第8話 「気のせい」

 月曜日の朝、春日は来なかった。

 発熱で休みだと一ノ瀬から聞いた。              三十八度二分。         インフルエンザの疑いがあるので自宅待機、ということだった。

「先生、今日の第一オペの器械出し、私が入ります」と一ノ瀬は言った。

「わかりました」と玲奈は答えた。

 それだけだった。とくに何も思わなかった。

 ——思わなかった、はずだった。

 午前十時、第一オペが始まった。

 胆嚢摘出。難しくない手術だ。 三十分もあれば終わる。      玲奈はメスを持ちながら、いつも通り術野を見た。

 一ノ瀬の仕事は丁寧だった。  指示通りに動く。過不足ない。

 なのに玲奈は、十分が経った頃から妙な感覚を覚えていた。

 何かを、待っている。

 次の器具を、誰かが差し出してくれるのを——言葉にする前に、差し出してくれるのを——待っている自分がいた。

 もちろん一ノ瀬は指示がなければ動かない。当然だ。それが正しい。玲奈が「鉗子」と言えば鉗子が来る。              何も問題はない。

 問題は、ない。

 ——ないはずなのに。

 オペの中盤、玲奈は一瞬だけ視線を左に流した。

 春日がいる場所だった。

 そこには一ノ瀬がいた。

 玲奈は術野に視線を戻した。

 集中しろ、と自分に言った。

 いつも通りやればいい。    今日も、昨日も、一年前も、春日がいない日はあった。       そのたびに普通に手術をしてきた。

 何も変わらない。

 何も——

「先生?」一ノ瀬の声がした。  「鉗子、ですか?」

 玲奈は自分が手を止めていたことに気づいた。

 一秒にも満たない停止だったかもしれない。でも止まっていた。

「……そうです、鉗子」

 玲奈は何事もなかったように続けた。

 オペは問題なく終わった。

 更衣室に戻りながら、玲奈は自分の右手を見た。

 執刀医の手が、迷うことなどあってはならない。

 なぜ止まった。

 答えは出ていた。出ていたが、認めたくなかった。

 慣れの問題だ、と玲奈は思った。

 春日と組む回数が増えたから、そのリズムに慣れてしまっただけだ。

 それだけだ。次からは意識して切り替えればいい。

 ——慣れの問題。

 そう、三回繰り返した。

 昼休み、玲奈は医局で一人コーヒーを飲んでいた。

 スマホに、見覚えのない番号からメッセージが届いていた。

 開くと、一言だけだった。

「明日は出られます。ご迷惑おかけしました。 春日」

 玲奈は画面を見た。

 なぜ自分の番号を知っているのか、と思った。         緊急連絡網だ、とすぐに気づいた。

 返信しようとして、やめた。

 何を書けばいいのかわからなかった。

 「そう」 と打って、消した。

 「わかりました」 と打って、  消した。

 「無理しないように」 と打って、一番長く画面を見て、消した。

 結局、何も送らなかった。

 スマホを伏せて、コーヒーを飲んだ。

 ——気のせいだ。

 今日は、気のせいが多い日だった。

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