第20話 怪物化

「……あが……がぎぁぐ……」


眩暈、腹痛、頭痛、吐き気、ダスト痛。ありとあらゆる痛みと苦しみが、一気に俺の肉体を襲った。


全身の細胞が歪に作り変えられていくような、おぞましい感覚。さらに耳鳴りの様なものが止まない……それは不快な「キーン」という高音ではなく、ぐにゃぐにゃとした、何かの呪詛のような言葉が混ざったものだった。


「それでは、私はこれで」


ピアニストはそれだけ言い残すと、用は済んだとばかりに店を出てどこかへ逃げて行った。


「ま……待て!……顔は覚えたぞ……ピアニストォォ!」


壁際から響くダム先輩の執念の叫びが、さらに俺の頭痛を強める。


(痛い……気持ち悪い……痒い……なんで俺が……こんな目に……)


「ゔぅ……おぇぇぇ」


さっき食べたばかりのうどんを、全て床に吐き出してしまった。意識は急速に混濁し、もうまともな判断は出来なかった。


「シン! 大丈夫か!」


鼓膜を破られ、腹を押さえながらも、必死にこちらへ向かってくるダム先輩の姿が霞む視界に映る。


(ダメだ……来ちゃダメだ……俺も、あのホームレスみたいに、あれになる……)


体中が内側から膨れ上がり、破裂しそうなほどの衝動。俺は異形化していく身体の変化を、自分の能力で必死に抑え込むのに必死だった。


(俺は……あんな風に……ならねぇ!)


化け物になって理性を失ってたまるか。

俺は体内の全エネルギーを絞り出すようにして能力を限界まで引き出して、肉体の内側と外側の硬度を更に上昇させた。細胞の一つ一つを極限まで硬化させ、怪物化の浸食を無理やり押さえつけていく。


体から白い湯気が猛烈に立ち上り、ジューと、肉肉しい何かが内側から溶けるようなおぞましい音が店内に鳴り響く。能力による極限の硬化と、細胞を無理やり書き換えようとする汚染ルゲアが、俺の体内で激しく衝突し、摩擦熱のような激痛を生み出しているのだ。


「あ゛ぁ゛……!!! ダ……先輩……来な……で!」


喉が焼け付くような悲鳴を上げながら、俺は必死に手を伸ばして先輩を拒絶した。


その異様な光景を前に、ダム先輩は瞬時にすべてを理解した。シンはあの高架下のホームレスの男と同じ、怪物化の薬を投与されたのだと。


だが、その脳がどれだけ冷徹に現状を理解しても、今の先輩にそれを止める手立ては無かった。治療法も、特効薬も存在しない。それがこの世界の、抗えない非情な運命なのだと、今はただ受け入れるしかなかった。


「シン……頼む……耐えてくれっ……!」


これまで一度も見たことのない、ダム先輩の焦燥と祈りが混ざり合った悲痛な叫び。耳から血を流す先輩の姿が視界の中で激しく歪み、俺の意識はついに、真っ暗な深淵へと沈んでいった。



「ここは……」


目が覚めるとまた、あの夢で見た木造の建築物の場所にいた。

窓には紙が貼られ、屋根には厚く藁を葺いた古めかしい家屋。


「……っ! 体は!?……動く……前と違って動ける様になったのか……?」


自分の両手を見つめ、握ったり開いたりしてみる。

全身を襲っていたあの焼き切れるような苦痛や、身体が内側から崩壊していくような感覚は綺麗に消え去っていた。そればかりか、以前この場所に迷い込んだ時とは違い、自分の意思で一歩を踏み出し、自由に動き回ることができる。


見上げれば、空は突き抜けるような青空で、時刻は真昼間。

それなのに、周囲の街並みには人っ子一人おらず、風の音以外は不気味なほどに静まり返っている。人はおろか、鳥のさえずりや虫の羽音、動物の気配さえ一切ない。


しんと静まり返った藁葺き屋根の集落で、俺は自分の足元を見つめた。能力で極限まで硬化させたはずの俺の身体は、今、一体どうなっているんだ。


すると、俺の真後ろに、あの時の老人が立っていた。


(近づかれてるのに気づけなかった……!?)


心臓がドサリと嫌な音を立てる。気配を察知する暇さえなかった。まるで最初からそこに風景として存在していたかのように、常に気配を完全に消している。その佇まいは、どこか並外れていた。


「な……なんなんだよ……お前……一体誰なんだよ!お前は!」


俺は咄嗟に大きくバックステップを踏み、老人から距離を取った。


老人は相変わらず口元を小さく動かし、ブツブツと何かを呟いている。最初は遠くで鳴る雑音のようで何も聞こえなかった。が、老人が一歩、また一歩とこちらへ近づいてくるごとに、段々とその言葉が形を成して、俺の鼓膜へ届き始める。


「に……を……」



「得る……者に……を……」




「知り得る者に刃を」




老人は、容赦なく再びあの刀を俺の胸へと突き刺した。


「い゙っ゙!!」


鋭い衝撃が突き抜ける。前とは違って、今回は明確に、脳が焼き切れそうなほどのしっかりとした痛みがある。だが、奇妙なことに傷口から出血はしていない。


代わりに、刺された傷口が裂けるように熱く、痛い。それと同時に、身体の芯から凍りつくような強烈な寒さを感じた。熱さと寒さが同時に暴れ狂い、脳の処理が追いつかない。


「知り得る者に刃を……知り得る者に刃を……」


壊れたオーディオのように、老人は冷徹にその言葉を繰り返す。


「何が知り得る者だ……! まだ何も知らねぇよ!」


現実での汚染ルゲアによる怪物化の苦しみといい、この夢での老人の理不尽な襲撃といい……一体、何回俺は苦しめば気が済むんだ。理不尽な痛みに、俺の心の中で怒りと絶望が爆発しそうになっていた。


「離せ……! このジジィ!」


俺は痛みに歯を食いしばりながら、胸に突き刺さった刀の柄を掴み、老人から引き剥がそうと強引に力を込めた。だが、老人の手はまるで鋼鉄の綱で強く結ばれてでもいるかのようにびくともせず、強力に固定されて離れない。


(なんつう握力してやがる……)


細く乾いた老人の腕の、どこにそんな規格外の腕力があるというのか。


抵抗を試みる俺を冷徹な目で見据えたまま、老人はさらに力を込め、刀を肉の奥深くへと差し込んできた。


「あ、が……っ!!」


骨がきしむ音と共に、俺の身体にさらに苛烈な痛みが走る。内臓を直接灼熱の鉄で抉られるような激痛が、容赦なく俺の意識を真っ白に染め上げていった。


意識を失う直前、俺の遠のいていく聴覚へ、また老人のあの冷徹な声が吹き込まれた。


「知り得る者に刃を」


「っ……!?」


跳ね起きると同時に、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。


視界に飛び込んできたのは、無機質な白い天井。激痛も、燃えるような熱さも、凍えるような寒さも消え去っている。代わりに鼻を突いたのは、うどん屋の死臭や出汁の匂いではなく、ツンとした消毒液の臭いだった。


周囲を見回すと、窓には強固な鉄格子が嵌められ、扉も内側から開けられないような重厚な造りになっている。


目が覚めるとそこは、完全に隔離された病棟の中だった。


俺は慌てて、自分の体を手で触りながら確認した。眼球が飛び出ている様子もないし、皮膚が風船のように肥大化しているわけでもない。あのホームレスのような、おぞましい怪物化の大した変化はなかった。


あるとすれば、二の腕の筋肉がピクピクとするように波打っているくらいだ。


「誰か! いませんか!」


ベッドの上に立ち上がり、重厚な扉に向かって声を張り上げてみる。だが、部屋の壁や扉が音を完全に遮断しているのか、あるいはこのエリアに本当に人が居ないのか、俺の声は誰にも届かず、虚しく室内に響くだけだった。


異様な静寂にじわじわと焦りが込み上げてくる。どうにか外と連絡を取る手段はないかと、必死に周囲に目を走らせた。その時、ベッドの枕元にある小さなボタンが目に入る。


「あ、ナースコールあるじゃん……」


壁に据え付けられたそれを見た瞬間、一気に緊張の糸が抜け、思わず脱力した。わざわざ喉が枯れるほど叫ぶ必要なんて、最初からどこにもなかったのだった。

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