第7話 魔王軍幹部は聖女様への貢ぎ物を届けたい
白亜の美しい城壁に囲まれたグランベルク王国の王都ルミナスは、本日も大変に穏やかな朝を迎えていた。中央広場に設置された大理石の噴水は陽光を浴びてキラキラと輝き、行き交う人々は皆、楽しげに談笑している。
その平和の象徴とも言える広場の中央で、ひときわ神聖な輝きを放っている美しい少女がいた。王国が誇る至高の癒やし手であり、神に愛された存在、聖女フェリシア・アルデバランである。まだ十九歳という若さでありながら、その身に宿す神聖力は歴代屈指と言われており、さらには透き通るような金髪と、すべてを包み込むような深い慈愛を湛えた青い瞳を持っている。彼女が微笑むだけで、すれ違う人々の小さな擦り傷や日々の疲れはたちまち霧散してしまうのだ。
「あらあら、今日も良いお天気ですこと。みなさん、おはようございます。今日も神様のご加護が、あなた方と共にありますように」
フェリシアは、いつも通りおっとりとした口調で、集まった市民たちにふわりと微笑みかけた。その姿はまさに地上に舞い降りた天使そのものであり、周囲からは「ああ、聖女様……!」「今日も生きていてよかった!」という、崇拝を通り越して狂信に近い歓声が上がっている。
「聖女様、あまりそちらへ行っては危険です。いくら治安の良い王都とはいえ、何が起こるか分かりません。どうか私の斜め後ろを歩いていただけますか」
そんな彼女のすぐ側で、常に周囲へ鋭い視線を走らせている青年がいた。王国騎士団の副団長を務めるセドリック・エゼルレッド、二十四歳である。若くして実力のみで副団長に上り詰めた真面目な苦労人であり、整った容姿をしてはいるが、その眉間には常に深い皺が刻まれている。彼は、自分の主である聖女が「あまりにも無防備で天然すぎる」という事実に、毎日胃を痛めていた。
「まあ、セドリックさん。そんなに怖い顔をなさらないで。この街には悪い人なんていませんわ。ほら、見てくださいな。あそこの物陰から、とっても熱心にこちらを見つめている方がいらっしゃいますよ?」
フェリシアが白い指先で示したのは、路地の陰だった。そこには、普段なら騎士団が総出で突撃するレベルの、禍々しい角を生やした黒い巨体が潜んでいた。しかし、フェリシアはただの「少しシャイな信徒」だと勘違いしているらしく、お姉さんが小さな子供をあやすような、温かい眼差しを向けている。
「聖女様、あれは信徒なんて生易しいものではありません! あそこから放たれているのは、完全に国を三つほど滅ぼせるレベルの邪悪な魔力です! 総員、戦闘態勢! 聖女様をお守りしろ!」
セドリックが胃を抑えながら叫んだ、その瞬間だった。
突如として王都ルミナスの青空が、ドロドロとした紫色の雷雲に覆い尽くされた。バリバリと空間を引き裂くような轟音が響き渡り、昼間だというのに世界が暗転する。あまりの恐怖に、さっきまで笑顔だった市民たちが悲鳴を上げて逃げ惑い始めた。
「ハハハハハ! 見つけたぞ! ついに見つけたぞおおお!」
地響きのような大音声と共に路地から飛び出してきたのは、全身をトゲトゲしい漆黒の魔戦鎧で包み込んだ大男だった。額からは雄々しい2本の角が伸び、背中には蝙蝠のような翼がある。その男の名はザカリー・ウェストミンスター。魔王軍の幹部であり、人間界の軍隊を一平卒で壊滅させたと恐れられる、三十二歳の高位魔族であった。
ザカリーの放つ圧倒的なプレッシャーに、並の騎士なら腰を抜かすところだが、セドリックは決死の覚悟でフェリシアの前に立ちはだかり、腰の聖剣を引き抜いた。
「魔王軍幹部ザカリー! なぜこのような場所へ現れた! これ以上の暴挙は、我が王国騎士団が命に代えても阻止する!」
セドリックは声を張り上げた。当然、王国騎士団長であるパーシバルが後ろで指示を出してくれているはず――そう思って振り返ると、団長であるパーシバルは「あとは若いもんで処理しろ。俺は偉いからな」とだけ言い残し、いつの間にかはるか後方の安全地帯へ避難していた。頼れる上司は最初からいなかった。セドリックの胃がギリリと痛む。
しかし、当のザカリーはセドリックの言葉など一切耳に入っていない様子だった。その赤い瞳は、セドリックの後ろにいるフェリシアだけを、異常なまでの熱量で見つめている。
ザカリーの頭の中は、今、極限の緊張と興奮で爆発寸前だった。
(おお、おお……! 本物のフェリシア様だ! なんてお美しいんだ! 以前、戦場で私が深手を負って倒れていた時、通りすがりに『まあ、大丈夫ですか?』と優しく回復魔法をかけてくださったあの日から、私は貴女のガチ恋オタクなのだ! 毎日毎日、貴女の尊い笑顔を思い浮かべては魔界で枕を濡らしていた! 今日こそは、今日こそはこの想いを届けるのだ!)
そんなピュアすぎる、しかし見た目は完全に凶悪犯罪者のザカリーは、その大きな右手に、何やらドロドロとした黒い怨念のような霧を放つ、邪悪極まりない立方体を握りしめていた。そして左手には、なぜかピンク色のハートマークのシールがデコレーションされた、ひどく場違いな手紙が握られている。
「フェリシア様あああ! 受け取れえええ! 我が渾身の想いを込めた、これをおおお!」
ザカリーは禍々しいオーラを全開にしながら、大地を蹴って突進してきた。その速度は弾丸のごとく、真っ直ぐにフェリシアへと向かっていく。
「い、いけません! 聖女様、下がってください! 絵面が完全にハルマゲドンです! 世界が滅びます!」
セドリックは絶望に顔を歪めながら、捨て身のディフェンスに入るべく、ザカリーの突進軌道上へと滑り込んだ。最悪、自分が盾になってでも聖女を守らなければならない。それが副団長としてのプライドであり、義務だった。
だが、ザカリーにとってのセドリックは、ただの「推しのイベント会場で最前列をブロックしている、邪魔な警備員」でしかなかった。
「退けえええ! 邪魔をするな小蝿めが! 私はただ、最前列でフェリシア様にこれを直接手渡したいだけなのだ! 郵送だと騎士団の検閲で弾かれるからな! ファンレターを本人の手元に届けるのが、オタクとしての礼儀であろうが!」
「ファンレターだと!? いや、待て、お前のその左手にあるのはいいとして、右手にあるその黒くてドロドロした、世界を呪い殺しそうな立方体は何なんだ!」
ガキィィィン! と、セドリックの放った聖剣と、ザカリーの強固な魔戦甲が激突し、凄まじい衝撃波が広場を駆け抜けた。周囲の建物がガタガタと震えるほどのハイレベルな戦闘が勃発している。しかし、その裏で交わされている会話のキャッチボールは、完全に暴投の嵐だった。
「これか!? これは魔界の特産品であり、最高級の呪物『万病消滅の呪塊』だ! 見た目はグロテスクだが、持っているだけで血行が良くなり、肩こりと冷え性が一瞬で治る優れものなのだ! フェリシア様はいつも激務で肩を凝らせていると風の噂で聞いてな! 健やかに生きてほしいという、ファンの純粋な贈り物だ!」
「完全に呪物じゃねえか! いや、ちょっと待て、健康器具なのか!? 魔界の最高級健康器具なのか!?」
「そうだ! 魔王様にも秘密で、魔界の奥深くから命がけで採取してきたのだ! 効果は保証する! だからそこを退けええ!」
ザカリーの猛攻は凄まじかったが、その理由は「早く推しにプレゼントを渡したい」という一心からくるものであり、殺意は完全にゼロだった。しかし、ゼロであるからこそ、その動きには一切の迷いがなく、セドリックは防戦一方に追い込まれる。
「くっ、話が通じない! 見た目は魔王軍幹部なのに、中身がただの厄介オタクすぎる! 誰か助けてくれ!」
セドリックが心の中で涙を流しながら胃を押さえていた、その時だった。
「まあ、まあ。お二人とも、そこまでになさってくださいな」
鈴を転がすような、どこまでも穏やかで澄んだ声が、激しい金属音の響く広場に響き渡った。
気が付けば、フェリシアがふわりとした足取りで、激闘を繰り広げているセドリックとザカリーのちょうど真ん中、すなわち最も危険なデッドゾーンへと歩み出てきていた。
「聖女様!? 危ない、近づかないでください!」
セドリックが叫ぶが、もう遅い。
フェリシアは、目の前で鬼のような形相をして固まっているザカリーに対し、全く物怖じすることなく、いつも通りの慈愛100%の微笑みを向けた。そして、ザカリーが差し出していた、黒くてドロドロした『万病消滅の呪塊』と、ピンクの手紙に、その白く細い両手をそっと添えたのである。
「あら、わざわざ遠くから、私のために届けてくださったのね。ありがとうございます」
その瞬間、フェリシアの身体から溢れ出た圧倒的な神聖力が、ザカリーの持っていた呪物を包み込んだ。ドロドロとした黒い邪気は一瞬で浄化され、消滅していく。あとに残ったのは、なぜかほんのりとピンク色に発光する、とてもオシャレで綺麗な、四角いアロマ加湿器のような物体だった。
「冷え性に効くだなんて、ちょうど最近、夜が寒くて困っていましたの。ザカリーさん、貴方のような熱心なファンの方がいてくださって、私は本当に幸せ者ですわ」
フェリシアは、手紙の表にデカデカと書かれていた『ザカリーより愛を込めて』という文字を読み上げ、ザカリーの目を見つめながら、さらに深く微笑んだ。
その瞬間、ザカリーの頭の中で、何かが限界を迎えて破裂した。
(な、名前を呼ばれた……? 今、フェリシア様が、私の名前を呼んでくださった……? しかも、私の拙いプレゼントを、そんな聖母のような笑顔で受け止めてくださるなんて……)
あまりの尊さ、あまりの幸福感、そして供給過多による精神的ダメージにより、ザカリーの脳内は完全にキャパシティをオーバーした。
「あ、あ、あああ……っ! フェリシア様……永久(とわ)に、推し、続け、ま……す……」
ガク、と膝をついたザカリーは、両鼻から勢いよく鼻血を吹き出しながら、そのままドサリと大理石の床へ仰向けに倒れ込んだ。その表情は、この世のすべての苦しみから解放されたかのような、完璧なまでの恍惚に満ちていた。魔王軍幹部、聖女の無自覚な精神攻撃(ファンサービス)により、完全無欠の即死(気絶)である。
「た、倒れたアアア!? 聖女様の笑顔のバフが、魔王軍幹部をノーダメージで一撃撃破したぞ!?」
セドリックの絶叫が広場に響き渡る。
遠巻きにその様子を眺めていた冒険者ギルドの案内嬢ペトラ・フォン・ラインハルトは、隣にいるギルド長のエイドリアン・サマセットに冷ややかな視線を向けながら呟いた。
「また聖女様が、変な生き物を引き寄せましたね、ギルド長」
「ああ、まったくだ。あの副団長の胃袋が、次の襲撃までに持ち堪えられるといいんだがな。今度、ギルド特製の強い胃薬でも差し入れてやるか」
エイドリアンは深くため息をつき、気絶したザカリーを恐る恐る荷車に積み込んでいく騎士たちの作業を見守った。
数時間後。王都には、何事もなかったかのように再び平和な日常が戻っていた。紫色の不穏な雷雲は消え去り、澄み渡るような青空が広がっている。
大聖堂の奥にある聖女の私室では、フェリシアがザカリーから貰った『元・呪物』の箱を机の上に置き、嬉しそうにそれを眺めていた。箱からは、ほんのりと柑橘系の良い香りがする蒸気が立ち上っており、部屋全体を心地よい温かさで包み込んでいる。
「セドリックさん、見てくださいな。これ、本当に凄いですわよ。お部屋がとっても暖かくなりますし、心なしか、いつも重かった私の肩が、すっかり軽くなりましたの。ザカリーさんは、本当に親切な方ですこと」
フェリシアは、すこぶる元気満タンな様子でハーブティーを淹れている。その肌はいつも以上にツヤツヤとしており、魔界の健康器具の効果が本物であることを証明していた。
一方、その対面に座るセドリックは、やつれた顔で、新しく薬師から処方されたばかりの、ひどく苦い胃薬の丸薬をカリカリと齧っていた。
「……それはよかったですね、聖女様。ただ、次回からは、ファンレターの受け取りはすべて騎士団を通すようにしてください。私の命と、胃壁がいくつあっても足りません」
「あら、そんなに警戒しなくても大丈夫ですわよ? ザカリーさんは、あんなに素敵なお手紙を書く方なんですもの。きっと、とっても優しい方に違いありませんわ」
フェリシアはそう言って、ピンクの手紙を大切そうに引き出しへと仕舞った。その手紙には、禍々しい筆跡で『フェリシア様へ。今度、魔界で一番美味しいと言われる、食べると寿命が百年延びる果実が収穫できたら、また持参いたします』と書かれていることを、セドリックはまだ知らない。
「優しい魔族なんて、この世にいるわけがないでしょう……。ああ、神様、俺のこの千切れそうな胃袋にも、どうか強力な祝福を授けてください……」
セドリックは遠い目をしながら、空になったコップの水を飲み干した。
王都ルミナスの平和は守られた。しかし、聖女を巡る「不毛でハイレベルな小競り合い」と、副団長の胃痛に満ちた日々は、これからもまだまだ続いていくのである。
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