第3話 可能性
案内された超人系のエリアは、まるで道場のような厳かな空気に包まれていた。
そこで行われていたのは、能力をフルに駆使した至近距離での組み手だ。
片方の半獣の生徒が、その種族特有の俊敏性を爆発させる。目にも止まらぬ速さで背後へと回り込み、必殺の距離を詰めた――が、対峙していた相手は、まるで後頭部にも目があるかのようにその動きを完全に捉えていた。
一瞬の交差。気づいた時には、半獣の体が鮮やかな弧を描いて宙を舞い、豪快な背負い投げが畳を鳴らして試合は終了していた。
「は……はやい……」
俺は、ただただ呆気に取られるしかなかった。
能力による身体強化と、磨き上げられた技術。それらが組み合わさった時に生み出される異次元の攻防。
ただ「力を数倍にする」だけの自分の能力が、果たしてこの領域で通用するのか。目の前の光景は、俺がこれから足を踏み入れようとしている世界の厳しさを、無言のうちに突きつけていた。
「新入りか?」
豪快な背負い投げを決めた男が、畳の上に立ったまま、こちらを鋭い眼光で射抜いてきた。
「い、いえ……見学です」
気圧されながらも、俺は声を絞り出す。
この男、隙が全くない。どこから攻めても一瞬で返り討ちにされそうな、異常なまでに鍛え抜かれた体と精神が、そこにあるだけで伝わってきた。
「お前、能力は?」
「あ……力を数倍引き上げるだけです」
男は少し考え込むように視線を落とした後、不敵に口元を緩めて提案してきた。
「組み手よりボクシングルールの方が良さそうだな。ちょっと来い」
「え? あ、はい……?」
断る隙もないままその場の空気に流され、気づけば俺はリングの上でグローブを嵌められ、戦う羽目になっていた。
「始め!」
審判の鋭い合図が響き渡る。
俺は突然の展開に戸惑いを隠せずにいた。足がすくみ、どう動くべきか脳がフリーズしかける。
だが、対峙する男は違った。俺の目だけをじっと見据え、その構えには微塵の揺らぎもない。まるで『ほら、お前のその能力を全力で使ってこい』と、無言で挑発しているようだった。
俺は覚悟を決めて、グローブを強く握りしめた。
「ハァァァッ!」
叫びと共に、俺は全力の踏み込みから拳を突き出した。
能力によって数倍へと底上げされた一発が、男のガードを捉える。重低音のような衝撃音が響き、男の体がわずかに後退した。ガードの上からとはいえ、衝撃はモロに食らわせたはずだ。
(やはり凄まじいパワーだ……種族との相性が良い)
しかし、男は怯むどころか、冷徹なまでに冷静に俺の力を分析し、次の一手を読んでいる。
手応えに背中を押され、俺はそこから何発ものパンチを繰り出した。けれど、二発目以降の拳は空を切るばかりで、すべて最小限の動きで躱されてしまう。
何度も、何度も、決定的な一撃を決めようと躍起になって拳を振り回したが、掠りもしない。焦りと疲労が限界に達しようとしたその時――『アレ』が来た。
「グッ!……」
ドクン、と心臓の鼓動が一瞬だけ、破裂しそうなほど大きく鳴り響いた。
同時に激しい動悸が襲いかかり、呼吸が急激に浅くなる。全身の血の気が引き、俺はその場に膝をついた。
「大丈夫か!」
男が慌てて俺に駆け寄り、抱き起こすようにして背中を摩ってくれた。
大きな手の温もりのおかげか、しばらくすると激しい鼓動が徐々に落ち着きを取り戻し、次第に呼吸も整い始めてきた。
「今のは、能力の反動です……」
息を整えながら、俺は自分の体の「欠陥」について打ち明けた。
下半身に能力を使用して走る分には問題ないこと。けれど、上半身に能力を使って拳を振るうと、心臓への負担が跳ね上がり、すぐに限界が訪れてしまうこと。
「なるほどな……強力な能力だが、相応の代償もあるってことか……」
男は顎に手を当て、納得したように呟いた。
(どこが強力なんだよ……)
心の中で、俺は自嘲気味にそう吐き捨てた。
使えば自滅する、欠陥だらけの肉体強化。この時の俺はまだ、自分の能力が持つ本当の価値と、その正しい扱い方について、致命的なまでに理解が浅かった。
「そういや、自己紹介がまだだったな。俺はダムだ。ところで、お前、種族は『V』いくつまで行ってるんだ?」
ダム先輩は突然、聞き覚えのない言葉を口にした。
「すみません……Vとは、何ですか……?」
「あぁ、一年生じゃまだ習わないんだっけか」
ダム先輩は納得したように頷くと、この世界の「種族」に隠された、四段階の覚醒形態について教えてくれた。
V1:一般的な形態。生まれたままの、通常の種族特性を持つ状態。
V2:鍛錬を重ねれば会得できる形態。種族の力を一段階引き上げた状態。
V3:達人が成れる領域の形態。限られた強者のみが到達できる境地。
V4:神の領域。長い歴史の中でも、これに成れた者は世界で極僅かしかいない。
「種族にそんな覚醒形態があったんですね……」
己の肉体強化の能力にばかり目を奪われ、そのベースとなる「人間」という種族の可能性について、俺は何も知らなかった。
この学校には、そしてこの世界には、自分の知らない高度な理ことわりがまだまだ沢山ある。それを、身に染みて実感する瞬間だった。
「V2って、具体的にどのくらい変化があるんですか?」
もし自分が覚醒できたとしたら、一体どのレベルまで強くなれるのか。純粋な疑問が湧き上がり、俺は思わず問いかけていた。
「そうだな……さっきお前が見た組み手で、背後に回り込んでた半獣のミジア。あいつがV2だ」
ダム先輩は視線を道場の方へと向けながら言った。
半獣のV2。ただでさえ高い俊敏性がさらに引き上げられ、常人の目では到底捉えられない領域の速さに達する。V2でそれなら、その上のV3や、ましてやV4はどうなってしまうんだ。
胸を突く好奇心と焦燥感に突き動かされ、俺は再びダム先輩に問う。
「質問ばかりですみません……もし、人間がV4になったらどうなるんですか?」
すると、ダム先輩は少しだけ真剣な目付きになり、静かに首を振った。
「歴代で、人間がV4に到達した記録は一度もない。……その他の種族なら、存在したという記録があるがな」
ダム先輩の言葉が、重くリングに響いた。
やはり、人間の覚醒は他の種族に比べても絶望的なまでに難しいようだ。世界の歴史が始まってから現在に至るまで、神の領域に達した人間は存在しない。
突きつけられた残酷な現実。それでも俺のどこかで、まだ見ぬ可能性への渇望が静かに火を灯し始めていた。
帰り道。
夕日に染まる街並みを眺める余裕もなく、俺はずっと考え事をしながら下を向いて歩いていた。
「おーいシン?さっきからどうしたんだよ」
隣を歩くレンジが、不審そうに顔を覗き込んできた。
「すまん、ちょっと考え事してた」
「へえ、お前が考え事なんて珍しいじゃん」
からかうような、だけど心配そうな眼差しを向けてくる親友に、俺は不意にずっと胸に引っかかっていた疑問をぶつけてみた。
「なぁレンジ。俺たちって、いつか種族の『V4』になれると思うか?」
「種族の覚醒だっけ?……耳にしたことはある。でもV4は流石に、俺たちじゃ無理なんじゃないか?」
天才肌の竜人であるレンジですら、そう言って苦笑いを浮かべる。
「だよなぁ……」
やっぱり、そう簡単に目指せる場所じゃない。ましてや、未だ到達者のいない『人間』の俺にとっては、文字通り神の領域だ。
そんな他愛のない会話をしているうちに、いつの間にかいつもの分かれ道へと来ていた。
「じゃ、また明日な」
「おう、また明日」
軽く手を振り、それぞれの家へと帰路につく。
帰宅して、風呂に入っている間も、温かい飯を食っている間も、そしてベッドに入って寝る前も。俺の頭からは、あの「種族の覚醒」という言葉がどうしても離れなかった。
(あの戦闘部に入れば……俺でも、いつか覚醒できるのかな……)
答えの出ない問いを天井に投げかけながら、初日の緊張と組み手の疲労がどっと押し寄せてくる。
俺はゆっくりと目を閉じ、深い眠りへと落ちていった。
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