第18話 ベルマーレ区調査任務

乗り込んだ電車は、朝の通勤通学ラッシュに阻まれた満員電車だった。


周囲の人混みに揉まれ、触れたくもない人肌を感じながら、ふと少し離れた場所にいるダム先輩の方へと目を向ける。


そこだけ、奇妙な空間ができていた。


すし詰めの車内だというのに、なぜか先輩の周囲だけ、露骨に人が避けてスペースが空いているのだ。


 ――無理もない。

今の先輩が全身から放っている、触れれば狂いそうなほどの憎悪に満ちた気配と、鬼気迫る表情。それを間近で感じ取った乗客たちが、本能的な恐怖からじわじわと距離を置いているのだとすぐに分かった。


『次は〜ベルマーレ区、ベルマーレ区です。お出口は左側です』


アナウンスが車内に響き渡る。

俺たちは無言のまま人の波をかき分け、出口付近まで移動して降りる準備を始めた。


なんだか、妙な胸騒ぎがする……。

10年前の惨劇と、目の前の先輩の異常な殺気。何かが起きる前触れのような、肌にねっとりと張り付く不快な予感を覚えながら、電車はゆっくりとベルマーレ区のホームへと滑り込んでいった。


「着いたな 取り敢えず現場に行くぞ」


「は……はい!」


電車のドアが開くと同時に、ダム先輩は躊躇なくホームへ踏み出した。俺もその鋭い背中を追うようにして、ベルマーレ区の駅に降り立つ。


改札を抜けて地上へ降り、先輩の先導で向かった先は――薄暗い高架下の、ホームレスの溜まり場だった。


そこは異様な光景が広がっていた。

引きちぎられ、あちこちに散乱した破けたダンボール。そしてコンクリートの床や壁には、どす黒く変色した血痕がいくつも付いていて、鼻を突く酷い匂いが辺り一面に立ち込めている。生活臭と、錆びついた血の臭いが混ざり合った、吐き気を催すような空間だった。


「一体……ここで何があったんですか……」


あまりの惨状に気圧され、俺は思わずダム先輩に声を掛けた。


だが、先輩は何も答えない。ただ、無言のまま、ある一箇所へと冷徹な視線を向けた。


言葉を交わすまでもない、まるで「見れば分かるだろ、察しろ」と言わんばかりのその視線の先を、俺もおそるおそる追いかけた。


「うっ……」


その光景が視界に飛び込んできた瞬間、俺はこらえきれず、その場に崩れ落ちるようにして嘔吐した。


そこに横たわっていたのは、もはや人間と呼べる形をしていなかった。


眼球はまるで出来損ないのデメキンのように異様に腫れ上がり、眼窩から溢れんばかりに突出している。身体全体は風船のように肥大化し、皮膚は限界まで引き伸ばされて薄くなり、身体中のあらゆる穴という穴から、どす黒く変色した赤黒い血が執拗に流れ出て、周囲のコンクリートを汚していた。


さらに、異形と化したその両手の皮膚は炭のように黒く変色し、無残に爛れ、崩れかけている。

そして、おそらく一緒に住んでいたであろう他のホームレスの両眼球までもお墨付きのように爪に刺さっていた。


そして、俺は一つ疑問に思った。


「他のホームレスの死体は!?」


「全部こいつの腹ん中だ。 透視能力を持ってる調査員が確認した」


「……っ」


俺は言葉が出なかった……。

あの一緒に暮らしていたはずの仲間を、こいつが。多分、極限の空腹に加えて、怪物化された影響がそうさせたのだろう。


生々しいその光景が脳裏をよぎり、さらに吐きそうになった。


「俺達はここら一帯から怪物化した原因を模索する」


感情を殺したようなダム先輩の声が、死臭の漂う高架下に響く。


「えぇ……」


胃の底から込み上げる不快感と戦いながら、俺はただ、絶望的な気分でそう声を漏らすしかなかった。


「文句言ってる暇があったらさっさとやるぞ。俺は前から、シンは後ろからな」


「はい……」


指示を出したダム先輩は、躊躇なくゴミの山へと手を伸ばしていく。俺も意を決して、高架下の奥側へと足を進めた。




調査を開始して20分経ったが……まだそれっぽいのは見つからない。

あるのは飲み干された酒の空き缶とゴミ袋に、こびりついた血肉がくっついて剥がれないダンボールだけ。何度も心が折れそうになる。


「ほんとにあんのかよ……」


思わず愚痴が溢れる。そんな中、俺は次に一層血痕が酷いダンボールに目を付けた。


(ここだけ臭いが異常すぎる……)


周囲の生ゴミや血の臭いとは明らかに違う、鼻を突き刺すような異臭。嗚咽しながらも、俺はボロボロのゴミ袋やダンボールを必死にかき分けていった。すると、他のダンボールからは見つからなかった妙な物を見つけた。


「ダム先輩! 怪しい物見つけました! おぇっ……」


込み上げる吐き気に耐えながら声を張り上げると、ダム先輩は慌ててこちらに駆けつけてきた。そして、俺が手袋越しに持っていた注射器に鋭い目を向けた。


「これは……」


ダム先輩はすぐさまスマホを取り出し、誰かに連絡を入れた。


「同じ物を見つけました。……はい、そうです」


手短にそう伝えて電話を切ると、先輩は俺の手から注射器を受け取り、持参していた透明な袋に入れて大事に仕舞った。


「後は調査班に任せるから、俺たちの仕事はここまでだ。……って、丁度飯の時間だな」


「やっと終わった……」


地獄のような悪臭と惨状からやっと解放される。任務終了の言葉を聞いた瞬間、俺は心の底からホッと胸を撫で下ろした。


「ほら、飯行くぞ。 肉で良いか?」


「この状態でよく肉が食べれますね……」


さっきまで人間の血肉がこびりついたダンボールを漁り、胃の中のものをぶちまけていた俺に向かって、ダム先輩は信じられない提案をサラッと言ってのけた。


思わず、視線を先輩に向ける。あの肥大化した死体や、引きちぎられた肉片の光景がまだ脳裏に焼き付いて離れないというのに、この人は一体どんな神経をしているんだ……


「俺は別に構わないが」


先輩は相変わらず冷徹というか、どこか感覚が麻痺しているような、淡々とした表情のままだ。10年前の事件からずっと、こういう「異常」と隣り合わせで生きてきたから、これくらいの惨状では食欲すら揺らがないのだろうか。


「……自分は、とてもじゃないですけど肉は無理です。もっと、こう……さっぱりした、うどんとかが良いです……」


まだ胃のあたりに残る不快感を必死に抑え込みながら、俺は消え入りそうな声で、精一杯の抵抗を試みた。


「じゃあ、うどんにするか」


 ダム先輩はそう言って、駅方面に向かって歩き出した。


「どこで食うか……」


「あそこなんてどうです?」


俺が指差したのは、大通り沿いにあるよく見かけるうどんのチェーン店。


「そこにするか」


俺とダム先輩は店に入ると、券売機で食券を購入して並んでカウンター席に座った。


「ダム先輩は何頼んだんですか?」


「肉うどんだ」


「マジで肉食べるんですね……」


「食はエネルギーの源だからな」


先輩は事も無げに言った。あの惨状を見た後でよく牛背肉の脂を乗せたうどんを啜れるものだと呆気にとられていると、注文したうどんが手際よく目の前に届いた。


俺は出汁の効いたシンプルなうどんを、先輩は宣言通りの肉うどんを、それぞれゆっくりと楽しむように食べ進めていく。温かい汁が胃に染み渡り、ようやく人心地がついた――その時だった。


俺のすぐ右隣の席に、一人の男が滑り込んできた。

途端に、肌がチリチリとするような異様な空気が漂う。冷や汗が背中を伝うのを感じながら、俺は様子を覗くようにして横目を向けた。


そこにいたのは、上下の瞼を歪な糸で禍々しく縫い合わせた、奇妙極まりない男だった。


「ここのうどん、美味ですよねぇ?」


「え? あ、そうですね……はは……」


視界が塞がれているはずの男は、こちらを正確に横目に捉え、口元を不気味にニヤけさせながら語りかけてきた。ニィッと吊り上がった唇の隙間から、異様に尖った白い刃が覗く。


(鋭い八重歯……種族はグールか……)


飯時だというのに、一瞬にして周囲の空気が凍りついた。


「君……高架下で色々漁ってたけど、何してる人なのかなぁ?」


「あ……あなたには関係ないですよ……」


心臓が嫌な跳ね方をした。恐怖を悟られまいと声を絞り出すが、男はそれを楽しむように、さらに距離を詰めてくる。


「いんや、関係あるよぉ……『戦場のピアニスト』って呼ばれててねぇ」


戦場のピアニスト――。

その不気味な二つ名が鼓膜を震わせた瞬間、俺の脳裏にあの一件が鮮明にフラッシュバックした。


あのショッピングモールの中で、理性を失い、醜悪な怪物へと変貌していった男の、引き裂くような断末魔の叫び。


『ビア゙ニ゙ズドォォォッ!!!』


繋がった。高架下のホームレスを異形へと変え、モールの男を怪物化させた元凶が、今、俺のすぐ隣に座っている。

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