全音・シ

山藤里菜

全音・シ



高い音がする。

震えるのに、重ならない。

指先が滑って落ちた。


ピアノを弾く指先は、跳ねなかった。

並んだ音符は同じに見えた。


「あなた、やる気ある?」

大人はため息を吐いた。

項垂れたふりして首を小さく振る。


「ちゃんと、練習して来なさい。」

私は一礼する。

背中に刺すような視線があった。




その帰り道は、狭かった。

満月が、見えた。


楽譜の入った手提げが揺れる。

置いて行ってしまおうか。

けれど、母が過ってしまう。


母は耳が良かった。

それは、呪いだ。


「ただいま。」

その言葉すら、声にならない。


思い出せない音がある。


母は、何も聞かない。

無言でオムライスを食べる。

スプーンを皿に置くと、音がした。

無くしたのは、もっと高い音だった。




深夜の灯りは、遠い。

黙っていた。

空が白むのを待った。


私は何も触らない。

知っていたから、指先が滑る。


ピアノに反射する私の視線が落ちる。


あの音を、忘れたわけじゃない。


きっと、こんな時間に弾いたら、怒られてしまう。

それが私を掻き立てた。


もう、いいよ。


小さな音は、私だった。

鍵盤の右端を、指先が決める。


震える小さな高音を、置いた。

それは、重なる前のようだった。





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全音・シ 山藤里菜 @_to_v_

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