第9話 「先生は気づいていない」

一ノ瀬サキと研修医の村上ケンタは、ナースステーションで静かに観察していた。

 観察対象は、廊下を歩く黒崎玲奈だった。

「ほら、また見た」と一ノ瀬が小声で言った。

「見ましたね」と村上も小声で返した。

 玲奈は廊下を歩きながら、春日とすれ違った。

 すれ違いざまに、ほんの一瞬だけ、春日の方を見た。

 すぐに前を向いて、歩き続けた。

「あれ、絶対気にしてますよね」

「絶対そうです」

「でも先生、気づいてないですよね、自分が」

「気づいてないです。完全に」

 二人は顔を見合わせた。

 事の始まりに気づいたのは、   一ノ瀬が最初だった。

 ある日、オペ後に玲奈が春日の背中を見ていた時間を、一ノ瀬は正確に計測していた。        七秒だった。          黒崎玲奈が誰かの背中を七秒見るなど、過去に一度もなかった。

 一ノ瀬はすぐに村上に報告した。

 村上はすぐに桜田に報告した。

 桜田は「えっ、あの黒崎先生が?」と言って、それから毎日観察を始めた。

 現在、観察員は五名になっていた。

 昼、食堂で桜田と後輩看護師の田中が向かい合っていた。

「今日ね」桜田が声を潜めた。  「先生が春日さんの書いたオペ記録、二回読んでた」

「二回?」

「普通一回読んだら終わりじゃないですか。でも先生、一回読んで、次のページ開いて、また戻って読んでた」

「それって春日さんの記録だから?」

「絶対そう」

 田中は「怖いくらい気づいてないですね」と言った。

「完璧主義の人って、自分のことだけ見えなくなるんですよ」と桜田は妙に真剣な顔で言った。「これ、私の経験則」

 午後、中村医師が医局で玲奈に声をかけた。

「黒崎先生、最近春日くんに優しくなりましたね」

「なってません」

「いや、なってますよ。先週、春日くんがカルテ落としたとき、怒鳴らなかったじゃないですか」

「あれは怒るほどでもなかっただけです」

「一ヶ月前は怒ってましたよ、同じことで」

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