第9話:笑顔の破壊力と勘違いの包囲網


グランベルク王国の王都ルミナスにそびえ立つ大教会。その一室で、王国騎士団副団長を務めるセドリック・エゼルレッドは、人生最大級の危機に直面していた。

といっても、魔王の軍勢が押し寄せてきたわけでも、国境線で紛争が勃発したわけでもない。

目の前にいる、十九歳の純真無垢な少女が原因だった。


「セドリック様、やはり私、街頭へ出て募金活動をしようと思いますの」


そう言って微笑んだのは、王国の至宝と謳われる聖女、フェリシア・アルデバランだった。

先日、王都の近くに現れた魔獣の襲撃により、大教会の由緒ある大屋根が一部損壊してしまった。修理には莫大な費用がかかる。王宮に予算を申請してはいるが、お役所仕事の常として、実際に金貨が支払われるのは数ヶ月先になる見込みだった。

それを待ちきれないという彼女の健気な優しさは、騎士として、また一人の人間として賞賛すべきものだ。だが、セドリックは全力で首を横に振った。


「フェリシア様、お気持ちは大変ありがたいのですが、聖女たるあなたが街頭に立って直接金を乞うなど、流石に王国の体面が保てません。それに、万が一不審者に襲われでもしたら……」

「まぁ、セドリック様。私を応援してくださる王都の皆様に、不審者などいるはずがありませんわ。それに、雨漏りで困っている神官様たちを、私はこれ以上見ていられませんの」


フェリシアはおっとりとした聖女言葉を崩さない。しかし、その意思は固かった。

彼女はセドリックの顔をじっと見つめると、両手を胸の前で小さく握りしめた。その大きな瞳が、みるみるうちに潤んでいく。


「ダメ、でしょうか……? 私では、皆様のお役に立てないかしら……」


破壊力は抜群だった。

うるうると濡れた瞳で見つめられると、セドリックの脳内にある理性の防壁が、音を立てて崩壊していく。若くして副団長に上り詰めた彼のエリートとしての冷静沈着さは、聖女の天然の愛らしさの前には無力だった。


「……分かり、ました。ただし、私も護衛として必ず同行します。絶対に私の側を離れないでください」

「ふふ、ありがとうございます。セドリック様なら分かってくださると思っていましたわ!」


一瞬で満面の笑みに戻ったフェリシアを見て、セドリックは心の中で深くため息をついた。これが、後に王都を揺るがす大騒動の幕開けになるとは、この時の彼は知る由もなかった。


王都ルミナスの中央広場は、平日の昼間だというのに多くの人々で賑わっていた。

その中心に、即席の木製募金箱を抱えたフェリシアが立っていた。横には、鋭い眼光で周囲を警戒する甲冑姿のセドリックが控えている。

フェリシアが深く息を吸い込み、澄んだ声を響かせた。


「皆様、大教会の修繕のために、温かいお心を少しだけ分けてはいただけないでしょうか」


その声が広場に広がった瞬間、まるで時間が止まったかのように、行き交う人々がピタリと足を止めた。

誰もが、声を失ったように彼女を見つめている。陽の光を浴びて輝く金髪、汚れを知らない純白の法衣、そして何より、見る者の心を浄化するような美しい微笑み。

最初に動いたのは、一本の杖を突いた年老いた市民だった。彼は震える手で懐から銅貨を一枚取り出し、募金箱に落とした。


チャリン、と軽い音が響く。


「ありがとうございます。神の御加護が、あなたにありますように」


フェリシアは老人の目をまっすぐに見つめ、その両手を優しく包み込むように握りしめた。至近距離で放たれた聖女の極大笑顔。

老人は顔を真っ赤にし、まるで天啓を受けたかのように天を仰いだ。


「おお……おおお! なんという慈悲深さだ! 私は、私は生き返ったぞ!」


老人は杖を放り出し、驚くべき軽快さでどこかへ走り去っていった。おそらく、家にある財産をすべて持って帰ってくるつもりなのだろう。

これを目撃した周囲の市民たちの目が、一瞬で変わった。

彼らの瞳から理性が消え、妙な熱狂の炎が灯る。


「聖女様に、施しを認められたい!」

「あの笑顔を、俺も間近で拝むんだ!」


押し寄せる民衆。募金箱には、またたく間に銅貨や銀貨が投げ込まれ、ものの数分で溢れかえり始めた。

セドリックは、ただ事ではない気配を察知した。市民たちの目が血走っている。これは募金活動ではない。新興宗教の狂信的な集会のような熱気が、広場全体を包み込もうとしていた。


「どけ! どかんか、貧乏人ども!」


広場の喧騒を割って、きらびやかな衣装をまとった男が突き進んできた。隣国からやってきた大豪商だった。彼は部下に命じて、ずっしりと重い革袋をいくつも運ばせていた。


「聖女様! この中身はすべて我が商会が誇る純金貨です! 大教会の修繕と言わず、新しい神殿でも何でもお建てになってください! だから、どうか我が商会に祝福を!」


豪商が金貨の袋を地面にぶちまけようとしたその時、広場の路地裏から、全身を黒い布で覆った不気味な男が音もなく現れた。その身のこなしから、セドリックは一目で男の正体を見抜いた。冒険者ギルドの裏で暗躍する、本物の暗殺者だ。


「……どけ、守銭奴。光の世界を知らぬ俺たちにも、聖女様は等しく微笑んでくださるはずだ」


暗殺者は、血の滲んだような黒い革袋を差し出した。


「これは、俺たちが闇の手仕事で稼いだ裏資金……いや、今となっては清らかな寄付金だ。これを受け取り、俺の魂を光の世界へ導いてくれ……!」


セドリックの背中に冷や汗がどっと吹き出した。

待て、と彼の脳内にある経済官僚としての理性が警鐘を鳴らす。

これ以上、他国の豪商が法外な金を落とせば、王都の金利相場が狂って深刻な経済摩擦が起きる。さらに、暗殺者の裏金など受け取ってしまえば、大教会が不法な資金洗浄の片棒を担いだことになってしまう。国家規模のスキャンダルだ。


しかし、当のフェリシアは、きらきらと目を輝かせて両手を頬に当てていた。


「まぁ! 他国の方も、訳ありそうな黒いお洋服の方も、なんて優しいのかしら! 私、皆様の温かいお心に涙が出そうですわ!」


彼女が今にもその手を差し伸べようとした瞬間、セドリックの体が本能的に動いた。


「させるかァァァ!」


セドリックは一歩踏み出すと、金貨をぶちまけようとした豪商の胸ぐらを掴み、そのまま背負い投げの要領で石畳に叩きつけた。同時に、背後から忍び寄っていた暗殺者の手首を掴み、電撃的な関節技でその場に組み伏せる。


「ぎゃああっ!? な、何を維持の悪いことをする、騎士団副団長!」

「ぐふっ……これが光の洗礼か……!」


地べたに転がる豪商と暗殺者を冷徹な目で見下ろし、セドリックは声を大にして叫んだ。


「これより、本募金活動における安全基準を適用する! 募金はお一人様、銀貨三枚までだ! それ以上の高額紙幣、金貨、土地の権利書、および出所不明の裏社会の資金は一切受け付けん!」


「そんな殺生な!」と民衆から大ブーイングが巻き起こる。

しかし、セドリックは一歩も引かなかった。これは王国の経済を守るための、絶対に負けられない戦いなのだ。


だが、混乱はそこで収まらなかった。

「ちょっと通りなさい!」と凛とした声が響き、人混みをかき分けてやってきたのは、冒険者ギルドの受付案内嬢、ペトラ・フォン・ラインハルトだった。普段は冷静沈着な彼女だが、今は髪を振り乱し、手には何枚もの羊皮紙を握りしめている。


「フェリシア様! これ、私の全財産が入ったギルド預金の通帳と、実家の土地の権利書です! 遠慮なくお使いください!」

「ペトラ、お前まで何を狂っているんだ!」


セドリックが叫ぶが、ペトラの背後からは、さらに恐ろしい人物が姿を現した。冒険者ギルド長、エイドリアン・サマセットである。王都市民から恐れられる渋いナイスミドルであるはずの彼は、なぜかギルドの金庫から持ってきたと思われる巨大な鉄製の箱を抱えていた。


「セドリック副団長、邪魔をするな。これはギルドの今期予算を前借りしたものだ。大教会の屋根を純金でコーティングする足しにするがいい」

「ギルド長!? あなたが組織の公金を横領してどうするんですか! 正気に戻ってください!」


セドリックはペトラの通帳を取り上げ、突進してくるエイドリアンをシールドバッシュで力任せに押し返した。しかし、彼の体力も限界に近づいている。聖女の笑顔に魅了され、自暴自棄な投資を行おうとする暴走気味のファンたちは、まるでゾンビのように次から次へと湧き出てくるのだ。


「まぁ、まぁ、ギルドの皆様まで……。本当に、神様はルミナスの街にたくさんの天使を遣わしてくださったのですね」


フェリシアは、セドリックの背後で感涙にむせんでいる。彼女のその純粋な感動の言葉が、周囲の男たちの狂熱にさらに油を注ぐ。


「聖女様が俺たちを天使と呼んでくださったぞ!」

「こうしちゃいられねえ、借金してでも金をむしり取ってこい!」


「待て! 落ち着け! 借金をして募金をするな! 経済が崩壊する!」


セドリックの悲痛な叫びが広場にこだまする。彼は一人の騎士として、今、国家の基盤である経済システムをたった一人で防衛する防波堤となっていた。


「おいおい、何やら騒がしいな、セドリック」


その時、背後から聞き覚えのある豪快な声が聞こえた。

振り返ると、そこには王国騎士団長であり、セドリックの上司であるパーシバル・グレンヴィルが立っていた。四十五歳ベテランの風格を漂わせ、腕を組んで騒ぎを眺めている。


「団長! 助けてください! 聖女様のせいで王都の住民が暴走しています! 私一人では、この高額納税……ではなく、高額募金の波を止められません!」


セドリックは救世主が現れたとばかりに声を弾ませた。だが、パーシバルはセドリックの横を通り過ぎ、募金箱の前にいるフェリシアへと歩み寄っていった。

フェリシアはパーシバルを見ると、その大きな瞳を再びうるうると輝かせた。


「あ、騎士団長様……。お仕事中なのに、お騒がせしてごめんなさい。でも、みんなで大教会を直そうと頑張っていますの。団長様も……お願いします、ですわ」


本日最高精度のうるうる目のコンボ。

パーシバルは一瞬だけ硬直した。そして、おもむろに腰のポーチを開けると、中からずっしりと重い袋を取り出した。


「よし分かった。セドリック、俺の今月の給料袋をすべてここに投入する。それと、実家の家名に賭けて、騎士団の年間維持費の一部を修繕費に充当することを今ここで許可する」

「何考えてるんですか、この無能上司ィィィ!」


セドリックは叫ぶと同時に跳躍し、我が上司の首に完璧なスリーパーホールドを極めた。そのまま地面へと引きずり倒す。


「ぐはっ!? セ、セドリック、貴様、上司に向かって何を……」

「国家予算を私情で流用しようとする上司など、我が騎士団には不要です! 目を覚ましてください、団長!」


副団長が団長を地面に組み伏せ、ギルド長が鉄の箱を抱えて突撃し、暗殺者が光を求めて祈りを捧げる。中央広場は、前代未聞のカオスに包まれていた。

セドリックは泥水をすするような思いで、それでも「お一人様、銀貨三枚までだ!」という防衛線を死守し続けた。


夕暮れ時。

嵐のような募金活動がようやく終わり、大教会の一室には、山のように積み上がった硬貨の袋が並んでいた。

セドリックの必死の防衛(入場制限)があったにもかかわらず、集まった金額は、大教会の屋根を修理するどころか、王都に新しい神殿を三つ、ついでに騎士団の宿舎を新築できるほどの途方もない大金になっていた。


セドリックは甲冑をつけたまま、教会の椅子に深々と腰掛け、魂が抜けたような顔で天井を見上げていた。その姿は、まるで激しい合戦を生き延びた落ち武者のようだった。心身ともにボロボロである。


「本当に、皆様の愛を感じる一日でしたわね」


隣では、フェリシアが一切の疲れを感じさせない晴れやかな笑顔で、お茶を淹れていた。彼女は温かいカップをセドリックの前に置くと、手を合わせて嬉しそうに微笑んだ。


「これでお屋根が直りますわ。神官様たちも、きっと大喜びです」

「……ええ、そうですね。私の胃に、一生消えない穴が空いたこと以外は、すべて円満に解決しました」


セドリックが力なく呟くと、フェリシアは何か素晴らしい名案を思いついたかのように、ぽんと手を叩いた。その瞳が、再びらんらんと輝き始める。


「そうですわ、セドリック様! 今回のことで、私、確信いたしましたの。私の言葉で、こんなにもたくさんの人が幸せになれるのだと。ですから、次は王都の孤児院の建て替えのために、来週あたりにまた広場で募金活動を……」


セドリックは淹れてもらったばかりのハーブティーを吹き出しそうになった。

来週。またあの地獄の門が開くというのか。今度は王国の金融街が沈没するかもしれない。


「フェリシア様……それだけは、それだけは、どうかご勘弁を……」


セドリックの切実な懇願は、聖女の「まぁ! 私、今から看板のデザインを考えてしまいますわ!」という楽しげな声にかき消されていった。

王国騎士団副団長セドリックの、国家の経済と自身の胃袋を守るための戦いは、まだ始まったばかりだった。



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