第4話 「怒る理由」

黒崎玲奈は、怒るのが得意だった。

 正確に言えば、怒る理由を見つけるのが得意だった。

 器具の配置が一センチずれていれば指摘する。           報告が三十秒遅ければ注意する。 気の緩んだ研修医には容赦なく言葉を返す。それが患者を守ることだと、十五年間信じてきた。

 だから春日蒼介を怒るのも、当然のことだった。

 ——そのはずだった。

 木曜日の朝、玲奈はカルテを見ながらコーヒーを飲んでいた。

 医局は静かだった。早く来すぎた。

 窓の外はまだ薄暗く、病院の駐車場にぽつぽつと車が増え始めていた。

 なぜ春日くんに怒るのか、と同僚の中村に昨日聞かれた。

 廊下で、何気なく。「黒崎先生って春日くんにだけ怒り方が違いますよね」と。

 玲奈は「仕事ができないからです」と即答した。

 中村は「そうですかねえ」と笑って去っていった。

 その「そうですかねえ」が、なぜか頭に残っていた。

 仕事ができない。

 それは本当か。

 玲奈はコーヒーカップを置いて、腕を組んだ。

 廊下では確かにダメだ。     器具は落とす、書類は散らかす、 先週は患者の名前を二人分混同しかけた。あれは本当に肝が冷えた。

 でも。

 手術室では——。

 玲奈の脳裏に、先週のオペが浮かんだ。

 自分が次に動く前に、器具がそこにある。

 視野がクリアになる瞬間、必ず春日の手が動いている。

 三十分前から患者の異変に気づいていた夜のことも。

 ——仕事ができない、とは言えない。

 ではなぜ怒るのか。

 玲奈は静かに、自分に問いかけた。

 答えが出ないまま、午前のオペが始まった。

 今日の器械出しは一ノ瀬だった。春日ではない。

 一ノ瀬は優秀だ。指示通りに動く。無駄がない。玲奈の言葉に素直に従う。

 オペは順調に進んだ。

 でも玲奈は、途中から妙な感覚を覚えていた。

 何かが、足りない。

 いや、足りないわけではない。 一ノ瀬の仕事は完璧だ。

 ただ——

 次の動きを、読まれていない。

 玲奈がそう気づいたのは、オペの終盤だった。

 自分は今まで、器械出しに「次を読まれること」を当たり前だと思っていなかった。         それが当たり前でないと知ったのは、いつからだ。

 春日と組むようになってからだ。

 ——まずい。

 玲奈は術野に集中しながら、内心で首を振った。

 オペ後、器具の片付けをしている一ノ瀬に玲奈は言った。

「今日はよかったです」

「ありがとうございます」と一ノ瀬は嬉しそうに笑った。      「春日くんと違って私、怒られないかなってドキドキしてました」

 玲奈は少し間を置いた。

「……私、春日くんをそんなに怒りますか」

「怒りますよ」一ノ瀬は即答した。「でもなんか、春日くんへの怒り方だけ、熱量が違う気がして」

「熱量」

「なんか……一生懸命というか」

 一ノ瀬は「あ、言いすぎました、すみません」と笑って部屋を出た。

 玲奈は一人残された手術室で、使い終わったガウンを脱ぎながら考えた。

 熱量が違う。

 一生懸命。

 ——なぜ、あんなに怒るのか。

 答えはまだ出なかった。

 ただひとつだけ、はっきりしたことがあった。

 自分は今まで、誰かに「読めない」と感じたことがなかった。

 春日蒼介は、読めない。

 それが怒りなのか、それとも別の何かなのか。

 

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