第8話:顕現せし終焉、あるいは最高のもふもふ


エストリア大陸の覇者、グランベルク王国の歴史において、これほど緊張感に満ちた、そして同時に奇妙な静寂に包まれた日はなかった。

王都ルミナスの中心にそびえ立つ大聖堂。その荘厳なステンドグラスから差し込む七色の光は、床一面に描かれた巨大な魔方陣を照らしている。国家最高峰の魔導師たちが幾重にも張り巡らせた特級防護結界が、うっすらと半透明のドーム状に輝いていた。


「聖女フェリシア様による、聖獣召喚の儀を執り行います」


冒険者ギルドの案内嬢であるぺトラ・フォン・ラインハルトの声が、大聖堂内に響き渡る。二十二歳という若さながら、そのプロフェッショナルな美声は揺るぎない。しかし、その手元にある進行表は、かすかに震えていた。


魔方陣の正面に立つのは、若干十九歳の聖女、フェリシア・アルデバランである。輝くような金髪をなびかせ、純白の法衣に身を包んだ彼女は、まるで絵画から抜け出してきたかのように美しい。

彼女は胸の前でそっと両手を組み、つぶらな瞳を閉じて祈りを捧げ始めた。


(神様、どうか私に、毎日一緒に美味しいご飯を食べて、一緒にねんねできる、可愛くて頼りになるお友達を授けてください……!)


そんな純真無垢な、少々緊張感に欠ける祈りが捧げられているとは、周囲の誰も知る由はなかった。


魔方陣の周囲を固めるのは、王国騎士団の精鋭たちだ。その最前線で剣を携える副団長、セドリック・エゼルレッドは、二十四歳という若さでその地位に上り詰めたエリートである。端正な顔立ちを引き締め、彼は内心で己の誇りをかみしめていた。

聖女フェリシアの持つ強大な神聖力をもってすれば、必ずや王国を何世代にもわたって守護する、威風堂々たる聖獣――例えば、黄金の翼を持つペガサスや、炎を纏う白獅子などが現れるに違いない。これで我が国の防衛力は安泰だ、と。


「おお、光が……!」


騎士団長である四十五歳のベテラン、パーシバル・グレンヴィルが低い声を漏らした。

フェリシアの祈りに応えるように、魔方陣がまばゆい黄金の光を放ち始める。幾何学模様が複雑に回転し、大聖堂の空気が激しく振動した。誰もが息を呑み、新たなる聖獣の誕生を確信したその瞬間、光の粒子が中央へと収束していく。


やがて光が完全に晴れた。

魔方陣の中心に残されていたのは――。


「きゅ、きゅ~ん?」


それは、大人の手のひらにすっぽりと収まりそうなほど小さな、真っ白な生き物だった。

ふわふわとした絹のような毛並み、つぶらな漆黒の瞳、そして短くてちょこまかとした四肢。それはどう見ても、最高級に愛くるしい、生後数ヶ月といった風情の子狐だった。


「まぁ……! なんて可愛いの! おててが、おててがちっちゃいです……!」


フェリシアは即座に歓喜の声をあげ、頬を紅潮させた。彼女はためらうことなく駆け寄り、その小さな白い塊をそっと両手で掬い上げた。


しかし、その場にいた「本物の強者」たちの反応は、聖女のそれとは正反対だった。


「ば、馬鹿な……嘘だろ……」


大聖堂の来賓席にいた冒険者ギルド長、エイドリアン・サマセットが、ガタガタと歯を鳴らして椅子からずり落ちた。数々の修羅場をくぐり抜けてきた四十六歳の猛者の顔からは、完全に血の気が引いている。

彼の目は、子狐の額にある、うっすらと浮かび上がった三本の直紋に釘付けになっていた。


「ギルド長、どうされたのですか?」

隣で進行を務めていたぺトラが不審そうに尋ねるが、エイドリアンの震えは止まらない。


「あれは……あの特異な魔力波形は……歴史書にある、五百年前にエストリア大陸の半分を一夜にして焦土と化した伝説の終焉神獣、白嵐だ……! なぜ、なぜあんな厄災の化身が、ここに召喚されている……!?」


その言葉は、前線にいたパーシバル騎士団長の耳にも届いた。

パーシバルは己の愛剣の柄を握りしめようとしたが、指先が恐怖で硬直して動かなかった。彼の額から大粒の汗が流れ落ちる。

戦場での直感が告げていた。目の前にいるのは、愛くるしい子狐などではない。その一足、その一噛みで、この王都ルミナスごと国家を消滅させうる、絶対的な「死」そのものだと。


「全軍、動くな……!」

パーシバルは、かろうじて声を絞り出した。

「指一本でも動かすな……! 刺激すれば、一瞬で我々は塵になるぞ……!」


大聖堂内の空気が、物理的な質量を持った絶望のプレッシャーへと変貌した。あまりの精神的圧力に耐えかねて、フェリシアの後方に控えていた精鋭騎士たちが、一人、また一人と、白目を剥いてバタバタと床に崩れ落ちていく。


そんな地獄絵図のような状況の中で、フェリシアだけは完全に別世界にいた。


「んも~、お腹がピンク色でぷにぷにです~!」


フェリシアは神獣を仰向けに抱き抱え、その柔らかいお腹を指先でツンツンと突ついていた。

世界を滅ぼしかけた神獣はというと、フェリシアの膝の上で完全に脱力し、短い尻尾をパタパタと振っている。そればかりか、「きゅ~う」と甘えた声を出しながら、彼女の指先を小さな舌でレロレロとなめていた。


(聖女様……! あなたが今弄んでいるのは、神話の厄災です! その肉球一つで、我々の命など塵になるのです……!)


副団長セドリックは、冷や汗で全身の鎧を濡らしながら、内心で絶叫していた。

隣を見れば、あの屈強なパーシバル団長すら、あまりの威圧感の直撃を受けて膝をつき、呼吸を荒くしている。動けるのは、極限状態の恐怖の中で、かろうじて理性を保っている自分だけだった。


その時、最悪の事態が起こった。


「あ、ごめんなさいね。お腹が空いたかしら?」


フェリシアがふと呟いた瞬間、神獣の動きが止まった。

白い子狐はフェリシアの膝からすっと起き上がり、周囲にいる人間たちを見回した。その漆黒の瞳が、かすかに紅く染まる。


「ガルル……」


神獣が、小さく低音で唸った。

その瞬間、大聖堂全体が激しい地震のような揺れに襲われた。

パリ、パリパリパリッ!

轟音と共に、国家最高峰の魔導師たちが命を削って張ったはずの特級防護結界に、派手な亀裂が走る。ガラスが割れるような音を立てて、結界の破片が光の粉となって散っていく。


「まずい! 腹が減って周囲を捕食する気だ! 誰か、奴の気を逸らせ!!」

エイドリアンギルド長が悲鳴のような声をあげる。


神獣の視線が、動けない騎士たちへと向けられる。その小さな口が開かれ、鋭い牙がのぞいた。


(ここで俺が動かねば、国が終わる。だが、どうすればいい!? 攻撃など通じるはずがない。聖女様の機嫌と、あの神獣の機嫌を、同時に損ねずに、この場を収める方法は――!)


セドリックの脳内に、凄まじい速度で生存本能の計算が走った。

彼の視線が、大聖堂の隅に置かれた大きな銀のトレイに留まる。それは、今日の儀式の成功を祝う祝宴のために、王室御用達の商人が持ち込んでいた、一本数万ゴルドもする最高級魔獣の霜降り赤身肉だった。


(これだ……! これにかけるしかない……!)


セドリックは猛然と地を這うようにしてトレイへと飛びつき、肉をトングで掴んだ。そして、人生で一度もしたことがないレベルの、頬の筋肉が千切れそうなほどの「最高の笑顔」を作り上げた。目は完全に恐怖で死んでいたが、顔だけは完璧な営業スマイルだった。


彼は膝で行進するように、ずざざざと音を立てて神獣の前へと進み出た。


「しゅ、執務長、あ、いや……偉大なる神獣様……! こちら、最高級のトウロ肉でございます……! どうか、どうかこちらでお納めくだされば幸甚の極み……!」


引きつった笑顔のまま、セドリックは震える手で、神獣の目の前に見事な霜降り肉を差し出した。


神獣の動きが止まる。

紅く染まりかけていた瞳が、セドリックと、その手元にある肉へと向けられた。

神獣はセドリックを一瞥すると、「ふん」と鼻を鳴らした。まるで、人間の分際で気が利くではないか、と言わんばかりの態度だった。


神獣は小さな身を乗り出し、差し出された極上肉を「はむっ」と咥えた。そして、信じられないほどの愛らしさで、もぐもぐと咀嚼し始める。


途端に、大聖堂を包んでいた、世界を滅ぼしそうだった圧倒的な圧迫感が霧散した。


「あら! セドリック副団長、ありがとうございます! この子、とってもお肉が気に入ったみたいです! よかったねぇ、もふもふちゃん」


フェリシアは何も気づかないまま、嬉しそうに手を叩いた。

神獣はあっという間に肉を平らげると、おかわりを催促するように、セドリックに向かって「あん!」と短く鳴いた。


セドリックは笑顔を引きつらせたまま、ロボットのような正確な動きで、次の肉をトングで掴み、捧げた。


「ははは……光栄でございます、聖女様。さあ、神獣様、おかわりは無限にございますよ……」


セドリックの脳裏に、この最高級肉の代金が、今後の騎士団の年間食事費から容赦なく削られていく未来の帳簿が浮かんでいた。しかし、国の崩壊に比べれば安いものである。


遠巻きにその様子を見ていたギルド長のエイドリアンと案内嬢のぺトラは、互いに手を取り合い、涙を流しながらセドリックの後光に祈りを捧げていた。


こうして、グランベルク王国には、世界を滅ぼしかねない最強の聖獣と、世界で最も過酷な給仕マシーンとなった副団長セドリックの、賑やかで命がけの日常が幕を開けるのだった。


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