第19話 逃げるか。戦うか。
俺はただ、恐怖で身体を強張らせ、固まることしか出来なかった。
この男の持つ何かが、あのショッピングモールの悲劇を生み、高架下の凄惨な死体を作り出したのだ。下手すれば俺も、あのデメキンのように眼球を腫らし、膨れ上がったホームレスの様になるかも知れない……。
じわりと冷や汗が吹き出す中、俺は救いを求めるようにして、咄嗟にダム先輩の方に視線を向けた。
しかし、ダム先輩は信じられないことに、未だに肉うどんに夢中になっていた。黙々と箸を動かし、何事もないかのようにうどんを啜っている。
(ダム先輩……頼むから気づいてくれ……!)
声に出せない悲鳴が喉の奥で渦巻く。隣り合う奇妙な男の殺気と、それに全く反応しない先輩の不気味な静寂の狭間で、俺の心臓は狂ったように破裂しそうな鼓動を刻んでいた。
男の胸元から、すっとあの透明な注射器が取り出された。高架下のゴミ溜めで俺が見つけた、あの忌まわしい薬品の入ったシリンダー。
それを見た瞬間、肺の空気が引き抜かれたように胸が詰まり、横隔膜に力が入らなくなった。指先一つ動かせない。なのに、恐怖で五感が異常なほど研ぎ澄まされ、迫り来る死の気配だけは、はっきりと肌で感じ取っていた。
(動け……動け、動け、動け、動け……!!)
心の中で狂ったように叫ぶが、身体は金縛りに遭ったように硬直したままだ。
男の手が、ゆっくりと注射器を俺の首筋へと近づけてくる。その銀色の針先が冷たく皮膚に触れ、肉に刺さった――まさにその瞬間。脳の回路が焼き切れるような衝撃と共に、やっと身体が言うことを聞いた。
「やめろっ!!!」
俺は叫ぶと同時に、がむしゃらに腕を振り抜き、男が手に持っていた注射器を烈火のごとく叩き落とした。
軽いプラスチックの音が静かな店内に硬い音が響く。
突然の悲鳴に、周囲の客やダム先輩の視線が、一斉に俺へと集中した。だが、次に店内のすべての視線が向いたのは――隣に座る、あの縫い合わされた目の男の方だった。
「恐怖に打ち勝つ渾身の叫び……良い音色ですねぇ、初めて聞きましたよぉ」
口元を三日月のように歪めてニヤつく男。その言葉と共に、隠しきれない濃厚な狂気と、悍ましい殺気が一気に店内に膨れ上がった。
うどんを啜っていたダム先輩の動きが、完全に止まる。
先輩の鋭い眼光が男を捉えた。あのダム先輩が、やっとこの男の放つ異様な気配と殺気に気づき、この場の異常を完全に把握した。
「お前! 何者だ!」
ダム先輩が鋭い声で問いかけると、男はニヤけながら、平然と言い放った。
「戦場のピアニスト……と言えば良いかな?」
「……っ!!」
その瞬間、ダム先輩の中の何かが完全に切れた。
「お前が……お前がぁぁぁ!」
すさまじい咆哮。先輩は瞬時に間合いを詰めると、カウンター越しに男の首をがっしりと掴み、強引にへし折らんばかりの力で締め上げた。
「良いですねぇ……その憎悪の塊!……けど、何か足りませんねぇ」
首を絞められながらも、ピアニストは愉悦に震える声で呟き、両手をダム先輩の両耳へと向けた。
そして――凄まじい速度と力で、先輩の耳を強く引っ叩いて鼓膜を破った。
「うっ……!」
ダム先輩の顔が苦悶に歪む。
耳の中に一気に水が入ってきたかのような、じっとりとした嫌な感覚。それと同時に、耳の奥から不自然に空気が抜けていくような感覚が襲う。周囲の雑音が急激に遠ざかり、代わりに「キーン」という、鼓膜を突き刺すような不快な高音が脳内で鳴り止まなくなった。
「足りないって言ってるでしょ!!」
ピアニストは狂気混じりの声を張り上げると、捕まれたまま両足を胸元まで曲げ、ダム先輩の腹へと勢いよく当てた。
「ぐぁっ……!」
凄まじい衝撃と共に、ダム先輩の巨体が後ろへと弾け飛んだ。カウンターの椅子をなぎ倒し、そのまま店の壁まで一直線に吹っ飛ばされ、激しい衝撃音を立てて崩れ落ちる。
(夜じゃないのに……凄まじいパワーだ……)
俺は恐怖で見ることしか出来なかった。グールは本来、夜間にその本領を発揮し、身体能力が跳ね上がる種族のはず。それなのに、日の出ているこの真昼間に、あの頑強なダム先輩を文字通り一撃で吹き飛ばすなんて。
壁に背を預けたまま、耳から血を流し、苦悶の表情を浮かべるダム先輩。
そして、カウンターの向こうでゆっくりと立ち上がり、着物のチリを払うようにして俺たちを見下ろす『戦場のピアニスト』。
昼間のチェーン店という日常の空間が、一瞬にして逃げ場のない、圧倒的な暴虐の舞台へと変貌していた。
そのまま、ピアニストは俺に向かって歩いて来た。
(まずい……まずいまずいまずいまずい……! どうする、逃げるか……?戦うか?……戦うのは無理だ……ダム先輩ですらあんなんになるのに勝てるわけない……じゃぁ……逃げるか……?)
心臓が早鐘を打ち、脳が焼き切れそうなほどフル回転する。俺は必死に打開策を見出そうとしてるが、どれを選んでも破滅しか見えず、正解が分からなかった。
恐怖で足がすくみ、一歩も動けない。気づけばピアニストがもう、目の前まで来ていた。
(あ……死んだ……)
ぎゅっと目を瞑り、訪れるであろう衝撃に身を構えた――その瞬間。
ピアニストは俺に一切触れることなく、すぐ横を静かに素通りして行った。
「……?」
予想外の事態に恐る恐る目を開けると、ピアニストは俺を完全に無視して奥へと進み、壁際で倒れているダム先輩に向かって語りかけた。
「苦しいかい?悔しいかい?憎いかい?……そういえば、私が語りかけた人がおりませんねぇ」
ピアニストは周囲をキョロキョロと見回すような素振りを見せるが、その焦点はどこにも合っていない。
注射器を叩き落としたのは間違いなく俺だ。なのに、この男は俺の目の前を通り過ぎ、まるで俺がそこに存在していないかのように振る舞っている。
瞼を歪に縫い合わされた、あの異常な顔。
(こいつ……目が見えてない!)
その事実に行き着いた瞬間、俺の脳裏に電撃のような閃きが走った。
(他の物音で誘き出せば……背後から不意打ちが出来る!)
俺は早速、使っていた箸をキッチンの方向へ投げた。
カチャンっと音が鳴り、ピアニストはその方向を見た。
「そっちに居ましたか……追いかけるのは不得意なんですけどねぇ」
机を触りながら、キッチンの入り口へと向かった。
(注射器は……隅に落ちてる。後は背後からやるだけだ!)
手元に残ったもう一本の箸を取り出して、男の背後へと近づいた。
「油の匂い。そして箸が落ちるのは洗い場ぐらい、つまりあの音は私を誘導する為ですねぇ?」
「もう遅い! 聞こえなくなっちまえぇぇ!!!」
全てを見抜かれていた。だが俺は引かなかった。箸をピアニストの耳へ思いっきり振った。当たる。確実に。
だが、
「私が背後の対策をしてないとでも?」
ピアニストの左手に持っていたのは、もう一本の注射器だった。
「……っ!?」
振り返りざまの、目にも留まらぬ一閃。
冷たい針が肉を裂き、注射器は、俺の首に刺さり、中身の液体が注ぎ込まれた。
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