第9話 壊れ始める日常
翌日。
昨日の地獄の特訓と二度のリスポーンによる精神的疲労のせいか、俺は休日をひたすらベッドの中で泥のように寝て過ごしていた。
深い眠りの底へと沈んでいく中、突如として室内に爆音が響き渡る。
「ほらあーた! さっさと起きんしゃい!」
直後、凄まじい衝撃と共に視界が上下逆転した。
お母がベッドの端をガシッと掴み、凄まじい怪力でベッドごと俺をひっくり返して起こしてきたのだ。
「いっ! ……この起こし方やめてくれよ!」
床に転げ落ちた俺は、腰をさすりながら声を荒らげる。いくらダストがあるからって、毎度毎度この目覚まし代わりの肉体言語は心臓に悪すぎる。
「こうでもしんとあーた全然起きないんじゃけ、しゃーなしよ。ほら、朝ご飯作ったから『食べなんし』」
「『食べなんし』じゃねぇよ……」
どこの方言ともつかないお母独特の謎の言葉遣いにツッコミを入れつつ、俺は渋々といった様子で髪をボサボサに揺らしながら立ち上がった。
文句は言いつつも、部屋に漂ってくる出汁のいい匂いには抗えない。俺は寝巻きのまま、お母の後を追ってリビングへと向かった。
皿に置かれていた食パンを咥え、もぐもぐと食べながらスマホをいじっていると、画面の上部にレンジからの通知が表示された。
『おはーシン、親から映画のチケット貰ったから行かね?』
昨日あれだけ酷い目に遭ったんだ、今日くらいはパァッと息抜きをしたい。俺はすぐに文字を打ち込んだ。
『お、行くわ』
『おっけー13時に駅な』
『あいよー』
予定が決まれば行動は早い。朝食を急いで平らげ、部屋に戻って私服に着替える。髪を軽く整えて出かける支度を済ませ、リビングを横切ろうとしたその時、居間でどっしりと胡坐をかいていた爺ちゃんが鋭い声で話しかけてきた。
「おい、シン。ちょっとこっち来い」
「なんだよ爺ちゃん……もうすぐ出かけるんだけど」
時計を見ながら少し気揉みする俺に、爺ちゃんはいつになく真剣な眼差しを向けてくる。
「お前、戦いに目覚めたか?」
「戦いにって……まぁ、戦闘部に入ったよ。色々あってさ」
「そうか……。お前に話す時が来てワシは嬉しい。後ろにあるこの刀を説明してやろう」
爺ちゃんが視線で示した先――床の間に厳かに飾られている、独特の反りを持った刃物があった。
「あぁー、その変な形の剣ね。刀って言うんだ……」
「これはお前が本当に必要とした時に目の前に現れる。その時は、刀と己を信じろ」
「……?」
爺ちゃんの言葉の意味が、俺はまだ理解出来ていなかった。いや、どこかファンタジーじみた話に、理解しようとしていなかったのかもしれない。
「悪い爺ちゃん! まじで時間ない!」
これ以上遅れるとレンジを待たせてしまう。俺は話を半ば強引に切り上げると、靴を引っ掴んで慌てて家へ飛び出した。
バタン、と勢いよく閉まった扉の向こうで。
爺ちゃんは静かに目を閉じ、去っていった孫の気配に向けて、ポツリと呟いた。
「孫……お前は……真の『人間』になれる」
その言葉の真意を知る由もないまま、俺は駅に向かって全力で坂道を駆け下りていった。
「悪い! 待たせた!」
改札を抜けて、待ち合わせ場所の広場へと滑り込む。
呼吸を切らしながらレンジの前にたどり着くと、当の本人はスマホの画面をじっと見つめたまま、ピッと画面をタップした。
「1分2秒の遅刻」
「厳しいって……。」
ストップウォッチで計っていたかのようなレンジの正確さに肩を落とすと、レンジは「冗談だよ」と楽しそうに笑って歩き出した。
俺とレンジは駅から直結しているショッピングモールへと向かい、その中にある映画館へと足を運んだ。日曜日ということもあってモール内は家族連れやカップルで賑わっている。
エスカレーターに乗って映画館のある上の階へと上がっていく途中、華やかな化粧品売り場の大きな広告看板がふと目に留まった。そこに写っている美しすぎるモデルの顔に、猛烈な既視感を覚える。
「あれ、レンジのとこのルーム長じゃね?」
思わず看板を指差して声を上げると、レンジもその視線を追って「あー」と納得したように声を漏らした。
「あー、そういやミルリ先輩、モデルやってるって言ってたな。普段の制服姿も綺麗だけど、こういうメイクしてると全然雰囲気違うよな」
学校では少し近寄りがたいような洗練されたオーラを放っている先輩が、街中の巨大な看板に載っている。身近な人物の意外な有名人っぷりに、俺は改めてこの学校にいる連中の規格外さを思い知らされるのだった。
「聞いてなかったけど、なんの映画?」
「恐怖のピーちゃんってやつ。人間が魔改造されて暴れ回るらしいよ〜」
「名前の割に物騒だな」
思わず鼻で笑いながら、俺達は映画館のロビーに着いた。マスコットキャラみたいなタイトルのくせに、内容は完全にB級バイオレンスホラーのそれだ。
シアターへ向かう前に売店へと足を向ける。香ばしい匂いが鼻をくすぐる中、レンジが財布を出しながら聞いてきた。
「キャラメル派? 塩派?」
「キャラメルで」
「分かってねーな、ダイレクトで味わわなきゃ。店員さん、塩で」
「聞いた意味ねーじゃん」
せめてハーフ&ハーフにする選択肢はなかったのか。俺の意見を秒で却下したレンジは、山盛りの塩ポップコーンとドリンクを受け取ってフフンと鼻を鳴らしている。
まったく調子のいい奴だと思いつつも、なんだかんだ言ってお互い気を使わないこの空気は心地いい。
「この静かな感じと薄暗い道が一番ワクワクするよな!」
「全くもって同感だわ」
シアターへと続くあの独特の薄暗い通路を歩いている時が、間違いなく俺たちのボルテージの最高潮だった。
――1時間半後。
映画を見終えた俺達は、どっと押し寄せる疲労感と共にロビーへと這い出て、開口一番に意見を出し合った。
「クソ映画だったわ」
「犬が自分のフンを食うぐらいクソ映画だったな」
期待を裏切られた俺達の口からは、容赦のない文句が次から次へと垂れ流される。
「なんだよあのヒロイン! 中盤でピーちゃんが明らかに人間じゃない形状に見えてんのにさ!『私のボーイフレンドだわ!』って言って躊躇なく扉開けんだよアホか! 危機管理能力ゼロかよ!」
「ほんとにあのヒロインは速攻で死んで正解だったわ! 食われた瞬間、心ん中でザマァってまじで思ったわ。あのバカのせいで何人巻き添え食ったと思ってんだよ!」
あの時塩ポップコーンをダイレクトに味わっていたレンジも、今や怒りでポップコーンの空箱を握りつぶしそうな勢いだ。
あまりの理不尽な展開の数々に、俺達は貴重な休日の時間を盛大に無駄にしたことを深く噛み締めながら、このモヤモヤした鬱憤を晴らすべく、モールの奥にあるゲームセンターへと向かった。
筐体のハンドルを握ってレーシングゲームで競い合ったり、流れてくる音符に合わせて踊った。大音量のゲームミュージックと周囲の喧騒が、少しずつ俺たちの機嫌を上向かせていく。
そんな中、ふとゲーム機の狭い通路の片隅で、壁に寄りかかるようにしてひどく背中を丸めている一人の男が目に入った。どう見ても様子がおかしい。
「大丈夫ですか?」
気になって声をかけ、覗き込む。男は顔を真っ青に血の気を引かせ、脂汗をだらだらと流しながら、胸元をかきむしるようにして激しく喘いでいた。
「……っ……い゛……ぶぐぁっ。ひっ」
「すみません、もう一回言ってもらえますか?」
あまりに掠れた、獣のような呻き声。何を言っているのか全く聞き取れず、俺がさらに耳を近づけようとした時、後ろからレンジが不思議そうに近づいてきた。
「シン、どうした?」
「この人体調悪そうなんよ、取り敢えず警備員呼ぶか」
「呼んでくるわ! シンは見守ってて!」
事態の深刻さを察したレンジは、すぐに身を翻して人混みの奥へと走っていった。
俺は男の隣にしゃがみ込み、「今、人が呼んできますからね」と声をかけながら、少しでも楽になるようにとその背中を何度も摩った。しかし、男のガタガタという震えは収まるどころか、さらに激しさを増していく。
あまりの寒気からか歯の根が合わない様子を見て、俺は慌てて自分の上着を脱ぎ、男の肩へと着せた。
(……待て、よく見たら出血し始めてる……。目も焦点が合ってない。大丈夫か、これ!?)
男の鼻や口元から、赤黒い液体がじわりと滲み出し、俺の上着の襟元を汚していく。目は完全にどこかもわからない虚空を睨みつけ、瞳孔が不自然に開いていた。明らかに普通の急性疾患なんかじゃない。
「い゛っ! あ゛……ビ……ビアニ! ズド……」
「……?」
男が最後に、血混じりの息と一緒に何かを必死に吐き出そうとした。だが、それが言葉の形を成す前に、男の身体が大きく跳ね上がる。
「シン! 呼んできたよ!」
遠くからレンジが警備員を伴って走ってくる声が聞こえた、まさにその瞬間だった。
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