逃避行

 『目には目を歯には歯を』という言葉があるが、この言葉は現代社会における一つの心理だと僕は思っている。

 というのも、今の社会において加害者になるのは酷く簡単で、指先一つで他人を死に追いやることができるからだ。

 それなのに、彼らには見合った罰が与えられるわけでもなければ、被害者に適切なケアがされるわけでもない。

 人を一人殺そうとも、主犯格でなければほとんどが無罪放免みたいなものだ。

 あなたは人を死に追いやった。あなたは人の人生を滅茶苦茶にした。それでも、あなたは罪に問われない。

 この世界は、まるで僕の中学時代の延長じゃないか。

 だからといって、別に私刑に賛同するわけではないが。

 それでも、やらざるを得ない場面も、やらなければならない場面もきっとあるのだろう。

 妹のやったことは紛れもない犯罪だ。

 しかし、僕には彼女の行いが、完全な悪だとどうにも思うことができなかった――。


 ◆


 時刻はお昼を少し過ぎたあたり。家には僕と妹以外に誰もいなかった。

 母さんは、この時間はパートに出ている。近くのスーパーで惣菜を作っているはずだ。

 最後に一目見ておきたい。なんて、心の奥から弱気な自分が顔を覗かせる。

 

「でも……」


 僕はちらりと、妹の脱ぎ捨てられた制服を見る。

 本来白いはずのシャツは血で真っ赤に染まっており、スカートは刃物のようなもので切られた跡が残っている。

 僕らはもう日常には戻れない。人を殺した妹と、その妹のために心中しようとする僕。

 すでに非日常は始まっている。

 ここで感傷に浸っていては先が思いやられるぞ、全く。

 僕の2つに分かれようとしていた心は、すんでのところでギリギリ形を保っていた。


 妹には、まずはシャワーを浴びてくるよう指示を出してある。顔と髪がボロボロで、制服も返り血で汚れていた。

 死ぬにしろ、逃げるにしろ、これが最後のシャワーになるかもしれない。

 いつ警察にバレるかわからないため、あまり悠長なことはしていられなかったが、妹のためにもこれだけは譲れなかった。

 数分後、シャワーから出てきた妹と合流した。服も制服から動きやすい私服に着替えている。

 砂まみれでボロボロだった髪の毛は、元の艶やかな黒髪に戻っていた。顔にできた青あざがまだ目立つが、それでも先ほどよりはだいぶマシだろう。

 血まみれの制服はゴミ袋に詰めて、僕の部屋の押し入れの奥に詰め込んでおいた。

 警察の家宅捜索が入れば一瞬で見つかるだろうが、逆に言えばそれまでは簡単には見つかることもないはずだ。

 僕は一通りの準備を終えると、妹を呼んでこの家にお別れを告げた。


「それじゃあ、行こうか」

「うん……」


 妹は僕の服の裾を掴みながら、下を向いて歩いている。

 背中にはシャワーを浴びている間に僕が準備していたリュックサックを背負っている。

 数日分の着替えと家の中で見つけたパンや缶詰に水、数千円の現金を入れた財布が入っている。

 さらに、僕のリュックサックにはそれとプラスして、キッチンから拝借した包丁と母さんの睡眠薬を入れてある。

 僕らは生きるために逃げるのではない。死ぬために逃げるのだ。

 外はいまだにうだるような暑さが続いている。

 このまま外で寝転がるだけでも死ぬことができそうだが、妹が望んでいるのはきっとそんな最後ではないのだろう。

 僕らは最寄り駅まで、タクシーで移動した。

 目的地なんて特になかったが、逃避行と言えば電車と言うのが僕の感覚だった。

 妹も黙って僕の後をついてくる。依然として僕の服の裾は、妹の手と繋がっていた。


 ◆

 

「ありがとうございました」


 僕はタクシーの運転手に挨拶をすると、駅に貼られている電車の時刻表を確認した。

 あと五分もしないうちに次の電車が来るようだ。

 この電車に乗ると、僕らは北へ逃げることになる。

 今よりは少しでも涼しいところで最後を迎えられるかもしれない。

 ほんの少しの期待を抱きながら、僕らは閑散かんさんとしている電車に乗り込んだ。

 明日から夏休みの学校が多いため、学生だらけだと考えていたが、昼もとうに過ぎた時刻。

 ちょうど人も少なくなってくる時間帯だったのだろうか。

 僕らはボックスシートの座席に、横並びで腰かけた。

 いつもの妹なら「狭いから嫌!」と、絶対に文句を言うのだが、今日は逆に僕から一ミリも離れようとしなかった。

 僕の肩に妹の体重がのしかかってくる。

 甘えているというよりも、ボーっと遠くを見ているようで、心は外に置いてきてしまったかのようだ。

 

 電車は発車時刻になると、音を立てて扉を閉め、ゆっくりと動き出した。

 窓に映る景色が、刻一刻と移り変わっていく。

 僕が午前中までいた学校も見えた。

 グラウンドでは、サッカー部や陸上部の生徒が練習に明け暮れている。

 僕には眩しすぎるその光景に思わず目を閉じた。そして、次に開いた時には見覚えのない住宅街の光景が広がっていた。

 慌てて後ろを振り返ってみたが、有象無象の家に邪魔されてもう一度その光景を見ることは叶わなかった。

 もしかして、僕は今更後悔しているのか。そんな疑問が頭をよぎる。

 いや、そんなことはないはずだ。僕には親しい友人もいなかったし、中学時代はいじめられていた。

 今更やり直したいことなんてあるはずがない。

 僕は頭の中で何度も同じ結論に至っては、「でも」「もしも」といった弱気な自分を否定した。

 そして、下を向いたまま無言で隣に座る妹を見る。

 妹には、今は僕しか見方がいない。

 

「僕がついている」

 

 僕は、僕の服の裾を掴む妹の手をそっと握った。

 誰に誓った言葉だったのか。僕と妹しかいないのだから、きっと妹への言葉だろう。

 流れる景色を見ながら、僕は何度もその言葉を反芻はんすうした。

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