第31話 晴れ渡る空の彼方へ
「信康、もう行くのか」
徳川家康は、今まさに旅立とうとする我が子に、静かに声を掛けた。
豊臣秀吉がこの世を去り、名実ともに本格的な徳川幕府が開かれてから、少しの時が流れたある日のこと。信康は江戸城の拝謁の間に赴き、父である家康に、旅立ちの別れを告げに来ていた。
誰もが、徳川の次なる跡取りは長男であり、
数々の軍功を挙げた徳川信康になるだろうと信じて疑わなかった。しかし、家康が指名した次期将軍は、まさかの徳川秀忠であった。秀忠は、徳川に降った内政の天才・石田三成と共に、早くも誰も付け入る隙のない盤石な政権運営を行い、泰平の世の基礎を固めつつあった。
当の信康はといえば、正室・徳姫との間に生まれた子供にすべてを譲って家督を相続させると、「これからの余生は仏門に入り、諸国を行脚して巡る」と言い出したのである。家康もまた、息子のその決意を静かに了承していた。
当然、家臣団にはかなりの動揺が広がり、一時期は徳川の家中を激しく騒然とさせたが、それすらも、秀忠と三成が築き上げる非の打ち所のない新時代の影へと、穏やかに消えていった。
「父上。……私には、一生を掛けても返しきれぬほどの大きな恩を頂きながら、最期までこのような我が儘を通させていただき、感謝の言葉もございません」
深く頭を下げる信康。その言葉を受け、家康はフッと目を細めて微笑んだ。
「良い。……一周目では、ワシが頼りなく、お主に辛い苦労と迷惑をかけた。二周目にして、ようやく少しは親らしいことができたというものよ」
家康の温かい言葉に、信康は顔を上げ、穏やかな眼差しで返した。
「父上、それは違います。私にとっては、一周目の人生も十分に幸せでございました。……ただ二周目が始まった折、私の存在という弱さのせいで、今度は徳川が天下を取れぬのではないかとそればかりを危惧しておりました。ですが、流石は『神君』でございましたな」
信康の冗談交じりの賞賛に、家康は豪快に鼻で笑ってみせた。
「当たり前よ。先の世の記憶(情報)を持ち、一周目で散々ワシらの手を焼かせたあの真田をあらかじめ家臣に引き入れ、その上でお主がこれほど十二分に働いたのだ。これで取れぬ天下など、ある訳がなかろう。……まあ、予定外の、あまりにも大きな損失は残してしまったがな」
家康がそう溢した瞬間、二人の間に、ゴウと大きな風が吹き抜けた。
それはまるで、新しい一歩を踏み出す信康の旅立ちを、優しく促しているかのように。
信康は静かに目を閉じ、風を感じながら、心に秘めていた切ない本音を漏らした。
「私は……自分が生き延びるために、またしても大きな犠牲を出してしまいました。秀忠の世になり、戦を好む私のような無骨者は、もうこの日ノ本には必要なくなります。ならばこれからは、私の身代わりとなって犠牲になられた方々の魂を弔いながら、静かに余生を送りたいのです」
酒井忠次。あの花瓶についた、生涯消えぬ大きなヒビ。信康はその傷の重みを、一人で背負って歩もうとしていた。
そんな息子の背中を見つめ、家康はわざと明るい声を掛けた。
「おい、今生の別れのように申すな。気が向いたらいつでも、またワシの顔を見に帰ってこい。……そうだ、ワシはもう、暫く酒井忠次と話をしていなくてな」
家康は悪戯っぽく笑い、信康を見つめた。
「お主が仏門の修行で諸国を巡る折、あの世の忠次に会うことがあれば、こう伝えてくれ。――『お前がずっと気に病んでいた、息子の加増の件、よしなにしておいたぞ』とな」
「……!」
家康のその不器用で、どこまでも深い優しさに触れ、信康の胸に温かいものが込み上げる。
家康がガハハと笑い、信康もまた、抑えきれずに心からの笑顔を浮かべた。
乱世の重圧を落とした親子2人での笑いであった
別れの刻が満ちる。
その日は、吹き抜ける風こそ強かったものの、雲一つなく、どこまでも、どこまでも青く晴れ渡る一日であった。
信康は最後に一礼すると、振り返ることなく歩き出した。
江戸城の大門を抜けた先には、どこまでも続く街道が伸びている。
背後では、家康の豪快な笑い声がいつまでも聞こえていた。
『二度目の徳川信康は、父のために再び死のうとする。――死にたがる息子を、天下人の覇気を纏った家康が全力で救い出す逆転歴史劇。』 @michinototyuu
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