道標

 電車が終点に着くと、辺りは既に暗くなり始めていた。腕時計の針は五時の位置を指し示している。

 周りに人の姿は無く、飲食店らしきお店も数件しかない。どうやらこの駅の周辺は、なかなかの田舎のようだ。

 今日は、これ以上移動するのは難しそうだった。

 僕らに足が無いのはそうだが、それよりも突然の逃避行に体がついていかず疲労で倒れてしまいそうだった。

 男の僕でこの体たらくなら、妹はより深刻だろう。それに、妹の場合は襲われた上に殺人まで犯している。

 心身ともに極限状態なのは今更語るまでもない。


「良し、どこか泊るところを探そうか。僕らの有り金じゃネカフェくらいしかないかもだけど……」


 僕は後ろを歩く妹の方を振り返った。僕の見立て通り、足元はふらついており、目の焦点が合わなかった。

 僕はリュックサックを背中からお腹の位置に移動させると、妹の前で屈んで見せる。


「ほら、そんなんじゃ怪我するぞ」

「……ん」


 妹は気恥ずかしそうに周りをきょろきょろ見渡すと、意外にも素直に僕の背中に体を預けてきた。

 僕も心底疲れていたが、そこは長男の底力と言うやつだ。

 「よいしょっ」と小さく気合を入れると、四十キロもない小さな体を持ち上げる。

 土地勘が無いため、僕は首を左右に動かしながら歩みを進めた。


「お兄ちゃん……」

「ん……?」

「ありがとう……」

「うん」

 

 妹の体温が背中越しに伝ってくる。シャワーを浴びてから相当の時間が経っているにもかかわらず、鼻先に触れた妹の髪からは柑橘系の甘い香りがした。

 妹を最後におぶったのはいつだっただろうか。僕の記憶が正しければ、彼女が小学校に入学したばかりの頃だったはずだ。

 僕の感覚に残る妹は子犬のように軽かったと思ったのだが、あの頃に比べて大きくなったんだなと実感する。

 このまま成長できれば、きっと普通の生活を送ることくらいはできたのだろう。

 普通に定職について、普通に恋人を作って、普通に死を迎える。僕には叶いっこない未来だったが、この妹ならそれも夢ではなかったはずなのだ。

 それなのに――それなのになぜ、どうしてこうなってしまったのか。

 僕ら兄妹が、何か世間様に迷惑をかけてしまっただろうか。

 ただ、あの父親の家族というだけで。

 後悔や懺悔すら与えられない僕らは、神様に一体全体何をお願いすればよかったのだろうか。

 生まれさせないでくださいとでも願えというのか。

 馬鹿げている。馬鹿げているが、僕らにはそう願うしかないのだ。

 今世の僕らはよく頑張った。だから、今宵の分も含めて来世では目一杯幸せになってもらわなければ困るのだ。


「お兄ちゃん……」

「うん?」

「ごめんね……」

 

 妹は僕の耳元で、ほとんど吐息のような小さな声で呟く。

 辞めてくれ。僕は耳が弱いんだ。

 崩れ行く現実を前に、僕は背中越しの小さな理想を嚙み締めた。


 ◆


 街灯のない道をしばらく歩くと、一軒のネットカフェを見つけた。

 しかし、ぱっと見チェーン店というわけでもなければ、人がいるかも怪しい雰囲気だ。

 僕はホラー映画が大の苦手だ。特に和ホラーと呼ばれるジャンルは見ただけで卒倒しそうになる。

 注射かホラーを選べと問われれば迷いなく……うん、迷いなく注射を選ぶほどには苦手だった。

 そのため、僕は店の真ん前まで来たにもかかわらず、店内に足を踏み入れるのを躊躇していた。

 体感三分くらいは足踏みしていただろうか。それでも、体に溜まった疲労と背中におぶっている妹を建前に、中に入る決意を固める。

 心の中で「ええい、ままよ!」という気合を込めて、ネットカフェの自動扉をくぐっていった。


「お邪魔しまーす」

 

 店内は、古臭い外見とは裏腹に、意外にも清潔感があった。クーラーの冷風が、体中から噴き出た汗に当たって気持ちいい。

 火照ほてった体から一気に体温が奪われる感覚に陥る。

 極度の疲労感から、今にも寝落ちしてしまいそうだった。

 早く部屋に入ろう。

 妹を近くの椅子の上に降ろすと、まずは受付を済ませるためにカウンターへと向かった。

 だが、そこには店員の姿は見当たらなかった。呼び出しのベルこそあったが、何度鳴らしても店員が来る気配はない。

 おかしいなと首をひねっていると、カウンターの横に田舎で、しかもチェーン店でもないのにセルフレジがあることに気が付く。

 このお店は意外とブルジョワなのかもしれないな。

 人も、お店も外見で判断するべきでない。僕はこの時、そのことについて改めて学んだ。


 ◆


 ネットカフェの部屋は、リクライニングシートタイプやマッサージチェアタイプなど様々な種類があったが、僕らは横になれるフラットタイプの部屋を選択した。

 二人一緒に中へ入り、内側から鍵をかける。

 上から覗き込まれたら、中は丸見えだったが、この際贅沢を言ってられない。

 部屋の中は薄暗く、電気を付けるまでは、正面のデスクトップパソコンからの淡い光が唯一の光源だった。


「二人で寝るには、ちょっと狭かったかもな」


 僕は妹の方へ顔を向けながら自嘲気味に笑う。

 普通に座っているだけでも、肩と肩が触れ合う距離だった。このまま一泊するとしたら、僕は座ったまま寝るしかないかもしれない。

 妹の体調のためだ。ここはきっちり我慢するのが兄としての矜持きょうじだろう。

 僕がそんな考えに思考巡らせていると、妹が僕の服の裾を引っ張る。


「テレビ……ニュースって見られる?」


 妹が声を震わせながら、怯えた目つきで僕にそう聞いてきた。


「ちょっと待ってろ。えっと……こうして、こうで……」


 僕は妹の願いを聞き入れるために、デスクトップパソコンの方へ向かった。

 そんなに怖いなら無理に見ることもないのに、とは思う。それでも、きっと妹には必要なステップだったのだ。

 自分が本当に人を殺したのか。

 客観的にもその真実を知りたかったのかもしれない。


 ディスプレイの入力を切り替えると、予想通りテレビにつながった。

 時間は午後六時過ぎ。ちょうど夕方のニュース番組が流れる時間帯だ。

 ニュースは他愛もない珍事から、全国的な極悪事件、有名人の不祥事など誰も見向きしないような報道をつらつらと連ねている。

 妹の事件はまだ調査中なのだろうか。

 もう少し時間を空ける必要があるかもしれない、とディスプレイの電源を消そうと思ったその時だった。


『本日未明、○市の△公園で□学校の女子生徒と思われる少女の遺体が発見されました。警察は……』


 それは、僕らが住んでいる市の、僕らの家の近くにある公園の、妹が通っている学校名だった。

 これで名実ともに、僕らは犯罪者となってしまった。

 蛙の子は蛙とよく言うが、犯罪者の子はやっぱり犯罪者だったのだ。

 僕と妹は、テレビから流れるニュースをじっと眺めながら、一言も発せられずにいた。


 そして、気が付いた時にはニュース番組は終わっていて、何の生産性もないバラエティ番組が流れていた。

 僕は頬杖をついた状態で固まっており、妹は体育座りの状態で自分の顔を膝の中に埋めていた。


「なぁ、痛いのと苦しいのどっちがいい?」

 

 僕は妹の方へ向かず、遠くを見たまま、ぼそりと呟いた。

 言うまでもなく、どうやって死にたいのかということだ。


「………………」


 妹からの回答はない。

 それもそうか。

 今のはあまりにも唐突すぎた。

 もう少し精神を落ち着けてからでも良かったかもしれない。


「痛いの」


 妹は短く、でもはっきりと僕の問いかけに返答した。


「最後まで、私は生きてたって実感が欲しい」

「そっか……わかった」


 僕は妹の背中を優しくなでて、彼女にもう寝ようと、横になるよう促した。


「お兄ちゃん……も……」


 座ったまま寝ようとする僕の服を引っ張って、妹が隣に僕が寝る用のスペースを用意してくれる。

 参ったな。兄として格好つけようかと思っていたが、妹にこうして甘えられると断る方がむしろ悪者になってしまう。

 

「ありがとう」


 僕は妹にお礼を言うと、フラットシートの上で横になる。

 家のベットに比べるとお世辞にも寝心地が良いとは言えなかったが、疲れた体には染み込んでいくように心地良かった。

 さて、このまま寝てしまうのも一興だったが、その前に明日以降のことを決めておきたいと思った。

 何せ何も決めずに飛び出してきてしまったから。

 このままだと捕まるのは時間の問題だ。

 何の目的も決めずにただ逃げ回るだけというのは、死ぬために逃げている僕らにとっては何か違うような気がした。


「ねぇ、お兄ちゃん。このまま北に逃げていくの?」


 隣で横になっている妹からの声だ。もう寝てしまっていたと思ったが、どうやら僕と一緒で明日のことを考えていたらしい。


「どうしようかな。お前はどこか行きたいところでもあるの?」

「私……私は最後におじいちゃんとおばあちゃんに会いたい」


 妹から、今日一番の生気のこもった声だった。


「そっか、じゃあそうしよう」


 僕も間髪入れず妹の提案に同意した。

 妹の言うおじいちゃんとおばあちゃんとは、母方の祖父母のことだ。

 彼らは、父親の事件があった後も僕らのことをまで気に掛けてくれていた。

 そう、最後まで。

 僕らの大好きな祖父母はもうこの世にいない。

 だから、最後にお墓参りをして、その後に死にたい。

 妹が主張したいのは、つまりはそういうことだ。


「もう少ししたら、会いに行くよ」


 僕はネットカフェの天井を見ながら、天国で見守る祖父母に向かって、アポイントを取り付けた。

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