『オペ室では、別物です』
松本 城二
第1話 「最低のオペ看」
手術室というのは、静かな戦場だ。 黒崎玲奈はいつもそう思っている。
一秒の判断が命を分ける。 だから彼女は妥協しない。 器具の並びひとつ、照明の角度ひとつ、自分の周囲にいる人間の質ひとつ——すべてに、妥協しない。
だから今日も、怒っている。
「春日くん」
声に温度はなかった。
「は、はい」
廊下の角で、男が固まっている。手に持っていたカルテが床に散らばっていた。 拾おうとしてまた落とした。 情けない音が廊下に響く。
春日蒼介、二十七歳。 手術室勤務の看護師——いわゆるオペ看だ。
身長はそこそこある。顔も悪くない。だが廊下を歩けば何かにぶつかり、ナースステーションでは必ずコーヒーをこぼし、先週は滅菌済みの器具を一式ひっくり返した。
「先週の件、反省しましたか」
「しました」
「どう反省しましたか」
「……深く」
玲奈は目を閉じた。こめかみに指を当てる。
「春日くん。あなたが本当にオペ看の資格を持っているのか、私は毎朝疑っています」
「そんな、毎朝は……」
「毎朝です」
言い切った。春日は何も言い返せずに、散らばったカルテを拾い集めた。 うなじが赤い。それだけが、この男の数少ない正直なところだと玲奈は思った。
——まったく。なぜこんな人間がうちの手術室に配属されるのか。
玲奈は踵を返して歩き出した。
午後二時。緊急オペが入った。
腹部大動脈瘤の破裂。一刻を争う。 玲奈はすでにガウンをつけながら頭を切り替えていた。執刀は自分。 助手に田中。器械出しは——
「春日くんです」
スクラブナース の一ノ瀬が言った。
玲奈は一瞬だけ目を閉じた。
「……わかりました」
覚悟を決めて手術室に入る。
ドアが閉まった瞬間だった。
空気が、変わった。
玲奈は気のせいかと思った。 でも違った。 春日蒼介という男が、変わった。
廊下でカルテを散らかしていた男とは別人のように、彼は手術室に立っていた。無駄な動きがない。 目が、違う。どこか遠くを見ているようで、しかし手術台の上のすべてを見ている目だった。
「始めます」
玲奈が言うと同時に、春日の手が動いた。
求める前に器具がある。
言葉より先に、必要なものが手の中にある。
玲奈は十五年、メスを握ってきた。 これほど自分の「次」を読んでくる器械出しには、会ったことがなかった。
オペは四十分で終わった。通常より二十分速かった。
グローブを外しながら、玲奈はふと後ろを見た。
春日はすでに器具の片付けを始めていた。いつの間にか、またどこか頼りなさそうな背中に戻っていた。
玲奈は何も言わなかった。
言葉が、出なかった。
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