家族

 僕が目覚めてから十分後、眠い目をこすりながら妹も起床した。

 僕と同じくあまり深く眠れなかったのか、青白い顔で、目の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。

 しばらくボーっとした後、周りをきょろきょろと見回し、状況を把握したのか「はぁ……」とため息を吐いた。


「やっぱり夢じゃなかったんだね……」

「お前も同じこと考えてたのか。やっぱり僕たちは兄妹なんだな」


 お互いに顔を見合わせて、吹き出すように笑った。

 事件の後、妹が見せた初めての笑顔だった。

 日常的に見ていた屈託のない笑顔とは程遠いものだったが、それでも妹の笑顔を取り戻せたのは兄としては誇らしいものであった。


「よし、とりあえず持ってきたパンでも食べようか。今日もまた電車移動中心になるだろうし、体力つけとかないと」

 

 僕はリュックサックの中をごそごそと漁る。菓子パンを2つ取り出すと、あんパンを妹に手渡した。

 妹は甘いもの――特にあんこやきなこといった和菓子系の甘味をよく好んでいた。あんパンも好物の一つのため、よく母さんが買ってきてくれていたのだ。


「ありがとう、お兄ちゃん」


 妹は僕からパンを受け取ると、包装を破いてその小さな口に運んだ。

 良かった、どうやら食欲はあるみたいだ。

 これなら長時間の移動も何とか耐えられそうだと思った。

 僕も妹と同じようにパンを食べ始める。そして、片手間で電車の時刻表を調べた。

 始発は四時五十五分。

 あまり悠長にはしていられないな。


「よし、食べ終わったら出発しよう。始発まで時間が無いから、今日の予定は後で伝える」

 

 僕は残りのパンを水で流し込むと、荷物の整理を始める。

 妹も僕に倣って、食べかけのパンを置いてリュックサックを背負い始めた。

 パンは一口食べた後、ほとんど減っていなかった。

 やっぱり無理をしているのだろう。

 電車に乗ったら、しばらくは寝かせてあげよう。

 僕はリュックサックを背負い、妹の手を引きながら、部屋の鍵を開けた。

 

 ネットカフェのセルフレジには、チェックアウトの他に途中外出のボタンも存在した。

 チェックインを済ませた後、コンビニに行ったり、飲食店でご飯を食べてきたりできるサービスのことだ。

 ここの店長さんには悪いと思ったが、残念ながら僕らにはほとんどお金が無い。

 今後の費用を考えて、僕はチェックアウトではなく、途中外出を押した。

 どうせ犯罪者のレッテルは張られている。いまさら無銭宿泊くらい気にしていられなかった。

 

 ネットカフェを出て直ぐ、僕らは駅を目指して歩いた。

 駅からネットカフェまでは十分もかからない距離だ。

 僕は少し早足になりながらも、妹に無理をさせないように彼女を引っ張って歩く。

 早朝は昼間と比べてそれほど暑くもなく、むしろ木々の合間から吹き抜ける風が心地よかった。

 今日も天気がいい。あとは電車に乗り込めば目的地までゆっくりできる。

 しかし、もう少しで駅に到着するといったところで、僕は思わずびくっと肩を震わせた。


「なんで……いくら何でも早すぎないか?」


 僕の目線の先、駅の改札の前に複数人の警察官が立っていた。

 メモとペンを片手に、聞き取り調査もしくは検問をしている風にも見える。

 やばいやばいやばいやばい。

 僕の鼓動は早鐘を打ち、背中には冷たい汗が流れる。


「お兄ちゃん……あれって、警察?」


 僕とつないでいる妹の手にも力が入り、体がガタガタと震えていた。

 どこかしくじったのか? いや、多分そんなレベルの話じゃない。

 恐らくニュースが流れ始めたあの時から、僕らは調査対象に入っていたんだ。

 それもそのはずだ。

 なぜ気づかなかったのか。

 普通に考えて、被害者と仲の良い友人が突然失踪したのだ。

 これで捜索しない警察何ているわけがない。


「僕の見立てが甘かった……」


 僕は奥歯を噛み締めながら、今後のことについて脳をフル回転する。

 これで、大っぴらに公共交通機関は使えない。

 ならばどうするか。

 どこかで車でも盗むか?

 免許も持ってないのに?

 今、使えそうな武器になりそうなものといえば、家から持ってきた調理用の包丁だけ。

 ダメだ、失敗する未来しか見えない。

 僕の思考はそこで止まってしまった。

 パニックだったから仕方ないとはいえ、今にして思えば一刻も早く駅から遠ざかるべきだった。

 僕らは、道の真ん中で固まったまま立ち止まっている。

 後ろから来た車にクラクションを鳴らされた。

 遠くの方で、音に気付いた警察官と目が合う。


「あ、待ちなさい君たち!」


 僕は急いで駅と反対方向へと駆け出していた。

 妹の手を力いっぱい握りしめ、できるだけ遠くへ逃げようと一生懸命走り続けた。

 土地勘のない道だ。がむしゃらに走ってもすぐ後ろから追いかけてくる警察を振り切ることはできない。

 どうする。どうすればいい?

 僕は菓子パンで取った糖分を使い切る勢いで考え続けた。

 そうだ。

 ここら辺は道を少し外れると、すぐに山へ続いている。

 いったん山に逃げ込もう。

 そして、どこか適当な道に出たらそこから逃げればいい。

 僕はその短絡的な思考で、妹と一緒に山へ入る決意を固める。


「あそこの角を曲がったら、山に逃げ込もう。大丈夫、追っ手を撒けたらすぐに下山して新しいルートを探そう」

「うん……わかった」


 僕らはそうして、警察を撒くために山の中に逃げ込んだ。

 しばらく走ると、僕の目論見通り警察の目から一時的に逃れることには成功した。

 ただ、同時に『追っ手を撒けたら直ぐに下山する』この考えがあまりにも楽観的だったことを痛感した。

 見渡す限りおびただしい程の木の大群。

 空を見上げても、木の葉に隠れて木漏れ日の白い光しか見えなかった。

 僕たちは元来た道を引き返すこともできず、大きな木にもたれ掛かって一時の休憩をしていた。


「お兄ちゃん、スマホとか持ってないの?」

「うん、家に置いてきた。GPSとかあるから使えないだろうって思って。くそっ、こんなことになるなら、方位磁石でも持ってくるべきだった」


 僕は疲労感と自身の失態にいら立ちを隠せなくなっていた。

 いつもならこういうときは俯瞰ふかんして物事を考えるようにしていたが、冷静さを失っている今の僕にはそれもできない。


「ごめんね……私が巻き込んだばかりに。お兄ちゃんにもこんな……」

「なっ……! ふざけんなよ! いまさら……いまさらそんなこと言うなよ。お前は……お前は何も悪くないよ」

「でも……」

「でもじゃない! あの場にお前じゃなくて僕がいても同じことをしていた。ほんとだ……こればっかりは嘘じゃない!」

「っ………………」

「………………」


 僕らの間に長い沈黙が流れる。

 さんざん走り回った上でのこの口論だ。僕と妹はとうに体力の限界だった。

 でも、お互い口を開こうとしなかったのは、ただ疲れただけではなかった。この先、何を話せばよいのかお互いにわからなくなってしまったのだ。

 その後、意外にも開口の口火を切ったのは、僕ではなく妹の方からだった。


「私……お兄ちゃんが味方で良かった。お兄ちゃんが私のために頑張ってくれて、私救われた。ああ……私、お兄ちゃんの妹に生まれてきてよかったなって思った」


 妹はどこか遠くを見つめるように、でもハッキリとした焦点で、その黒い瞳には溢れるばかりの生気が宿っていた。


「本当は、私は家族のことが好きじゃなかったの。お父さんは犯罪者だし、お母さんもお兄ちゃんも自分は世界一の不幸者だって顔ばかりしてたから。でも……今は違うよ。本当はお父さんにもお母さんにも会いたい。お兄ちゃんとももっと一緒に色々な話をしたかった……」


 妹の――エミの目には大粒の涙が浮かんでいた。

 僕はエミの肩をそっと抱き寄せる。


「ごめん、エミ。僕は……僕は本当はただの臆病者で……君のような幸せになる権利のある子の側にはいちゃいけないと思っていた。だから、だから僕は無意識のうちにエミのことを遠ざけて……」


 僕はエミのことを名前で呼んだことがほとんどなかった。いつも「おい」とか「お前」とかそんな呼び方ばかりだった。

 それもこれも、僕は世界一の不幸者で、エミみたいな子の側には近づいちゃいけないと、無意識のうちにそう思っていたからだ。

 僕は、僕自身の勝手な思いで大切な家族を遠ざけていた。


「私……実はお兄ちゃんと兄妹なことちょっとだけ残念に思っているの。だって、昨日と今日のお兄ちゃん最高にかっこよかった……。私が一緒に死んでほしいって言った時も即答してくれて嬉しかった……。本当はお兄ちゃんみたいな人と一緒になれたらよかったのにって本気で思ってる」


 だからね……と、エミの言葉が続く。

 彼女の瞳はどこまでも純粋で、まるで霧が晴れたように透き通った色をしていた。


「お兄ちゃんは死んじゃだめだよ。死ぬのは私だけでいい」

「は……?」


 エミの体から突然力が抜けていく。彼女の腹部には、僕がリュックサックに入れていたはずの調理用の包丁が刺さっていた。

 エミの姿が、昨日の血まみれの制服姿と重なる。


「嘘だろ……? 待てよ……待ってくれよ、エミ!」


 僕はエミの体を抱き寄せて、何度も名前を連呼した。

 僕の声にならない声が、森の中に響いて何度も木霊こだました。

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