キャッシュメモリ
小林勤務
第1話
恋の結晶は、世界のどこにでも落ちている。
けれど、それを拾う人間は、世界にほとんどいない。
わたしは、その数少ない拾い手のひとりだ。
家族はいない。
友達もいない。
学校にも行ったことがない。
わたしが知っているのは、「恋の結晶を拾って売る」 という仕事だけだ。それ以外の世界を知らない。
恋の結晶は、恋に落ちた瞬間に生まれる。それは光を吸い込んだように淡く輝き、触れると微かに震える。拾い手は、その震えを頼りに結晶を探す。
わたしは物心ついたときから、この仕事をしていた。誰に教わったのかも覚えていない。気づいたときには、結晶を拾っていた。元ではただ。生きるために、価値があるのかわからないものを拾う。
朝起きて、靴を履き、街へ出る。梅雨の湿気が肌にまとわりつき、空は朝から泣き出しそうな色をしている。アスファルトは夜の雨をまだ飲み込みきれず、薄い水膜が街灯をぼんやりと映していた。
地面を見つめ、結晶の震えを探す。通勤の人々が、すぐ横をすり抜けていく。地面にしゃがみ込んでいても、結晶を拾っていても、まるでそこに何もないかのように避けて通る。わたしは透明なのだろうか。そんなことを思う。
結晶を拾ったら、袋に入れる。夜になったら、仲介人に渡す。代金を受け取る。乾いたパンを買って食べる。誰もいない部屋で静かに眠る。
それだけの毎日。それ以外のことは、何ひとつ知らない。
恋の結晶は、拾うたびに胸が痛くなる。触れた瞬間、持ち主の恋の瞬間が流れ込んでくるからだ。手が触れた瞬間の震え。名前を呼ばれたときの熱。告白の前の息の詰まるような緊張。抱きしめられたときの温度。それらが一瞬で胸に押し寄せてくる。
わたしはそれを、ただ受け止める。そして、すぐに忘れる。忘れないと、仕事にならないから。
わたしは恋を知らない。でも、恋の痛みだけは知っている。それは他人のものなのに、どうしてか、いつも胸を締めつける。鼓動が激しくなり、息が詰まるような痛み。眩しいものなのか、それとも苦痛を伴うものなのか、それを拾い、疑似体験するわたしは何なのか。
この仕事は誰もができないらしい。まず、誰もがその結晶を見つけられない。大抵の人は、日々行き交う雑踏のなかで、結晶を踏みつけては粉々にして、それを気にも留めず歩いていく。
雨に濡れた街は、いつもより騒がしい。傘と傘がぶつかる音、水たまりを跳ねる車の音、湿った風に乗って流れてくる誰かの笑い声。そのどれもが、わたしには遠い。まるで、わたしはこの街の景色の一部で、人間ではないかのように。
この仕事は長続きしない。誰もが誰かの記憶や感情の結晶に触れ続けると、やがて精神を病んでしまうからだ。何も感じなくなるまで拾い続けた果てに、何が残るんだろう。
「お前は特別な子なんだ」
そう言って頭を撫でる仲介人の手は、ひどく汚れていた。雨に濡れた髪を乱暴に撫でられるたび、湿った指先が冷たくて、胸の奥がざらつく。
例年より早い梅雨の到来のなか、今日拾った結晶は淡い青色だった。
十代の男の子の恋だ。触れた瞬間、胸が熱くなった。
――好きだ。
その一言が、わたしの心に刺さる。わたしに向けられた言葉ではないのに。いつだって心が温かくなることはない、自分以外に向けられた感情が、強引に体内に貼り込むたびに、少しずつ自分という存在が引きはがされていくように思える。
結晶を袋に入れ、わたしは歩き出す。夕暮れの街は、雨雲に押しつぶされそうなほど低く、恋の残り香と湿った空気で満ちている。遠くで雷が鳴り、濡れたアスファルトが夕陽を鈍く跳ね返す。
わたしには関係のない世界。ただ拾うだけ。そうやって生きている。
仲介人の店は、古いビルの地下にある。看板もない。扉を開けると、湿った空気が流れ出てくる。カビの匂いと、古い紙の匂いが混ざったような、重たい空気。
「今日もよく拾ったな」
仲介人は、いつも同じ言葉を言う。わたしは黙って袋を差し出す。仲介人は結晶をひとつひとつ確認し、値段をつける。手持ちぶたさなの間、壁を見つめている。壁の染みは、昨日より雨を吸って広がっている気がした。
「お前は本当に無口だな」
「そう?」
仲介人は笑う。でも、わたしは笑わない。
「ほら、今日のあがりだ」
いつもぎりぎり暮らしていける額を受け取る。
「こんなの誰が欲しがるんだろうね。だって、どこまでいっても他人の記憶だよ」
「そうか、お前は知らないのか」
「だって、教えてくれないでしょ」
「どこかのお金持ちが買ってるのさ」
「お金もちならさ、もっとわたしにいっぱいくれてもよくない?」
「そういうわけにはいかない」仲介人はにこやかに笑う。その笑顔は、湿った蛍光灯の光に照らされて、どこか歪んで見えた。「世の中は、色んな人が関わって生きている。結晶を集めるもの、結晶を買い取るもの、結晶を保管するもの、結晶を運ぶもの、結晶を売るもの、結晶の売上を計算するもの、結晶を――」
「ああ、もういいや。ようは、これ以上出せないってことでしょ?」
「まあ、そういうことだ」
代金を受け取り、店を出る。地上に戻る階段は、いつも暗い。雨の匂いが濃く、湿った風が階段の奥から吹き上がってくる。
いつからだろう。太陽の光が澱み、全ての景色が色あせて、灰色に成り下がっていったのは。
帰り道、ふと気づく。わたしの足元に、小さな結晶が落ちていた。透明で、色がない。震えも弱い。雨粒が落ちるたび、小さく震えて光を散らす。
まるで、誰にも気づかれずに捨てられた涙のよう。拾い上げると、胸が少しだけ痛んだ。
――これは、誰の恋だろう。
触れても、何も流れ込んでこない。記憶が薄すぎるのだ。わたしはその結晶を袋に入れず、ポケットにしまった。理由はわからない。ただ、売りたくなかった。
夜、部屋に戻る。六畳の古いアパート。窓の外では、雨が細かく降り続いている。街灯の光が雨粒に反射して、部屋の壁に揺れる影をつくっていた。 家具はほとんどない。ベッドと、机と、ランプだけ。あと、写真が入っていない写真立て。ここには何の写真が入っていたんだっけ。
風景? ペット? 誰か? わたしと誰か?
どうしても思い出せない。
ポケットから透明な結晶を取り出し、机の上に置く。ランプの光を受けて、かすかに震える。わたしはそれを見つめながら、思った。
――わたしは、誰かに恋をしたことがあるのだろうか。
そんなはずはない。恋をするような生活を送っていない。誰かと話すこともほとんどない。誰かに触れられたこともない。でも、胸の奥が痛む。この結晶を見ていると、どうしようもなく。
ゆっくりと結晶に触れた。何も流れ込んでこない。でも、胸の痛みだけが残る。それは、わたしの孤独の形に似ていた。
翌朝、雨はまだ止んでいなかった。わたしは透明な結晶をポケットに入れたまま街へ出た。濡れた空気が肌にまとわりつき、街全体が眠気を引きずっているように見える。
拾った結晶を袋に入れるたび、ポケットの中の結晶が微かに震える気がした。まるで、わたしに何かを伝えようとしているみたいに。
でも、その何かがわからない。誰かを好きになるという感情が、どういうものなのか知らないから。
ただ、拾うだけ。
それがわたしのすべて。
夜、部屋に戻ると、透明な結晶を机に置いた。ランプの光が反射し、壁に淡い影が揺れる。窓の外では、雨が静かに降り続いている。
そのまま結晶に触れた。何も流れ込んでこない。でも、胸が痛い。ずっしりと、いつまでもへばりつくような痛みが確かにある。
ああ、そうなんだ。
――この痛みは、恋ではない。
これは、わたしが何の感情も持てないまま生きてきた孤独の痛みだ。
恋の結晶を拾う仕事しか知らない。
誰かに触れられたこともない。
誰かに名前を呼ばれたこともない。
誰かに必要とされたこともない。
わたしは、誰かの恋の記憶を売って生きている。他人の記憶を、自分の記憶とすり替えることしかしていない。
わたし自身には、売る記憶すらない。
透明な結晶は、わたしの空虚そのものだった。
結晶を握りしめた。震えは弱い。でも、確かにそこにある。わたしの孤独の形が、手のひらで震えている。
――もし、わたしが恋をしたら、その瞬間の結晶はどんな色になるのだろう。
今はまだ答えはわからない。
透明な結晶を見つめながら、初めて恋をしてみたいと思った。
それは、わたしが初めて抱いた、仕事以外の願いだった。
了
キャッシュメモリ 小林勤務 @kobayashikinmu
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