第30話 つきものが落ちた日


「家康様……お見事でした」

大坂城の長い回廊を歩みながら、小平太(榊原康政)は震える声で小さく漏らした。

先ほどまで寝所で交わされていた、主君・家康と太閤秀吉との、歴史の裏側をすべてひっくり返すような信じられない会話。それを間近で聞いた、偽らざる率直な感想であった。

薬研藤四郎を突きつけられ、信長暗殺の罪という「一瞬の隙」を自ら暴いてしまった秀吉。

激しい動揺ののち、大坂城の主は、諦めたようにゆっくりと口を開いた。

「……その事を今更天下に知らしめて、家康殿が天下を奪う算段であったか」

自嘲気味に笑う秀吉に対し、家康はただ静かに、その爛々とした目を向けた。

「秀吉殿。……もう良い加減に、その肩の荷を降ろすが良かろう」

低く、しかしすべてを包み込むような声音が寝所に響く。

「二度目も、お主に天下を預けてみた。……だが、やはり豊臣の天下というものは、秀長殿と蜂須賀(正勝)殿という両輪があって初めて形を成すものじゃ。我らもなるべく支えてはみたが、やはりお主一人の力では、上手くはいかぬな」

「二度目」という、秀吉には理解できないはずの家康の言葉。だが、今の秀吉にはそれを怪しむ気力さえなかった。ただ、遠い目をしてフッと息を漏らす。

「くく……徳川殿は、たまに訳の分からぬことを仰る。かつて、信長様の前でもそのようなことを言われておったな……」

そう呟いた秀吉の全身から、先ほどまで万の兵に匹敵していたあの恐ろしい威圧感が、霧が消えるように急速に失われていく。まるで、長い間その身にまとわりついていた悪霊の「つきもの」が、綺麗に落ちたかのようであった。

「徳川家康という怪物と天下を争い、優勢に事を進めた……。そのことだけでも、あの世で信長様に褒めてもらうとしよう。……わしの戦は、ここまでじゃ」

天下人の終わり。そのあまりに静かな幕引きの横で、魂を抜かれたように呆然と座り込んでいた男がいた。石田三成である。

信じていた豊臣の正義がすべて「まやかし」であったと知り、力が抜けきっている三成に対し、家康は静かに視線を移した。

「治部少輔(三成)。――我が徳川に味方して、共に日ノ本を良くする手伝いをしてくれぬか?」

静寂の中での、まさかのスカウトであった。

しかし、石田三成という男の芯は、この絶望的な状況下でも容易には折れなかった。目を見開き、奥歯を噛み締めながら、家康の誘いを真っ向から撥ね退ける。

「私は……私は、豊臣秀吉様にお仕えした身。決して二心は抱きませぬ! 秀頼様を支え、徳川の天下簒奪を、この命に代えても防いでみせまする……!」

あの恐るべき動揺の後ですら、なおも主君への忠義を叫んでみせた三成の胆力。

それを見た家康は、怒るどころか、諭すように再度三成へと語りかけた。

「治部少輔よ。今こそ大局を見よ。徳川の力は、すでに豊臣を遥かに超えておる。これ以上、天下万民のために大きな戦をしてはならぬ。……お前が掲げる『大一大万大吉』の旗印は、口先だけの偽りか?」

「なっ……!」

「争いのない、豊かな日ノ本を創る。そのためにこそ己の才を使い、民を大吉にするために命を燃やせ。それがお前の本懐のはずだ」

家康の放つ、圧倒的な主君としての絶対感。そして「民のために戦を避ける」という真の大局観の前に、三成はついに涙を流し、首を縦に振るしかなかった。

ただし、三成は男としての最期の意地をかけ、徳川に降る条件として「3つの誓約」を突きつけた。

一、太閤秀吉様の寿命が尽きるまでは、手を出さず静観すること。

二、豊臣の家を、大名として存続させること。

三、織田信長様の死の秘密(秀吉の暗殺容疑)を、決して公表しないこと。

これらはすべて、豊臣の最低限の誇りと主君の名誉を守るための条件であった。

後日、この和解の内容を知った本多忠勝や井伊直政らは、到底納得がいかないと家康の前に並び出た。

「家康様! 豊臣を今すぐ潰すべきです! あれは石田三成の時間稼ぎに過ぎませぬ、甘うございます!」

苦言を呈する血気盛んな重臣たちを見つめ、家康はただ、豪快に笑い飛ばした。

「平八郎、万千代。……秀吉殿や石田三成という男たちはな、その程度の器ではないわ」

家康の目は、どこか愛おしそうに大坂の空を向いていた。

「もし奴らがその程度の小者であったなら、本能寺の変の後、すぐにでも徳川の天下になっておったわ。好敵手を侮るな」

主君のそのあまりに巨大な器の大きさに、忠勝たちもそれ以上は何も言えなくなった。徳川の絆は、さらに強固な一枚岩となる。


徳川の花瓶は酒井忠次と言う大きなヒビをつけた。


その傷を抱えながらも見事な美しさを持つ花瓶に今天下と言う花が添えられるのであった。

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