第2話 「見えているの誰か」

翌週の月曜日、春日蒼介はまたやらかした。

 朝イチで滅菌パックを破いた。

 ゴミ箱に捨てようとして、隣の器具トレーを巻き込んで落とした。

 大きな音が手術室の準備室に  響き、一ノ瀬が「春日くーん」と疲れた声で言った。

「すみません」

「何回目ですか今月」

「……四回目」

「正直なのはいいことだと思います」

 一ノ瀬は優しい先輩だった。  こんな男をまだ見捨てていないのだから。

 そこへ玲奈が入ってきた。

 準備室に散らばった器具を一瞥 して、春日を見て、深く息を吸った。

「春日くん」

「はい」

「今日の第二オペ、あなたです」

「……はい」

「覚悟してきなさい」

 何の覚悟なのかは言わなかった。たぶん玲奈自身もわかっていなかった。

 第二オペは胃の部分切除だった。

 難易度としては高くない。    だが患者は七十四歳、基礎疾患も ある。丁寧に、確実に進める必要があった。玲奈は淡々とメスを走らせながら、術野を確認していた。

 助手の研修医・村上が、緊張で 呼吸が浅くなっているのがわかる。

 ——まったく、と玲奈は思った。もう少し落ち着いて術野を見なさい。

 そのとき。

 春日が動いた。

 ほんの少しだけ、ガーゼの当て方を変えた。玲奈が次に視線を動かす、その一秒前に。

 玲奈はそれに気づかなかった。

 ただ、視野がいつもより鮮明だと感じた。

 「やりやすい」と思った。それだけだった。

 三十分後、オペは順調に進んでいた。

 村上が「先生、ここの処理は——」と言いかけたとき、春日がすっと吸引管を差し出した。

 村上は受け取り方もわからず、 目を泳がせた。

 玲奈が手を出す前に、春日の吸引管が視野を確保していた。

 玲奈は言った。「村上先生、ここは——」

 説明しながら、玲奈はふと思った。

 なぜ今、こんなに視野がクリアなのか。

 隣を見た。

 春日はいつも通りの顔で立って いた。何かをした顔ではなかった。ただそこにいる、という顔だった。

 玲奈は視線を術野に戻した。

 オペが終わり、片付けをしながら村上が玲奈に言った。

「先生、今日すごくやりやすかったです。先生の指示が的確で」

 玲奈はうなずいた。「そう」

 部屋を出ながら、もう一度だけ春日を振り返った。

 春日は器具を丁寧に並べていた。何事もなかったように。

 ——見えていたのは、誰だったのか。

 玲奈はその問いを、廊下に出る前に頭の中で消した。

 気のせいだ、と思うことにした。

 翌朝、春日はナースステーションで書類を盛大に散らかした。

 玲奈はいつも通り怒った。

 春日はいつも通り、うなじを赤くした。


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