第6話 聖女様下町で信者を増やすのはおやめください
グランベルク王国の王都ルミナス。その中心部に位置する大聖堂から少し離れた薄暗い路地裏で、セドリック・エゼルレッドは人生で何度目になるか分からない深いため息をついていた。
まだ二十四歳という若さで王国騎士団の副団長に上り詰めた彼は、文武両道の秀才として周囲から将来を嘱望されている。しかし、現在の彼の格好は、お世辞にも高潔な騎士には見えなかった。仕立てのいい軽鎧や輝く白銀の外套は家に置いて、平民が着るような泥汚れの目立たない灰色のマントを深く羽織っている。
すべては、彼の隣で泥だらけの路地を興味深そうに見つめている少女のせいだった。
セドリック様、見てください。あちらの露店では、私の顔ほどもある大きなお魚が並んでいますよ。王宮の食卓に出てくるものとは、ずいぶんと姿が違って面白いですね。
少女――フェリシア・アルデバランは、いたずらが見つかった子供のような無邪気な笑顔をセドリックに向けた。
彼女もまた、普段の豪奢な純白の神官服を脱ぎ捨て、下町の少女が着るような麻のワンピースに身を包んでいる。しかし、どれほど地味な服を着せようとも、透き通るような金髪と、すべての汚れを拒絶するかのような圧倒的な美貌、そして何より全身から醸し出される聖なる気品は隠しきれていない。
十九歳にして、国中の病人や怪我人を癒やし続けるグランベルク王国の至宝、本物の聖女であった。
フェリシア様、声を落としてください。今日はお忍びでの視察なのですから。それに、あまりキョロキョロと動き回らないでください。頭巾が外れてその髪が見えたら、一発で聖女だとバレます。
分かっております。たまには民衆のリアルな暮らしを知り、神の教えがどのように行き届いているかを確認したいという、私のわがままに付き合ってくださっているのですものね。感謝しています、セドリック様。
フェリシアは胸の前で両手を合わせ、本当に申し訳なさそうに眉を下げた。その純粋な瞳で見つめられると、セドリックの胃のあたりがキリキリと痛み出す。
彼女に悪気は一切ない。ただ、極度の天然なのだ。
今回の下町視察も、パーシバル団長から、もし聖女様に傷一つでもつければ、お前の首を物理的に飛ばすからな、と爽やかな笑顔で脅されての同行だった。騎士としての名誉よりも、己の命と胃の健康がかかっているセドリックの緊張感は限界に近い。
いいですか、フェリシア様。下町は王宮とは違います。スリや物乞い、柄の悪い者もたくさんいます。絶対に私の手を離さないでください。いいですね?
はい、約束します。セドリック様の後ろを、雛鳥のようについていきます。
フェリシアは力強く頷いた。その言葉を信じ、セドリックは少しだけ安堵する。
ちょうど大通りに出ると、市場の活気溢れる声が響き渡ってきた。香ばしい肉の焼ける匂いや、果物の甘い香りが漂ってくる。フェリシアはお腹のあたりを押さえ、小さく息を呑んだ。
セドリック様、あちらの露店から、とても素晴らしい香りがいたします。神の恵みを感じる香りです。
ああ、あれは王都名物の串焼きですね。仕方がありません、少し小腹を満たしてから移動しましょう。ここで待っていてください。本当に、動いてはいけませんよ。
セドリックは財布を取り出し、数歩先にある露店へと向かった。
店主に銅貨を支払い、焼き立ての串を二本受け取る。時間にして、ほんの十秒。あるいはそれ以下だったかもしれない。
串焼きの熱さを指先に感じながら、セドリックは素早く振り返った。
お待たせしました、フェリシア様――。
そこには、誰もいなかった。
市場を行き交う平民たちの雑踏、荷馬車の音、値切る主婦の声。どこを見渡しても、先ほどまでそこにいたはずの、麻のワンピースを着た金髪頭巾の少女の姿がない。
まさか。
セドリックの脳裏を最悪のシナリオが駆け巡る。誘拐、暗殺、あるいは人身売買。
いや、待て、とセドリックは必死に理性を保とうと自分の額を叩いた。あの御方は、ただの人間ではない。歩く最終兵器とも呼ばれる規格外の魔力を持つ聖女だ。並大抵の悪党では、近づいただけでその聖光に焼かれる。
ということは、答えは一つしかなかった。
自発的な迷子だ。
セドリックは串焼きを握りしめたまま、血相を変えて人混みをかき分けた。胃の奥から酸っぱいものが込み上げてくる。彼は懐に忍ばせてある特製の胃薬の小瓶を思い出しながら、必死に彼女の気配を探した。
一方その頃、フェリシアは市場の喧騒から少し離れた、薄暗い路地裏のゴミ捨て場近くにいた。
なぜ彼女がここにいるかといえば、串焼きを待っている間、足元を小さな影が横切ったからだ。フェリシアはその影を追いかけて、無自覚にセドリックの制止を無視して歩いてきてしまったのだった。
まぁ、かわいそうに。こんなところで震えているなんて。
フェリシアは、ゴミ箱の陰で丸まっていた生き物にそっと手を差し伸べた。
それは、全身からどす黒い霧のような瘴気を放ち、背中から無数の鋭いトゲを生やした、漆黒の狼の幼体だった。名をトゲツキオオカミ。成長すれば一村を滅ぼしかねない、極めて凶暴な魔獣である。
その幼体は足を怪我しているようで、フェリシアが近づくと、威嚇のために小さな口を開けて炎を吹きかけた。
あつっ。ふふ、元気な野良猫さんですね。でも、そんなに強がらなくても大丈夫ですよ。
直撃した炎を、フェリシアは無意識に展開した聖なる障壁で完全に無効化しながら、優しく微笑んだ。彼女の辞書に、これが魔獣であるという知識はあっても、それを恐れるという感情は存在しない。怪我をしているなら、癒やす。それが彼女のルールだった。
痛いの痛いの、飛んでいけ、ですよ。
フェリシアがそっと幼体の頭に触れると、彼女の手のひらから、眩いばかりの純白の光が溢れ出た。聖女の最上位治癒魔法である。
通常、魔獣に聖なる魔力を流し込めば、その肉体は拒絶反応で消滅するか、大爆発を起こす。しかし、フェリシアの魔力はあまりにも純度が高く、そして慈愛に満ちていたため、魔獣の体内にある瘴気そのものを綺麗に分解してしまった。
バチバチと黒い霧が消え去り、狼の幼体の怪我は瞬時に塞がる。それどころか、背中のトゲまで丸くなり、ただの少し毛深い黒猫のような姿に変貌してしまった。
グルル……にゃあ。
魔獣としての闘争本能を完全に浄化された元魔獣は、フェリシアの膝の上に飛び乗り、ゴロゴロと喉を鳴らして甘え始めた。
まぁ、人懐っこい子。よしよし、もう安心ですからね。
フェリシアが満足そうにその背中を撫でていると、路地裏に激しい足音が響き渡った。
フェリシア様。
飛び込んできたのは、息を切らし、今にも魂が口から飛び出しそうな顔をしたセドリックだった。彼は膝に手を突き、肩を大きく上下させている。その視線が、フェリシアの膝の上の生き物に注がれた瞬間、彼の目は点になった。
フェリシア様……あなた、一体何を抱いているのですか。それ、どう見てもトゲツキオオカミの、いや、トゲが消えている? しかしその魔力波形は間違いなく魔獣。
まぁセドリック様、見つけてくださってありがとうございます。見てください、この可愛い野良猫さん。少しお口から火を吹く元気な子なのですが、怪我をしていたのでお友達になりました。
それ魔獣ですから。王国の危険生物指定第一級の魔獣の子供ですから。処理対策本部に今すぐ連絡して駆除してもらう案件ですから。
セドリックの叫びのようなツッコミは、路地裏の奥から響いた別の男たちの声によって遮られた。
あぁん? なんだお前ら。人の縄張りで何をごちゃごちゃ喋ってやがる。
薄暗い路地裏のさらに奥、行き止まりになっている場所から、五人の男たちが現れた。
全員がドスの利いた声を出し、手には物騒な短剣や鉄パイプを握っている。衣服はボロボロで、顔には無数の傷跡。王都の治安部隊が血眼になって探している、指名手配中の凶悪盗賊団、通称、黒い牙の残党たちだった。
彼らはアジトの入り口で、盗んだ金の分配を巡って仲間割れの喧嘩をしていたところを、セドリックたちの声に邪魔されたのだった。
ちっ、若い男と女か。おい、運がいいぜ。その女、よく見ると極上のタマじゃねえか。ひん剥いて売り飛ばせば、さっきの分け前の少なさなんて帳消しだ。
頭目らしき大男が、下卑た笑みを浮かべて迫ってくる。
セドリックは瞬時に腰の隠し剣に手をかけ、フェリシアの前に立とうとした。騎士団副団長としての本能が、目の前の敵を排除せよと告げている。
しかし、それよりも早く、フェリシアがトコトコと歩み出た。
フェリシア様、下がって。相手は凶悪な悪党だ。
いいえ、セドリック様。私には分かります。あの方々は、とても悲しいお顔をされています。
フェリシアはセドリックの制止をすり抜け、盗賊たちの真ん前へと進み出た。
彼女の瞳には、恐怖も、嫌悪も、敵意も一切ない。ただ、迷える子羊を見るような、深い慈愛だけがあった。
あなた方、どうしてそんなに怖いお顔をしているのですか? お仲間同士で傷つけ合うなんて、神様が悲しまれます。
はあ? 何言ってんだこのアマ、頭が湧いてんのか?
大男が短剣を突き出す。セドリックが踏み込もうとした、その瞬間。
お母様から貰った大切な命を、誰かを傷つけるために使ってはいけません。きっと、あなた方にも、故郷で帰りを待つ大切な人がいるはずです。さあ、胸に手を当てて、幼き日の純真な心を思い出すのです。
フェリシアがそっと両手を天に掲げた。
その瞬間、薄暗い路地裏が、まるで真夏の正午太陽の下であるかのような、圧倒的な純白の光に満たされた。
シャイニング・リデンプション。
それは、彼女が独自に編み出した、超広域精神浄化魔法だった。本来は戦場で狂乱状態に陥った兵士を鎮めるためのものだが、彼女の規格外の魔力によって放たれたそれは、もはや一種の精神攻撃に近い威力を宿していた。
温かく、どこまでも優しい光が、盗賊たちの身体を突き抜けていく。
光が収まったとき、路地裏には奇妙な沈黙が流れていた。
おい、頭目……俺たち、何をしようとしてたんだ?
一人の盗賊が、手にした鉄パイプをカランと地面に落とした。その目は、先ほどまでの濁った輝きを失い、まるで生まれたての赤ん坊のように澄み切っている。
俺……思い出したよ。故郷のお袋の顔。俺が村を出るとき、真っ当に生きろって、泣きながら干し肉を持たせてくれたっけ。それなのに俺は、こんなところで人を傷つけて……。
大男の目から、大粒の涙が溢れ出た。彼は短剣を放り出し、その場に両膝をついて激しく泣き崩れた。
ごめんよ、お袋。俺、間違ってた。俺、もう一度故郷に帰って、真面目に畑を耕すよ。
俺もだ。俺も、他人の財布を盗む生活なんて、本当は嫌だったんだ。毎日怯えて、仲間を疑って……。
五人の凶悪な盗賊たちが、路地裏で互いに抱き合いながら、子供のようにボロ泣きしている。彼らの荒みきった心は、フェリシアの圧倒的な聖光と、一切の迷いのない直球の正論によって、綺麗さっぱり強制洗濯されてしまったのだ。
フェリシアは、涙を流す大男の前に歩み寄り、その頭を優しく撫でた。
よく気がつきましたね。間違えたら、やり直せばいいのです。神様はいつでも、悔い改める者を許してくださいますよ。
聖女様……。
大男は、彼女の放つ後光に目を細め、まるで本物の女神を見たかのように、その場に平伏した。他の盗賊たちも、次々とフェリシアの前にひざまずいていく。
聖女様、俺たち、今日から心を入れ替えます。あんたのその温かい光に救われた。これからは、あんたの盾になる。あんたの親衛隊として、命を懸けて下働きをさせてくれ。
下部組織として、王都のゴミ拾いから始めます。だから、俺たちをあなたの信者にしてくだせえ。
五人の男たちが、一斉にフェリシアへの忠誠を誓う。その様子を、セドリックは引きつった笑顔で見つめることしかできなかった。
フェリシア様……確かに彼らは浄化され、悪意は消え去ったようですが、彼らは国から指名手配されている盗賊です。まずは、騎士団の詰所へ連行して、罪を償わせるのが先決かと。
まぁ、そうなのですか? では、皆さんで一緒に騎士団へ行きましょう。罪を償った後は、王都の環境美化活動に努めるお友達として、仲良くしてくださいね。
へい。聖女様のおおせのままに。
こうして、若き騎士団副団長セドリックは、大人しくなった五人の元盗賊と、なぜか彼のマントの裾をくわえてついてくる元魔獣の狼を引き連れて、王都の大通りを歩く羽目になった。
道中、下町の住民たちが「あの凶悪な黒い牙が、おとなしく連行されている」「真ん中にいるお嬢ちゃんは、もしや大聖堂の……」とひそひそと囁き合っていた。お忍び視察という目的は、完全に崩壊している。
夕暮れ時、ようやくすべての事務手続きと、元盗賊たちの自首の処理を終えたセドリックは、大聖堂の裏門へとたどり着いた。
隣に立つフェリシアは、夕日に照らされながら、本当に満足そうな笑みを浮かべている。
素晴らしいお忍び視察でしたね、セドリック様。民草の皆様の暮らしだけでなく、あのように優しく、情に厚い方々とお友達になれたのですから。グランベルク王国は、本当に素晴らしい国です。
セドリックは、何も言わずに懐から特製の強い胃薬の小瓶を取り出した。蓋を開け、丸薬を三粒ほど手のひらに出すと、そのまま水もなしにカリリと噛み砕く。苦味が口いっぱいに広がるが、今の彼の胃にはこれが必要だった。
……左様でございますね、フェリシア様。ただ、次回のお忍びの際は、私の体に、あなたと繋ぐ頑丈な鎖を巻き付けさせてください。切実な願いです。
まぁ、セドリック様はお寂しがり屋さんなのですね。よろしいですよ。
全く反省の色がない聖女の純粋な笑顔を見ながら、セドリックは、明日パーシバル団長に提出する予定の大量の始末書の山を思い浮かべ、もう一度、深く長いため息をつくのだった。
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