第10話 本当の死
「ビア゛ニ゛ズドォ!」
男の口から、鼓膜を震わせるような狂気じみた咆哮が迸った。
次の瞬間、床に頽れていたはずの男が、信じられない瞬発力でレンジの連れてきた警備員へと飛びかかった。
「や……やめろ! 離せ! 何なんだこいつ!」
突然の事態に、警備員が必死に腕を突き出して抵抗する。だが、男の力は人間のそれを遥かに凌駕していた。獣のように警備員の体を押さえつけると、剥き出しの歯をその首筋へと容赦なく突き立てる。
肉の裂ける嫌な音が響いた。
男が勢いよく首を振ると、まるで古びた布切れでも破るかのように、警備員の首が根元から凄惨に引きちぎられた。
噴き出す鮮血が、ゲームセンターのきらびやかなネオンに照らされて辺り一面に飛び散る。周囲から悲鳴が上がる中、男の異常な行動は止まらない。男は血が溢れ出す警備員の首の断面へと、躊躇なく自らの手を突っ込んだ。何かを必死に手探りで探すように、肉と骨をかき分ける。
「な……何してんだ……こいつ……」
あまりの怪奇現象に、俺の足はすくんで動かない。
「シン! 逃げるぞ!」
背後からレンジが俺の腕を強引に引っ張る。
だが、その瞬間にも男の手が警備員の体内から引き抜かれた。
男の血濡れた手の中に握られていたのは――青白く、神秘的な光を放つ球体。
全人類が体内に宿す第二の心臓、『ダスト』だった。
男はそれを自らの口へと放り込むと、 まるで硬いガラス玉でも 噛み砕くかのように、顎に力を込めた。
――バリィン!
耳障りな、何かが完全に粉砕される音がゲームセンターに響き渡る。
ダストの光がパッと霧散し、ただの濁った破片となって男の口から溢れ落ちた。
ダストの破壊。それは、生き返りの権利を失うことを意味する。
今、俺の目の前で、一人の人間の「本当の死」が容赦なく訪れた。
「あいつ……最初よりデカくなってないか!?」
俺の言葉に、レンジが鋭く叫び返す。
「今そんなこと気にしてる場合か!」
警備員のダストを食らった男の身体は、筋肉が異常に膨れ上がり、皮膚が裂けて赤黒い肉が覗くほどに肥大化していた。衣服を引きちぎりながら、男はゲームセンターのあるショッピングモールの4階フロアから、吹き抜けに向かって迷いなく飛び降りた。
ドォン!!と、建物を揺らすような衝撃音を立てて雑に着地する。常人なら即死する高さだが、男は痛がる素振りすら見せず、悲鳴を上げて逃げ惑う下の階の買い物客たちへと猛然と襲いかかった。
「先輩達を呼ぼう!」
「あぁ! 連絡してみる……!」
レンジが焦った様子でスマホを取り出し、ルーム長であるミルリ先輩への連絡を試みる。だが、その間にも1階の広場は地獄絵図と化していた。男は逃げ遅れた人々を組み伏せ、一人、また一人と、その胸元や首筋からダストを抉り出し、貪り食い散らかしていく。その度に男の体躯はさらに醜悪に巨大化していった。
その時、モールの入り口から足音を響かせて、一般の警備員とは明らかに違う、厳重な装備に身を包んだ武装集団がなだれ込んできた。
「ロザスト! 構え!」
隊長の鋭い号令とともに、彼らは一斉に未来的な形状をした白い銃を男へと向けた。
「撃て!」
ヴィィン――ッ!!!
独特の駆動音が空間を圧し、目に見えないエネルギーの衝撃波が放たれる。直撃を受けた肥大化した男の肩から脇腹にかけての肉が、派手に吹き飛んだ。
「ビア゛ニ゛ズドォォ゛ォ!」
しかし、男は致命傷を負ってもなお、狂ったように叫びながら武装警備員たちに向かって突進した。重戦車のような質量で突っ込まれ、前衛の警備員数名が紙切れのように宙へと吹き飛ばされる。
「総員下がれ! 武器を構え直して距離を取れ!」
凄まじい肉体の強度と再生能力を前に、警備隊は陣形を崩しながらも、必死に銃口を維持して後退を始めた。
俺は4階の吹き抜けの手すりから、下の階で繰り広げられる地獄絵図を見下ろしたまま、完全に呆然と立ち尽くしていた。日常が一瞬にして崩壊していく光景に、思考が追いつかない。
「シン! 何フリーズしてんだ、逃げるぞ!」
レンジが俺の腕を強引に引っ張り、非常階段の方へと走り出そうとした。だが、その焦りが仇となった。周囲の喧騒とパニックに紛れ、俺たちの足元に運悪く転がっていた、子供が落としたであろうおもちゃの存在に気づけなかったのだ。
――プ〜〜ッ!!
踏みつけた拍子に、気の抜けたような、しかし妙に高い音が静まり返りかけた4階フロアに響き渡る。
下の階で武装警備員と戦っていた男の首が、 音のした方へと不自然な角度で真上に跳ね上がった。焦点の合わない狂気の瞳が、まっすぐに俺たちを捉える。
男が膝を深く曲げたと思った次の瞬間、爆音と共に床がひび割れ、男の巨体が弾丸のように跳ね上がった。ただの一跳びで、4階の高さまで到達したのだ。
「あぁ、まずい! レンジだけでも逃げろ! 俺が食い止める!」
「待て! シン!」
レンジの制止の声が鼓膜を叩くが、もう迷っている時間はない。この質量がレンジに直撃すればひとたまりもない。
俺は体に宿るダストを限界まで引き出し、身体能力を爆発的に増強させる。さらに瞬発力の加速を上乗せし、怪物と化した男の顔面に向けて、人生で一番重い本気のパンチを叩き込んだ。
――パァンッ!!!
乾いた硬い音がフロアに炸裂する。だが、拳から伝わってきたのは、まるで城の石垣を殴ったかのような絶望的な硬質さだった。打撃は、怪物化した男に全く効いていなかった。
「嘘だろ……!? ちょっ、離せ……!」
男の太い腕が、俺の抵抗を嘲笑うように伸びてきた。気づけば男の身体は、俺の全身を片手で軽々と握り込めるほどにまで肥大化していた。周囲の肉を吸収するたびに、その成長速度は増している。
(こいつ……戦いながら、今もどんどんデカくなってやがる……!)
万力のような力で締め上げられ、骨が悲鳴を上げる。完全に詰んだ――そう覚悟して目を閉じた、その時だった。後ろからレンジの鋭い叫びが響いた。
「頭下げろ!!」
反射的にお腹に力を入れ、首をすくめるようにして頭を下げた。
それと同時に、俺の頭上を凄まじい熱風が通り過ぎる。レンジの口から放たれた、濁流のような火炎のブレスが、男の顔面に至近距離から直撃した。
「ヴァァ゛ァ!! ア゛ァッ!!」
顔を包み込む激しい炎に、男が苦悶の声を上げてのけ反る。俺を拘束していた手の力が緩み、床へとドサリと解放された。男は両手で激しく燃え盛る自分の顔を押さえ、狂ったように頭を振っている。
「無茶すんなよ、馬鹿」
すぐにレンジが駆け寄り、俺の肩を抱え上げて立たせてくれた。その顔は煤で汚れていたが、鋭い眼光は失われていない。
「はっ……はっ……悪い……! でも、今しか逃げれねぇ!」
炎で怯んでいる今こそが、この場を離脱する最大の好機だった。俺達は怪物の咆哮を背中で聞きながら、今度こそ全速力で出口へと走り出した。
「はぁ……はぁ……はぁ……無駄に広すぎんだよこのモール!」
「黙って足走らせろ! 追いつかれるぞ!」
俺は能力で身体を強化して地を駆ける。レンジは翼で低空を飛ぶようにして俺と並走していた。
しかし、背後からは――ドン……ドン……と、およそ生物のものとは思えない重苦しい地響きが迫っていた。どんどん近くなっている。恐怖が首筋をじっとりと濡らした。
(逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ! 生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい……生きたい!)
死への恐怖と生への執念。脳内がその二文字だけで埋め尽くされた瞬間、俺は無意識のうちに、下半身への能力の限界値を大きく超えて出力を引き上げていた。本来なら筋肉が断裂するほどの負荷のはずだったが、なぜか肉体への反動は一切来ない。必死すぎる俺自身、その異常事態には全く気づいていなかった。
俺の足の回転が目に見えて跳ね上がり、速度は時速40キロに到達する。並んで飛んでいたレンジが、驚愕に目を見開いた。
(あいつ……あんな早く走れたか……!?)
だが、レンジもシンを気にしている場合ではなかった。背後の怪物の気配はもう目と鼻の先だ。
前方に、駐車場へと繋がるガラス張りの自動ドアが見えてくる。普段は何気なく通り過ぎるだけのその扉が、今の俺達には生き残るための希望の光に見えた。
「シン! 自動ドアの窓割れるか!」
「あぁ……やってみる!」
足を緩めず、近くにあった棚から咄嗟に掴み取ったものを、思いっきりドアへと投げつけた。
――プッ!
ガラスに当たって間抜けた音を立てたのは、小さな人形のおもちゃだった。傷一つついていない。
「ふざけてる場合じゃねぇよ!」
「この状況でふざけれるか!」
冷や汗を流しながら視線を巡らせると、家電コーナーの展示品である頑丈そうなコードレス掃除機に目が留まった。俺はそれを咄嗟に掴み取ると、全身のバネを使って槍のように全力で投擲した。
強烈な勢いで放たれた掃除機は、狙った窓ガラスには当たらなかったものの、自動ドアの噛み合わせの金属部分に直撃し、凄まじい音を立てて扉そのものを強引に枠ごと破壊した。
「このまま駐車場から飛び降りるぞ! そん時に俺に掴まれ!」
「分かった!」
破壊した扉を突き破り、外へと飛び出す。
一瞬、視界が真っ白な太陽の光に照らされた。すぐに目が慣れて元の視界が戻ると、そこは遮るもののない立体駐車場の屋上。眼下にはアスファルトの地面が広がっている。
俺は言われた通りに、躊躇なく駐車場の手すりを越えて、空中へと思いっきり飛び降りた。
「うっ! レ……レンジ!」
一気に重力に引かれ、体が落下していく。風が耳元を激しく殴る。
「掴まれ!」
上空からレンジが手を伸ばす。
空中で、俺たちの手と手ががっしりと繋がれた。
しかし、その手は――極限の恐怖による大量の汗で、無情にもぬるりと滑るようになっていた。
「あ……」
レンジの指先が、俺の手から完全に離れる。
飛行能力を持たない俺に待っているのは、このまま地面に叩きつけられて全身複雑骨折を負い、動けなくなったところをあの怪物に貪り喰われる最悪の結末のみだった。
視界の中の光景が、下から上へと凄まじい速度で流れていく。風圧で息ができない。地面が目の前に迫る。死の恐怖に身を硬くした、その瞬間だった。
フワリ、と落下の衝撃が信じられないほど優しく殺され、誰かに横抱きで担がれた感触がした。
「大丈夫かい? 迷子の二人組」
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