第7話 「春日くんの話」

 一ノ瀬から話を聞いたのは、偶然だった。

 木曜日の昼休み、玲奈が医局でカルテを整理していると、一ノ瀬が弁当を持って入ってきた。他に誰もいなかった。

「先生、ここいいですか」

「どうぞ」

 一ノ瀬は向かいの椅子に座り、弁当を広げた。

 しばらく二人とも黙っていた。 玲奈はカルテを、一ノ瀬は弁当を、それぞれ相手にしていた。

「先生って」一ノ瀬が不意に言った。「春日くんのこと、どう思います?」

 玲奈は顔を上げなかった。「仕事ができない人だと思ってます」

「手術室以外では、ですよね」

 玲奈は答えなかった。

「先生、知ってます?春日くんがなんでオペ看になったか」

 今度は、顔を上げた。

 一ノ瀬は箸を置いて、少し遠くを見るような目をした。

「春日くんの妹さん、小さい頃から心臓が悪くて。小学生のうちに三回、手術してるんです」

 玲奈は黙って聞いた。

「春日くん、お兄ちゃんだから、 妹さんのことすごく心配で。   でも手術室には入れないじゃないですか。廊下で待つしかない。妹さんが手術室に消えていくのを、ただ見てるしかなかったって」

 一ノ瀬は弁当のふたを閉めた。

「で、三回目の手術が終わって、妹さんが運ばれてきたとき。一緒についてきたオペ看さんが春日くんに言ったらしくて。『ずっとそばにいましたよ』って」

 玲奈は息を止めた。

「それだけなんですよ。たったそれだけなんですけど、春日くんはその言葉が忘れられなくて、オペ看になったって。私、去年の飲み会で酔った春日くんから聞きました」

 一ノ瀬は「ごちそうさまでした」と立ち上がった。

「なんで私に話したんですか」

 玲奈は聞いた。

 一ノ瀬は少し笑った。

「なんとなく、先生に知っておいてほしかったので」

 それだけ言って、部屋を出て行った。

 玲奈は一人になった医局で、  カルテの前に座ったまま動けなかった。

 ずっとそばにいましたよ。

 その言葉が頭の中で繰り返された。

 廊下でカルテを散らかす男。  コーヒーをこぼす男。         モップを倒す男。

 でも手術室では誰より早く気づいて、誰より静かに動いて、誰にも気づかれないように支える男。

 ——ずっとそばにいる。

 それが、春日蒼介の始まりだったのか。

 玲奈は窓の外を見た。

 曇り空だった。

 なぜか、目の奥が少し熱くなった。

 玲奈はそれを認めないまま、カルテに視線を戻した。

 翌日。

 春日はまた廊下で誰かにぶつかった。

 ぶつかった相手は研修医の村上で、二人同時に「すみません」と言って、どちらも書類を落とした。

 玲奈はその場面を見ていた。

 いつもなら「春日くん、しっかりしなさい」と言う。

 今日は、言えなかった。

 春日が顔を上げて、玲奈と目が合った。

 玲奈は視線を逸らして、足早に歩いた。

 ——ずるい、と思った。

 なぜずるいのかは、まだわからないことにした。

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