第5話 「ありがとう、は言わない」

その日のオペは、最初から空気が重かった。

 執刀は玲奈ではなく、外科部長の相沢だった。

 相沢修二、五十四歳。経験豊富で、院内では「神の手」と呼ばれることもある。          玲奈はその呼び名が好きではなかった。              神の手などというものは存在しない。              あるのは積み重ねた技術と、慢心しない精神だけだ。

 そして相沢は今日、明らかに慢心していた。

 玲奈は助手として隣に立ちながら、それを感じていた。

 昨夜、学会の懇親会があったらしい。相沢の動きがわずかに鈍い。  集中が、薄い。

 器械出しは、春日だった。

 オペが中盤に差し掛かったとき。

 相沢が言った。「次、持針器」

 春日は動かなかった。

 一秒。二秒。

「春日くん」相沢の声に苛立ちが混じった。            「持針器」

「先生」春日が静かに言った。  「確認していいですか」

「何を」

「縫合部位です」

 場の空気が変わった。玲奈は術野を見た。

 ——あ。

 相沢が縫合しようとしていた部位が、ずれていた。        わずかに、しかし致命的に。   このまま縫えば、後で問題が起きる。

 相沢は三秒間、沈黙した。

「……そうだな」

 低い声だった。相沢は術野を確認し、位置を修正した。      それだけだった。誰も何も言わなかった。春日も何も言わなかった。

 オペはそのまま、何事もなく終わった。

 片付けの時間、相沢はさっさと手術室を出た。

 玲奈は手袋を外しながら、春日を見た。

 春日はいつも通り、器具を並べていた。

「春日くん」

 春日が振り返った。

 玲奈は口を開いた。

 ——ありがとう。

 その言葉が、喉の手前で止まった。

 なぜ止まったのか、自分でもわからなかった。ただ止まった。出てこなかった。

「……器具の片付け、ちゃんとやっておきなさい」

 出てきたのは、それだった。

 春日は一瞬だけ、玲奈の顔を見た。

 何かを読もうとするような目だった。

 それからまた器具に視線を戻して「はい」と言った。

 廊下に出た玲奈は、足を止めた。

 窓の外に夕陽が落ちかけていた。オレンジ色の光が廊下の床に長く伸びていた。

 今日、相沢の失敗を止めたのは春日だった。

 助手として隣に立っていた自分より、先に気づいた。

 声を上げた。部長を前にして、臆せず。

 玲奈は目を閉じた。

 ありがとう、と言えばよかった。

 たった五文字だ。言えないはずがない。

 なのに言えなかった。

 ——なぜ。

 その問いの答えを、玲奈は探さないことにした。

 探したら、何かがわかってしまう気がした。

 まだ、わかりたくなかった。

 翌朝。

 春日はナースステーションで、コーヒーをこぼした。

 キーボードの上に、盛大に。

「春日くん!」

 玲奈の声が廊下に響いた。

「す、すみません」

「なんで毎回こぼすんですか!雑巾持ってきなさい、早く!」

 春日は小走りで駆けていった。

 玲奈は濡れたキーボードを見ながら、深く息を吐いた。

 昨日のことは、忘れることにした。

 ——忘れられるかどうかは、別として。


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