェリシアは慌ててそれを手で制した。
だめですわ、セドリック様。聖女として、王国を支える副団長様の危機を見過ごすわけにはまいりません。いつも私を守ってくださるセドリック様が倒れたと聞いて、居ても立ってもいられなくて。
フェリシアは大きな瞳を潤ませながら、寝台の脇にある椅子に腰掛けた。
距離が近すぎる。
セドリックはシーツを握りしめ、己の心音のうるささに冷や汗をかいた。
彼女の放つ甘い花の香りが、熱のせいでいつもより敏感になった鼻腔をくすぐる。
お見舞いに、教会に伝わる素晴らしいものを持ってきたのです。これでセドリック様のお熱と、体内の悪い気を測りますね。
そう言ってフェリシアがカゴから取り出したのは、一本の細長いお香だった。
それは一見すると、どこの街の市場でも売っていそうなごく普通のお香に見えた。
しかし、セドリックの騎士としての鋭い直感が、そのお香から漂う尋常ならざる魔力の気配を察知した。
聖女様、それは一体。
これは洗礼の清香という、教会の地下深くで厳重に保管されている秘蔵の道具ですわ。体調の悪い方の邪気を吸い取って、たちまち元気にしてくれるのです。
フェリシアは誇らしげに胸を張るが、セドリックは嫌な予感しかしていなかった。
洗礼の清香。
それは教会の歴史において、かつて不届きな不真面目信徒を取り締まるために使われていた、いわばお仕置き用の呪物に近い魔道具である。
邪気を吸い取るのは事実だが、その代償として、術をかけられた者が深層心理で最も隠したいと考えている欲望を、周囲に視覚的なオーラとして強制的に曝け出してしまうという恐ろしい効果を持っていた。
しかし、天然なところのある聖女様は、それを単なる健康促進のありがたいお香だと勘違いしているようだった。
待ってください、聖女様。私は本当に大丈夫ですので、そのお香を焚くのは。
いいえ、遠慮なさらないでください。セドリック様のために、一生懸命用意したのですから。
潤んだ瞳で見つめられ、セドリック様の役に立ちたいのです、と言われてしまっては、セドリックの鉄壁の意志も脆く崩れ去るしかなかった。
セドリックが諦めてため息をつくと、フェリシアは嬉しそうに微笑み、小さな魔術の火花でお香の先端に火を点けた。
パチッと静かな音が響き、細い煙が部屋の中に立ち上る。
瞬間、甘い香りが部屋に充満すると同時に、セドリックの体からドクドクと鮮やかなピンク色の魔力オーラが噴き出した。
な、なんだこれは。
セドリックが驚愕の声を上げるのとほぼ同時に、噴き出したオーラが空中で形を成し始めた。
それは、まるで生き物のように蠢きながら、セドリックの頭上や、無機質だった部屋の壁一面に、大きな文字となって浮かび上がったのである。
しかも、発光するような鮮やかなピンク色の文字だった。
そこには、セドリックがこれまで誰にも、決して悟られまいと心の奥底の金庫に封印していた本音が、恐ろしいほどの明瞭さで書き連ねられていた。
フェリシア様と一緒にピクニックに行きたい。
フェリシア様に、よく頑張りましたねって頭を優しく撫でられたい。
っていうか、看病してくれてる今の距離、近すぎて心臓が破裂しそうだ。抱きしめたい。
文字を凝視したセドリックは、自分の脳内が百パーセント丸見えになっている事実を理解した。
うわああああ。
いつも冷静沈着な副団長が、人生で一度も出したことのないような絶叫を上げた。
顔面がトマトのように赤く染まり、文字通り大炎上する。
セドリックは反射的に掛け布団を頭まで引っ張り、完全に芋虫のような状態で寝台に丸まった。
消えてくれ、今すぐ消えてくれ、と心の中で狂ったように念じるが、お香の煙が続く限り、ピンク色の文字は部屋の中で爛々と輝き続けている。
布団の外では、しばらくの沈黙が流れていた。
セドリックは自分の社会的生命と、騎士としての尊厳が完全に死に絶えたことを確信した。
もう王都にはいられない。熱が下がったら、エストリア大陸の最果てにある未開の地へ旅立とう。
そんな絶望に浸っていると、布団の隙間から、フェリシアの震える声が聞こえてきた。
セドリック様。
やはり幻滅されたのだ。聖女に対して、そんな破廉恥で不敬な妄想を抱いていたなどと知られれば、嫌われて当然である。
セドリックが覚悟を決めて布団から顔を出そうとした、その時だった。
まあ、まあまあまあ。セドリック様、そんな風に私のことを思ってくださっていたのですか。
フェリシアの声は、怒りや軽蔑とは程遠いものだった。
セドリックが恐る恐る布団を下げて彼女を見ると、フェリシアは両手を頬に当て、顔を真っ赤にしながらも、これ以上ないほど幸せそうな、満面の笑みを浮かべていた。
ピクニック。頭をなでなで。それに、だ、抱きしめ。はい。今すぐ全部、私が叶えてあげますわ。
フェリシア様、落ち着いてください。それはお香が見せている幻覚です。私の邪念が奇妙な形をとっただけで、決して本心では。
セドリックは必死に弁明するが、一度暴走を始めた聖女様を止めることは誰にもできなかった。
フェリシアは椅子から立ち上がると、布団の上からセドリックを包み込むようにして、その細い腕を伸ばしてきた。
聖女の純粋な魔力は、時として騎士をも凌駕する身体能力を発揮する。
さあ、セドリック様。まずは頭をなでなでするお約束ですわ。布団から出ておいでなさってください。
やめてください。聖女様の威厳が死にます。それに、私の心臓が本当にもちません。
セドリックは必死に布団を握りしめて抵抗したが、風邪の微熱と羞恥心による高熱のダブルパンチで、体に力が入らない。
フェリシアはおっとりとした笑顔のまま、驚くべき怪力でセドリックの防壁である掛け布団をじわじわと剥ぎ取りにかかる。
その時、セドリックの部屋の扉が、再び静かに開いた。
様子を見にやってきた団長のパーシバルが、隙間から顔を覗かせたのだ。
パーシバルは、部屋の壁や天井を埋め尽くすピンク色の文字と、楽しそうに布団を引っ張る聖女、そして涙目で拒絶する副団長の姿を交互に見た。
なるほど、お邪魔虫だな。励めよ、セドリック。
パーシバルはそれだけを言うと、極めて滑らかな動きで、そっと扉を閉めて立ち去った。
団長、助けてください。
セドリックの心の叫びは、虚しくもピンク色のオーラに吸い込まれて消えた。
布団を完全に剥ぎ取られ、セドリックはついに無防備な姿を晒すことになった。
観念したセドリックの頭に、フェリシアの白く柔らかな手がそっと触れる。
よしよし、と小さな子供をあやすように、優しく髪を撫でられた。
その心地よさに、セドリックの脳内は再びショートしそうになる。
セドリック様、次はピクニックの計画を立てましょうね。
フェリシアの本当に嬉しそうな笑顔を見て、セドリックは諦めと、それ以上の深い幸福感の中で、そっとため息をついた。
自分の純情がこれほど大炎上する羽目になるとは思わなかったが、彼女の笑顔が見られたのなら、これはこれで悪くないのかもしれない。
分かりました。ですから聖女様、お願いですから、その前に早くそのお香を消してください。
セドリックの懇願に、フェリシアは、はて、と首を傾げるのだった。
氷の副団長の私室が、本当の意味で平穏を取り戻すまでには、まだしばらく時間がかかりそうであった。
次の更新予定
2026年9月3日 17:00 毎日 17:00
推しの聖女様が迫ってくるんですけど胃痛が激しくなってきます 塩塚 和人 @shiotsuka_kazuto123
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