第6話 「手術室の外」
黒崎玲奈は休日が苦手だった。
何もしないでいると、頭が勝手に動き出す。 明日のオペのこと、先週の縫合のこと、あの患者の術後経過のこと ——仕事のことばかり考えて、気づいたら夕方になっている。
だから休日は、外に出ることにしていた。
近所の商店街を歩いて、スーパーで食材を買って、コーヒーショップで本を読む。それだけでいい。 頭が少し、静かになる。
今日もそのつもりだった。
商店街のコーヒーショップに入ったとき、玲奈は列の中にその背中を見つけた。
見覚えのある肩幅だった。
見覚えのある、少し猫背の立ち方だった。
——まさか。
「次の方どうぞ」と店員が言った瞬間、その人物が振り返った。
春日蒼介だった。
病院の外で見る春日は、なんだか妙だった。 スクラブでも白衣でもなく、くたびれたグレーのスウェットを着ていた。髪も少し寝癖が残っていた。
春日は玲奈を見て、一秒だけ固まった。
「あ」
「……あ」
二人同時に、間抜けな声を出した。
「先生、休みですか」
春日は特に緊張した様子もなく言った。
「そうです」玲奈は少し姿勢を正した。 「あなたも?」
「はい。今日は非番で」
それだけ言って、春日はレジに向き直った。
「アイスコーヒーひとつ」と注文して、財布を出した。財布はくたびれたナイロン製で、マジックテープが半分剥がれかけていた。
玲奈はなぜかそれが気になって、目を逸らした。
注文を終えた春日が振り返ると、玲奈はまだそこに立っていた。
「先生、相席、どうですか」
春日が言った。
玲奈は「別に」と答えた。 「混んでるから」
混んでいた。それは本当だった。
窓際の二人席に、並んで座った。
向かい合わせではなく、横並びで外を向く席だった。玲奈は本を開いたが、文字が頭に入ってこなかった。
春日はスマホを見ていた。 真剣な顔だった。
「何を見てるんですか」
聞くつもりはなかった。口が動いていた。
「料理の動画です」春日はスマホを少し傾けた。「煮物の作り方」
「……自炊するんですか」
「一人暮らしなんで」
それだけだった。 春日はまた動画に視線を戻した。
玲奈は本に視線を戻した。やはり文字が入ってこなかった。
しばらく沈黙が続いた。
不思議と、嫌な沈黙ではなかった。
春日が不意に言った。
「先生って、休みの日も怒ります?」
玲奈は顔を上げた。
「怒りません」
「そうですか」春日は少し笑った。「なんか、怒ってる顔で本読んでるから」
「考え事をしてただけです」
「何を」
「……仕事のことです」
春日は「ああ」とうなずいた。「先生、休みの日も仕事のこと考えてそう」
「あなたには関係ない」
「そうですね」 春日はあっさり言った。 「でも、たまには忘れた方がいいですよ。コーヒー、冷めますよ」
玲奈はカップを見た。
たしかに、まだ一口も飲んでいなかった。
三十分後、先に立ち上がったのは春日だった。
「じゃあ先生、お疲れ様です」
白衣のない「お疲れ様です」 は、なんだかおかしかった。
「……お疲れ様」
玲奈は思わず返した。
春日は店を出て、商店街の人混みに消えていった。
スウェット姿の、猫背の背中だった。 手術室で見る背中とは、まるで違う。
玲奈はコーヒーを一口飲んだ。
少し冷めていた。
——なぜか、悪くなかった。
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