第3話 「ナースコールの夜」

春日蒼介が手術室専属でなく、   週に二日、一般病棟のシフトにも入るのは、人手不足という名の病院の都合だった。

 本人はとくに文句も言わない。 ただ病棟に来ると、なぜか被害が広がる。

 今夜もそうだった。

 配膳の盆を引っかけて、廊下に夕食のみそ汁が広がった。

 拭こうとして、モップを倒した。

 モップを拾おうとして、ナースステーションのドアに頭をぶつけた。

「春日くん、大丈夫?」と新人の看護師・桜田が心配そうに聞いた。

「大丈夫です」と春日はおでこを押さえながら言った。

「なんか、春日さんっていつも…」

「いつも?」

「いや、なんでもないです」

 桜田は言葉を飲み込んで、カルテの整理に戻った。

 春日は床のみそ汁を黙って拭いた。

 夜九時を過ぎた頃、玲奈は病棟に来ていた。

 明日オペを控えた患者の状態確認だ。入院している六十二歳の男性、田所さん。膵臓の手術は難しい。前日の状態は自分の目で見ておきたかった。

 田所さんの部屋を出て、ナースステーションに戻ろうとしたとき。

 春日がいた。

 廊下の端、四人部屋の前に立っていた。

 ドアのわずかな隙間から、中を見ていた。

 玲奈は足を止めた。

 ——何をしているの。

 声をかけようとした、そのとき。

 春日が動いた。

 ドアを静かに開けて、部屋に入った。足音がしなかった。     あの廊下でモップを倒す男と、  同じ人間とは思えない動きだった。

 玲奈は何かに引っ張られるように、後を追った。

 部屋の中では、四人の患者が眠っていた。

 春日は窓際のベッドに近づいていた。七十歳前後の男性患者。   ナースコールは鳴っていない。  モニターのアラームも沈黙している。

 春日は患者の顔を見て、手首に触れた。

 それから振り返り、玲奈を見た。

 驚いた顔はしなかった。

「先生、この方、呼吸が浅いです。脈も少し」

 静かな声だった。

 玲奈はすぐにベッドに近づいた。たしかに、呼吸が浅い。      顔色が悪い。          モニターの数値はまだ正常範囲内だったが——あと十分もすれば、アラームが鳴っていた。

「いつ気づいたの」

「三十分前に廊下を通ったとき、なんとなく気になって」

「なんとなく」

「はい」

 玲奈はナースコールを押して当直医を呼んだ。手際よく対応しながら、頭の中で考えていた。

 なんとなく、気になった。

 モニターは正常だった。ナースコールも鳴っていなかった。

 なのにこの男は、ドアの前で三十分、この患者を見ていた。

 騒ぎが落ち着いた後、玲奈は廊下で春日と並んでいた。

「なんで気づいたの」

 もう一度聞いた。

 春日は少し考えてから言った。

「なんか、寝方が違うなって」

「寝方」

「いつもと寝方が違うと、なんか……気になるんですよね」

 玲奈は春日を見た。

 春日は特別なことを言った顔ではなかった。ただ当たり前のことを言った、という顔だった。

「……春日くん」

「はい」

「モップ、ちゃんと元の場所に戻しなさい。廊下に転がってました」

「あ、すみません」

 春日は小走りで廊下を戻っていった。

 玲奈はその背中をしばらく見ていた。

 さっきまでと同じ、頼りない背中だった。

 なのに、どうしてだろう。

 ——目が、離せなかった。

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