第13話 白衣の天使
十三話:
目覚めると、恐ろしいほどのスッキリ感があった。
視界はクリア、頭も冴え渡っている。ここ最近の疲れが一気に吹き飛んだかのような最高の目覚め――だった。
だが、俺はハッとして枕元の時計を確認する。そこに表示されていた数字を見た瞬間、全身の血の気が一気に引いた。完全に遅刻寸前の時間だった。
「タイマーと計算機間違えたぁぁぁ!」
寝ぼけてスマートフォンのアラームではなく、ただの計算機アプリに「7.00」とか打ち込んでいたらしい。そりゃ静かに朝を迎えるわけだ。
俺はベッドから跳ね起きると、文字通り音速で制服へと着替え、カバンをひったくって慌てて家を飛び出した。
とにかく走る。全力で学校への道を駆け抜ける。
しかし、そんな俺の焦りを嘲笑うかのように、前方の交差点の信号が非情にも赤へと変わった。強制的な足止めを喰らう。
(待ってる暇なんてない……!)
ここで止まったら完全にアウトだ。
俺は左右を見回し、車が来ていないのを瞬時に確認すると、ブレーキをかけることなく交差点へと再び走り出した。
――その、瞬間だった。
視界の端から、猛スピードで突っ込んでくる一台の黒い車が飛び込んできた。
その時、俺の視界は奇妙なほどスローモーションに見えていた。フロントガラスの向こうで、運転席の人間が目を見開き、慌てた表情でハンドルを切ろうとしているのが嫌にハッキリとよく見える。
分かっていても、身体が動かない。今更避けることなんて、絶対に出来っこない。
(詰んだ……また家からかよぉぉ!)
直後、身体に強烈な衝撃が走った。
骨がきしむ音と同時に、俺の意識はパタリと深い闇の底へ消えていった。
「あ……! 起きた」
まるで水の中から聞いているかのように、こもった声が耳の奥に届いた。
「あ……れ……死んでない……」
自分の身体を恐る恐る見回す。黒い車に猛スピードで撥ね飛ばされたはずなのに、五体は満足に残っているし、どこにも血は流れていない。ただ、頭が酷くぼんやりとしていた。
「死ぬなんてダメだよ! いくら生き返るとは言え、痛いのは嫌でしょ?」
呆れたような、それでいてどこか心配そうな声が、俺の顔を覗き込んできた。
俺は確かに……と一瞬思ったが。
(いや、死んだ方が痛み一瞬じゃん……。下手に生き残って骨折とか治療の痛みに耐える方がよっぽど地獄だし……)
頭の片隅をよぎったそんな極論を、俺はグッと口の奥に堪えた。生き返るのが前提の体質だとしても、今それを口にしたら目の前の相手にどんな顔をされるか分かったもんじゃない。
深く息を吐き出し、ようやく視界がはっきりと焦点を結び始める。俺は、自分に声をかけてきた人物の姿をじっと見つめた。
「動かないでね」
彼女は俺の腕を優しく手で触れた。
すると、さっきまで気づかなかった剥がれていた爪や、体内でまだ折れていた骨が、内側から熱を帯びるようにして、みるみると癒えていく。鈍い痛みが一瞬で消え去った。
「これ……天使の特徴……」
驚きと共に彼女を改めて見つめる。
その背にあるものや纏う雰囲気からして、種族は天使だ。年齢は俺と同い年か、あるいは一つ上ぐらいに見える。
「自己紹介まだだったね、私はミリア。二年生で保健委員長してます」
「俺は雨月シン……一年、戦闘部です……」
自分の所属を口にすると、ミリア先輩は「あぁ」と納得したように小さく笑った。
「戦闘部かぁ……これから関わることが多そうだね」
確かに、日常的に怪我人と接する保健委員長、それも天使の彼女なら、荒事の多い戦闘部の生徒とは嫌でも顔を合わせる機会が多いだろう。
それにしても、車に撥ねられたはずの自分がなぜ学校の保健室にいるのか。遅刻の件はどうなったのか。頭が追いつかない俺を余所に、ミリア先輩は手際よく医療器具を片付け始めた。
「てか……なんで天使の回復が俺に……天使は自分しか治せないはずじゃ……」
天使の種族特性は、驚異的な自己治癒能力だ。どれだけ傷つこうが自分自身は一瞬で治るが、それは他人に分け与えられるものではない。だからこそ、今自分の骨や爪が治ったことが不思議でならなかった。
「それはね、私の能力、状態共有。私が回復していれば、触れた相手にその『治っている状態』を共有出来るの」
「なるほど……」
中々便利な能力だ、天使との相性が良い。
元々持っている「自分しか治せない」という種族のルールを、能力によって「他人も巻き込んで治す」という形に上書きしているわけか。これなら、彼女が怪我をしてさえいなければ、触れるだけでどんな重傷者でも一瞬で治療できてしまう。保健委員長を任されているのも納得だった。
「って……遅刻!」
身体がすっかり治ったことで我に返った俺は、ガタッとベッドから飛び起きそうになった。そうだ、俺は計算機アプリのせいで遅刻寸前、いや、車に撥ねられて気を失っていた時間を考えれば、もう完全にとっくに遅刻しているはずだ。
「大丈夫、私が先生に言っといたから。シン君はゆっくりしてて」
ミリア先輩はクスリと笑いながら、俺の肩を優しく押し戻した。
「登校中に車と接触したってことで、ちゃんと公欠扱いにしてあるよ。だからそんなに慌てなくていいの」
「あ、ありがとうございます……」
保健委員長の特権か、それとも先輩の手回しが良いのか、最悪の事態は免れたらしい。
差し込んできた陽の光を浴びながら、俺は再びベッドに背中を預けた。遅刻の危機から脱した安心感と、まだ少し残る事故の余韻の中で、静かな保健室の空気がやけに心地よく感じられた。
静かだった保健室に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。どうやら次の休み時間に入ったらしい。いつまでもここに甘えているわけにもいかない。
俺はベッドから足を下ろし、制服のシワを軽く伸ばしてから教室に向かうために歩き出した。
保健室の出口で足を止め、片付けをしていた彼女を振り返る。
「ミリア先輩……」
「先輩呼びしなくて良いよ」
作業の手を止めることなく、彼女は背中を向けたままそう言った。
「じゃあ……ミリアさん。治療とか色々ありがとうございました!」
「はいはい、次から死なないように気を付けてね」
ミリアさんは振り返ると、ふふっと悪戯っぽく微笑んで、俺を優しく見送ってくれた。
お礼を言って保健室を出ると、廊下は次の授業へと移動する生徒たちで賑やかになり始めていた。車に撥ねられたはずなのに、身体のどこにも違和感がない。不思議な感覚を抱えながら、俺は自分の教室がある1年生のフロアへと階段を下がっていった。
教室に着いて、俺はガラガラと扉を開けた。
何人かの視線がこちらに向くが、特に気にする風でもなく、すぐに元の雑談へと戻っていった。
「お、シン。今日は遅かったな!大遅刻じゃーん」
席に着くなり、レンジがニヤニヤしながら声をかけてきた。
「遅刻になってないからセーフ」
「てか、なんで遅刻した?寝坊?」
「半分正解。寝坊して焦って信号無視したら、車に轢かれた」
「ありゃま……それで、一回死んでもう一度学校まで走ったと?」
「いや、それが死んでなくてさ。気がついたら保健室にいて、治療してもらった」
「うん……なんで?」
レンジは本気で不思議そうな顔をした。
車に轢かれたなら、そのままパタリと死んで綺麗に生き返った方が手っ取り早いし、痛い思いも残らない。なのに、中途半端に生き残って、わざわざ保健室で治療を受けるなんて二度手間もいいところだ。
「俺が一番疑問だわ」
全く、あのまま死んで家から生き返った方がどれだけ楽だったか。遅刻免除の上に状態共有で治療してくれたミリアさんには感謝だけど、そもそも誰が俺を保健室まで運んだんだ?
考えれば考えるほど面倒になってきて、俺は机に突っ伏して大きなため息をついた。
気づけば次の授業が始まっていた。
「え〜つまり、この世界は何度か滅んでいると言う説があると言うことになるのです。そうだな…次のページの歴代アドミンについては4月だからーー」
「はい」
「おぉ、良くわかったな」
(もう慣れたな…)
自分の名前を呼ばれる前すんなり立ち上がるのにも、この手の物々しい歴史の授業にデジャブも、俺はもうすっかり慣れていた。
「歴代アドミンは、年齢名前顔が不明の初代しか存在していません。名称の発端は今から三千年前、世界を滅ぼす程の力を持った者にアドミンと名付けられたと言われています。」
教科書に書かれたその一節を淡々と読み上げると、先生は満足そうに頷いて次の解説へと移っていった。俺はそのまま席に座り、ノートの端に小さく溜息を吐き出した。
(にしても……誰が俺を学校まで運んだんだ……?)
授業中も、その後の休み時間も、俺の頭の片隅にはずっとその疑問が居座り続けていた。
車に轢かれて意識を失い、目覚めたら保健室。中途半端に生き残った俺を、一体誰がわざわざあの場所まで運んだのか。考えれば考えるほど、霧がかかったように何も見えてこない。
結局、そんな腑に落ちない疑問を未だに抱きつつも、時間は淡々と流れ、気づけば放課後を迎えていた。
終礼のチャイムが鳴り響き、教室が一気に騒がしくなる。周りの奴らが部活やバイト、あるいはそれぞれの放課後へと動き出す中、俺も机の上の荷物をカバンへと押し込んだ。
考えても分からないなら、直接動いて確かめるしかない。
まずはもう一度、あの保健室へ行ってみるか。
「……よし」
小さく気合を入れるように呟き、俺はカバンを肩にかけ直して席を立った。
この妙な違和感の正体を探るべく、俺は賑やかな教室を後にした。
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